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2018年3月

「迷走する瞑想集981」 2018/03/29

国土交通省大阪航空局は、近畿財務局が例の土地を売り出す時 「あまり鑑定額通りの地価で売り出すと
買い手が付かない恐れがありますよ」 と注意しなかったのであろうか?  それ以前に
公園用地として売った時、「売却価格 ー 補助金」 で、結局ただ同然で手放した事実を踏まえて。


いや近畿財務局も知っていたはずなのだ。  なぜなら隣に隣接する同じ国有地だったのだから。
しかし当初の売値は、真っ当な評価額によるそのものズバリだった。  当然、競争入札になどすれば
「不調(落札できず)」 に終わることは目に見えている。  だから、「随意契約」 にしたのではないか?


実際その最初の段階で、他の学校予定地の候補者の見積額が、予定価格より低すぎてはねられている。
M学園は予定価格を上回っていたが、それでも即買い取りでは無理で貸借契約を結んでいる。
なぜそうまでして、近畿財務局は 「高値で売りたい」 に固執したのか? が、疑問なのだ。


それでもまあ差引勘定から見れば、先の公園用地よりは高値で売れたのは事実だが・・・。

「迷走する瞑想集980」 2018/03/28

M学園に売却予定の土地を、予定価格を決めるにあたって前もって、不動産鑑定士に評価してもらったことは
土地取引では当然の順序なのであろう。  疑問なのは、その時点で隣の国有地がプラスマイナスただ同然で
売られていたことを、まったく評価に加えていない点である。


高速道路予定地から離れた土地であっても、その時点で評価額は変動する。  まして、隣の同じ国有地である。
同じくゴミが埋まっていることも分かっていたはずだ・・地下の量までは把握できないにしても。  だから
いちばん最初の時点で、二束三文の予定価格にしていたら、なにもこんな大騒ぎにはならなかっただろうと思う。


買う方だって8年貸借とかじゃなくて、すんなり売買交渉でまとまったような気がする。  それを
高い金額を頑としてまけないから、頭にきたのと違うのか?・・という推理も成り立つ。
だって隣の土地を、破格の値段で売っていたのを見ているのだから。


もっとも、最初から二束三文の値段で売り出していたら、またも野党に突っつかれるような気はするし
地方自治体からも、嫌な顔はされるだろう・・評価額が下がれば、固定資産税収入が減るから。
その上、土地を担保にして金を借りている住民は、気が気ではあるまい。


ここらへんのやりとりが、全然表に出てこない。
もっとも事案が無事完了してしまえば、途中経過などは 「打ち合わせ参考資料」 として
すぐに破棄されてしまうのだろう。  交渉の場では、生々しい言葉が飛び交うから。
S氏の証人喚問の答弁でも、そのようなことを言っていたような気がする。


もし仮に誰かが 「安い値段では売り出さないでくれ」 と、財務省に要請したとしたら
これはどんな罪になるのであろうか?
高い値段を推奨しているのだから、少なくとも国損を与えるつもりはないといえる。  だから
その点では会計検査院は動かないはずだ。  しかし


高すぎる値段を付けさせることによって、永久に土地の買い手が付かなくなる恐れはある。  その場合は
売れる物を売れなくしたのだから、国損を与えたことになりはしないか?  幸い売れたからいいようなものの
・・当初の理財局の目論見からは、かなり後退はしているが。


我々は値切った方を悪い奴とみているが、一概にそうとばかりは言えない、のではないだろうか?
自由な交渉の手足を縛ったのなら、結果はどうあれいかがなものかと・・・。

「迷走する瞑想集979」 2018/03/28

むかし私は、予算を審議する時になると予算案「以外」の問題で委員会が紛糾するのは、実は
与党の策略ではないか? と疑っていた。  本予算は補正予算と違い、たっぷり審議時間が取ってある。
これで予算案の中のまずい項目にスポットを当てられないよう、関係のない議題で審議時間を消費させる。
・・・「なんて悪辣な奴らだ、与党は」 と、半ばあきれて見ていたのだ。


しかし、どうもそうではないようだ。  予算案以外のことで騒いでいるのは、どちらかというと野党である。
本来なら、「予算審議から目をそらさせる気か!」 と詰め寄らなければならないのに、逆に喜喜として
審議時間を無駄に費やしている。  公務員がこんな事をやったら、「ちょっとドサ回りでもしてこいや」
と、僻地の閑職に追いやられるのは確かだ。  周りは誰も、同情なんかしてくれないだろう。


国会議員も、国民から仕事を委託されているいわば 「準公務員」 ではないのか?
それを本筋から外れたことに血道を上げて、あきれているのは私だけだろうか?
ほかの人は、どうせ予算の中身なんて分かりゃしないんだからと、茶番劇が始まるのだけを毎年
楽しみに待っているのか?  そうだとすれば、この国民にしてこの議員ありである。  結局


毎年、予算案自体には満足している・・と捉えて良いのだろうか?
「現状に完全に満足している。 だから、何も変えてくれるな」 という意味なのだろうか?
議員が予算書を読み解くにはかなりの集中力がいるから、スキャンダル探しの方が手っ取り早い・・のか?
議員にならせたのは、週刊誌まがいのことをやらせるためではないだろうに、と思うのだが。


国会中継は余分な情報を遮断して、ラジオ放送のみで完全中継をやったらいかがか?
そうすればヤジで答弁が聞き取れなければ、「静かにさせろ!」 とじゃんじゃん電話が入るだろうし
他のパフォーマンスはやっても無駄だから、弁論のみの戦いとなるはずだ・・おそらく。
理論で相手を圧倒できなければ、質問者は 「能なし」 の烙印を押されるだけだ。


しかし与党の後ろには優秀な官僚が付いているから、勝負にならないか・・・。
個別案件に一つ一つ難癖を付けていても、官僚らが作る答弁書にかなうわけがない。
なんせ官僚は、それぞれその道のプロだからして、自分らがまとめた予算案に対して戦いを挑んできたなら
全力で撃破しようとするだろう。  だから政治的な話に持ち込まないと、絶対に勝ち目はない。
「政治的判断」 は、役人の仕事の範ちゅうからは外れるものであるから。

「迷走する瞑想集978」 2018/03/28

「そうか、S氏を告発した市民団体は、実は政府の手先だったんだ。  地検が告発を受理して
捜査を続行中ならば、証言拒否は正当な行為であるから、証人喚問でいくらでも逃げることはできる。
その後で、おそらく地検は 「不起訴」 にするだろう。  全部グルだ!」 てな具合に妄想は
とどまるところを知らない。  「その後の検察審査会だって信用ならんし」 とか


以前の私だったら、そう考えたに違いない。  しかし今回は、住むところが地上と雲の上の違いはあれ
同じ文書事務手続きを共有する公務員の問題だから、おかしい部分とおかしくない部分は
ある程度認識できる。  そして、財務省もまた法律に則り動いている組織だから、今回の土地取引に関して
「なんら違法なことはしていない」 の自負だけは、少なくとも持っているはずだ。


とすれば、もし問題があるなら(問題があればだが) それは別のところにある、と推測するしかない。
当事者同士以外にも、どうも諸々の 「思惑」 が交差しているようだし・・・。
そうなるとこれは検察の仕事になり、議会で追及すべき問題では、もはやないように思える。  公文書が
事実上書き換えられていたのだから、罪は免れられないだろうが、少なくとも政権を揺るがす問題ではない。


当該土地価格の鑑定が、正当な値段だったのか?  あるいは
例の 「ゴミ撤去費用の積算」 に意図的な間違いはなかったのか?
等、専門的知識が要求される 「問題」 である。  これを
素人である国会議員が、追及できるわけがないではないか。


「ゴミ撤去費用の積算価格」 に関しては、書き換え前の文書を国土交通省が提出させられた時
会計検査院のチェックを受けているはずである。  それで国会報告がなかったのなら、「違算は認められない」
という判断をしたのだろう。  ということは、この件に関してはすでに問題ではないということである。
結果的に被疑者を手助けしてしまうのなら、むやみな告発は考えものだ・・と思い直すかどうか?


逆に言えば、重要参考人を 「捜査中」 で囲い込めば、その後の証人喚問など怖くはないということだ。
今回あまりにも告発団体の動いたタイミングが絶妙だった・・とは、誰も疑わないだろうな。
過去にもそんな例があったような・・思い過ごしか。  もし義憤に駆られてやっただけなら
証人喚問後の方が良かったのでは?


「民間団体のおかげで、最高の追求舞台だったはずの証人喚問を台無しにされた」 とは
いくら野党が悔しくても、言えないことではあろう。


しかし今回の証人喚問でS氏は、役所内部の実情をそれとなく暴露していた。  本来
このような 「お涙ちょうだい」 的な裏の事情を公表してはいけないのが、役人である。  いかに
苦しかったとしても。  この発言に 「そうだ!」 と拳を上げた公務員もいたのではないか?
「何を言っても奴隷の身分だし」 と諦めていた時に・・・。  そういう意味では
この喚問は意義のあるものだったであろう。  ほとんどの公務員が勤務中の時間帯ではあったが。

「迷走する瞑想集977」 2018/03/27

私はタッチ・パネルと相性が悪い。
だからスマホを持っていない。  正確に言うと、第二番目の理由としてだが・・・。
第一番目は、携帯電話で用が足りるからだ。  だから、あえて持つ必要性を感じない。
それはともかく、なぜタッチ・パネルと相性が悪いのか?  具体的に話そう。


コンビニでタバコを買う時、「年齢確認をお願いします」 と必ずレジに言われて
タッチ・パネルに触るのだが、一度で反応しないことがよくある。
二度三度指を押しつけて、やっと了解して貰える。  「なんて反応の悪い機械なんだ」 と
横目で睨みながら、タバコを手にして帰る。  次


銀行のATMで、「暗証番号をお願いします」 と言われて、4桁の番号を苦もなく押すのだが
「もう一度始めからお願いします」 と弾かれることが、なくはない。
ATMは大抵、後ろに並んで人が待っているから、これをやられると申し訳ない気持ちが満ちあふれる。
機械が悪いんだか、私が悪いんだか頭が混乱してきて、操作が完了してもはなはだ気分が悪い。


「そういうときは、指をなめればいいんだ」 と誰かに教わったが、相手(パネル)は不特定多数が触るものだ。
とても衆人環視の中で、そんな不衛生なことは私の常識からはとてもできない。
「じゃあ、お前は干からびてきたのだろう」 と言われるのは、ある程度予測はついている。  じゃあ
タバコは老人も買っているのに、指に湿り気のある若者をあくまで優遇するつもりか? と抗議したい。


押しボタン式だと、確かに古くなって接触不良が起きる可能性はあるだろう。
しかし少なくとも新品の状態で、接触不良は起きない・・タッチ・パネルのように。
確かに老人は、通電性は良くはあるまい・・しかしそれにしたって。
ちなみに私のデジタル・オーディオプレーヤーは、タッチ・パネル式だ・・残念ながら。


だから、ちょっと触っただけで、勝手に曲目が変わってしまう。
幸いにしてタッチ・パネルをオフにするボタンが付いているから、なんとか使い続けているが・・・。
カメラもそうだが、一切の 「うっかり操作」 を防ぐホールド機能は必須である、と声を大にして言いたい。

「迷走する瞑想集976」 2018/03/26

大阪府が、原則として借りている土地への小学校の設立は許可しない、との方針を持っていたのは理解できる。
借入期間が終わったら、小学校は更地になってしまうだろうから、周辺住民としては絶対に納得できない事態だろう。
従って、「購入済みの土地でなければならない」 と釘を刺したのだろう。  それでは、なぜ
「この土地に限り、借りた土地であっても審査のテーブルに載せる」 となったのであろうか?


それは推測するに、「貸し主が国(国有地)だから」 ではあるまいか?
国ならば借受け期間が突然終了したとしても(破綻したとしても)、無碍に更地になどはするまい・・と
踏んだからではないのか?  もし更地工事で住民運動が起これば、それは国に向かうだけだし
住民数が増えている大阪府なら、小学校を増やすことに反対する道理はない・・と考えたのでは。
一学級の生徒数を減らすことができるから、少なくともこの目論見は、時代に逆行しているとはいえない。


裏で金が動いているに違いない・・とか先入観を持って判断する前に、冷静になって事の子細を
検証してみるべきだ、と私は考えるようになった。  「それは甘い」 と言われるかもしれないが。

「迷走する瞑想集975」 2018/03/26

前項で、「当初は高い予定価格を付けざるを得なかった」 という仮定で論を押し進めたが
「秘密の合意文書が実はあるのでは?」 というところまで、話が飛躍してしまった。  飛躍ついでに
文書の中身を推測するに、「ゴミの話は知らなかったことにして、最初は高い予定価格でいくからね」
というものだった、かもしれない。


「その後で、ゴミの一件で渋々値引きをせざるを得なかった」 という筋書きでどうかね? と切り出して
相手も素人ではないから即 「了解した」 と返答したかもしれない。
「高く売りたい」 は売り手側の常にある願望だが、以前隣の土地が実質大幅値引きで売られているのだし
財務局の手間を減らすためにも、最初から 「出血覚悟の大幅値引き」 をやっても良かったのだ。
そうすれば、一発で交渉成立に相成ったであろう。  いずれ最後には、底値に落ち着かざるを得ないのだから。


だから、通常の土地価格交渉とは何か違う 「要素」 があるみたいだ、と考えてもおかしくはない。
もし、付近住民の住宅地評価額が余波を食らって引き下げられたら、それを担保にして金を借りている人は
さらなる担保を要求されるかもしれない。  これは、あまり気持ちのいいことではないだろう。
だから、その影響を最小限にしたいと考えるのは、行政官としては出過ぎた真似と言えるのか?

「迷走する瞑想集974」 2018/03/26

もし国有地を何が何でも売り払いたかったら、安い予定価格(売却側)で広く 「一般競争入札」 で
競売にかければ、簡単に売れただろう。  後のゴミのトラブルも回避できたかもしれない。
しかしもし、「国有地は、公共用地に使用する目的にしか売却できない」 という規定があったとしたら
話は変わってくる。  「一般競争入札」 では、あらゆる購入希望者が殺到する恐れがあるし
それを防ぐことは趣旨に反する・・例えば、「自分の工場を建てたい」 とか。


その場合、一定の条件を付けて入札参加者を募集する 「指名競争入札」 がある。  これは
「工事の難易度から、あまりに小さい土木業者を除く」 とかである。  ここで
「公共用地の使用目的に限る」 と制限を設ければ、初期の懸念は払拭できる。  では前にも述べた
「周辺部の土地評価額まで一緒に下げたくない」 という思惑があったとしたらどうだろう?


その解決策の一つは、最初高い値で売却し、あとで 「補助金」 で埋め合わせをするという方法である。
これで、売却地だけが 「特殊な」 土地だということをアピールできる。  ゴミがない状態なら
「その土地の本来の評価は高いのだ」 というふうに。  しかし 「競争入札」 では
予定価格が高く落札しない可能性が高い。  隣の土地が 「訳あり」 なのをみんなが知っているから。  


では、どうする?  一対一の 「随意契約」 しかないであろう。  それでも交渉相手は
安い買い値しか提示しない可能性は、依然として残る。  高い予定価格で、あくまでも押し通そうとすれば
相手は席を立つ可能性さえある・・とすれば、あとは裏交渉である。  因果を含めるしかない。
これは交渉の途中経過に過ぎないから、文書には残せないだろうし、実際残っていない。
しかし、何らかの合意文書は相手と取り交わすはずである。  でないと裏切られる可能性があるから。


今回の案件は、あとで大幅な値引きを行なったということであるが、売り手もゴミの存在は知っていたのだから
大幅に引き下げた予定価格で交渉しても良かったのだ。  そうすれば、即座に 「落札」 していたはずだ。
こんな自明のことを、なぜ売り手はやらなかったのか?・・少なくとも最初のうちから。
これが、不思議といえば不思議なのだ。  いっぺんで済む交渉を、何度も重ねている。
近畿財務局が土地交渉に不慣れだった、とはとても考えられない。

「迷走する瞑想集973」 2018/03/25

「何も信じられない」 と言う人でも、そういう信念は信じているだろう・・というパラドックスまがいの
言説を思いついたが、「考えられるすべての事は、起こりうる可能性がある」 を文字通り信じている人は
恐ろしくて何も行動を起こせないだろう・・というのも、味わいがある。


確かに次の瞬間何が起こるかは神のみぞ知るだが、そういう不確実性をほとんど無視して我々は
日常を生きている。  だからこそ事故はなくならないのだし、それでも人は外に出られるのだ。
これは生きるためには行動しなければならない人間の、宿命とも言えるだろう。  逆に


本人には直接関係しない事なら、いくら大袈裟にリスクを強調しようと、面白ければ歯止めはないに等しい。
99パーセント起こりえない事象でも、大袈裟に言えば起こるか・起こらないかの半々の確率でもあるのだ。
日本全国で我が家に隕石が命中する確率は低くとも、その家に住人にとっては当たるか・当たらないかである。


むかし戦争中に兵隊の間で、「砲弾が一度開けた穴には、二度と命中はしない」 という言い伝えがあって
実際穴に逃げ込んだ兵士がいたそうな。  さてこの格言を正しいとみるか?  それとも誤りか?
広大な戦場で二度同じ位置に砲弾が命中する確率は、かなり低いと考えるか・・それとも、また命中するか
しないかは、五分五分の確率でしかないと考えるか。


それを書いた本には、「助かる確率は、五分五分より高くはならない」 と笑って書かれていたように思う。
つまりこれは 「迷信を笑った笑い話」 なのだそうだ。  要は、一回目の命中はご破算になり
次に当たるか・当たらないかは半々の確率でしかない、ということらしい。  背筋が凍る話だ。


話を変えれば、我々は命中する確率が50パーセントの弾幕の中を生きている、とも読める。
実際の世界では、鉄砲玉が飛び交っているわけではないから、それほど萎縮しなくても生きていられるが
先の 「我が家と隕石」 の話に置き換えてみたら、やはりいい気持ちはしないはずだ。


これでは 「防衛」 する意味がまったくなくなってしまう。  もっとも 「安全な砲弾の穴」 の否定は
兵隊が穴に隠れたがるのを防ぐ意味も、もしかするとあったかもしれない。  51パーセント安全だとしても
私ならそこに隠れる。  逆に49パーセントの安全性しかないのなら、絶対にそこには入らない。
半々だから悩んでも意味がない、となったのだ。  もうすでに、戦場にいるのだし。


半々の確率なら、どちらに賭けようと理論的な優位性は見いだせない、ということだから
であれば、好きな馬に賭けようとしても、あながち間違ったこととはいえない。
で、我々は日々それを実践しているのだろう。  自然災害から絶対安全な地は地球上にはない、ということで。

「迷走する瞑想集972」 2018/03/25

財務省が増税一本やりなのは、ある意味理解できる。  なぜなら税収を増やす手段を、自分たちでは
それしか持ち合わせていないから。  本来は、所得が上昇すれば税収は黙っていても増えるものなのだが
その要因はあくまで他人任せである・・財務省から見れば。  だから積極的に税収を確保したいと思ったら
「増税」 するしかカードがない。  だからみんなに嫌われる。  だから台所事情が苦しいことを国民に
ひたすらアピールする。  この省庁だけ見れば、なんの不自然さもない、と言えよう。


ただしアピールの内容が、過大であるか・ないかは別である。  一説によると
海外向けと国内向けで、真逆のアピールをしているとの話もある。  外国人から見れば、日本は
「台所事情が苦しくない」 と受け取られているらしい。  これは一般に 「二枚舌」 と言われている。
相手により話を使い分ける、という意味だ。  財務省は頭のいい人たちが多いから、平気でできるのだろう。
一般人がそれをしたら、いっぺんで信用を失う。  まあ屁理屈を考えるのは、優秀な役人の責務だからして。


本来、景気が上向いてきたら増税などしなくとも税収は増加するのだから、好景気の時に
増税の話を持ち出すというのもおかしな話なのだが、「景気が良くなれば増税するよ」 と言っている。
景気が過熱した時に、増税で冷やすのはアリなのだろうが、いま景気は過熱しつつあるのか?
もともとは税収が落ち込んだ不景気の時に、税収を確保したいがために税率を上げるのではないのか?
社会保障費は、不景気の時でも待ったなしだし。  ただし、不景気から抜け出せなくなる恐れはあるが。


いわば 「タバコ税」 の形態が、真っ当な増税と言わざるを得ないのだ。  「タバコ税」 は
減収と税率アップのイタチごっこを、ずっと繰り返している。  いわば、減収を補うための増税なのだ。
本気で増収をもくろむなら、「税率の半減」 でもやれば消費量は確実に増えるだろうが、しかしそれでは
「国民の健康のため」 としてきた 「増税の理由」 が崩れてしまう。  だから、できない。
かといって本気で 「国民の健康のため」 を心配する気もない。  禁止により税収を失いたくないから。
財務関係者が、消費税よりもきちんきちんと国庫と自治体に入る税金を、むざむざ手放すはずがないではないか。


見てきたとおり、立場立場でいちおう言い分はあるのだ。  あとは
総合的に見てどう判断するかだけだろう。  二者択一は、確かに気分的には心地よい。
それにより損害を被る者が、自分以外であってくれるなら。

「迷走する瞑想集971」 2018/03/25

「公共事業を始める」 と宣言すると、すぐに反射的に 「政治家の利権」 とか 「省庁の権益」 とか
ネガティブに考えてしまう人たちがいて、「公共事業は悪だ」 と排斥運動が起こるが、これは正しいのか?
確かに、ネガティブな要素が皆無だとは私も思わない。  政治家も票に繋がるから、推進するのだろう。
役人たちも、自分たちの仕事が増やせるのだから、足を引っ張るわけがない。


しかしこれだけの理由では、公共事業が悪だとは言い切れない。
需要がないところに無理矢理、公共事業を行なおうとするのであれば、確かに疑問符が付くだろう。
住民が望んでもいないものを強引に作ろうとしたら、土木業者と政治家の癒着を疑われても仕方がない。
ただし、癒着が常に確実に存在するかは、なんとも言えない。  それを疑いたい気持ちは理解できる、と
いうことであって、無理矢理犯人に仕立て上げるということではない。


「公共事業悪玉論」 は、どちらかというと公共事業の必要のない地域に、強く発生する傾向にある。
つまり、社会的インフラが完成してしまった地域ということだが。  これから充実してゆこうとする地区は
むしろ 「公共事業待望論」 なはずだ。  そこに 「費用対効果」 を持ち出して難癖を付ける。
曰く 「それを作っても、利用者はそんなに多くはないだろう」 と。
確かに利用効率は、人口の密集した都会よりは落ちるだろう。  しかし、当該地域にとっては
施設があるのとないのでは、生活の快適さにおいて大きな差が出る・・としても、反対するのだろうか?


国民が等しく快適な生活を営む権利を、地方は持ってはいけない・・ということになるが、それでいいのか?
「そんな不経済なものを片っ端から作るから、借金証書(国債) が増えるのだ」 はたして不経済だろうか?
先の大震災で東北地方の自動車部品工場が被災した時、世界中に影響が出たことを忘れたのだろうか?
今や、都会と地方という明確な境界線は存在しない。  農産物やエネルギーの供給がストップすれば
大都会自身が苦しむことになる。  もはや、持ちつ持たれつの関係なのだ。


そこに 「費用対効果の悪さ」 を持ち出して反対することに、なんの正当性もないであろう。
現地で快適に暮らす作業員がいなくなれば、その衰退はいずれ都会にも及ぶ。
金食い虫の高速道路が大震災の折には、唯一の輸送手段になった。  舗装はやられたが、通行はできた・・
ただしプロのドライバーにのみだが。  鉄道は、線路と架線の両方の復旧を待たねばならなかった。
港湾は、輸送船の着岸が困難になった。  ヘリコプターの輸送には限界があるし・・・。


たとえ借金(国債) をしても、その成果(インフラ) は残る。  そして
インフラの拡充により税収が上がれば、住宅ローンのように繰り上げ返済の可能性も、なくはない。
ネガティブな心配ばかりしていると、本当にネガティブな方向に進み出してしまう可能性がある。
「希望」 とは、ポジティブなことを思い浮かべること、ではなかったのか?
予想外のことは何にでも起こりうる。  しかしその心配で、何もしないことはもっと悪い。


「公共事業」 は、人がお金を使いたがらない時に、世間に強制的にお金を循環させるという側面を持っている。
それで景気が上向いてくれれば、たとえローンがあっても高所得者は気にしない、のと話は同じだ。
「景気が上向く」 とは、世間にお金が循環し出すことだから。  貯め込んだお金は 「可能性」 ではあるが
景気から見ればしょせん循環しない 「死に金」 である。  物に替えれば、自分が豊かになれるのだし
生産者も販売者も潤う。  ひいては税収が上がり、増税(税率アップ) をする必要性がなくなる。


暗い報道は耳目を集めやすいが、人々の気持ちをネガティブに変化させてしまう。  しかし
気持ちがポジティブなら、たとえ交通事故の被害者数が多かろうと、自動車保有台数は着実に伸びていった。
自動車を保有することが、交通事故の唯一の原因ではないことを皆が知っていたから。
報道機関も、自動車会社の広告手数料などの観点から、「自動車保有がすなわち悪だ」 とは
とてもキャンペーンが張れなかっただろうし・・・。

「迷走する瞑想集970」 2018/03/24

「勝ってる時の作戦は変えるな。 負けている時の作戦はすぐに変えろ」 という対戦型の種目の鉄則がある。
作戦の引き出しが多くてコロコロ変えてしまうと、場合によっては自滅することにもなる、という戒めだ。
ワンパターンしか持っていなくとも、相手が苦慮しているのが分かるのであれば、遠慮せずそれで押し通せ・・
という意味合いもあるだろう。  では、経済政策とデフレの戦いはいかが相成っているのか?


はたして、じり貧の状態にあるのか?  そうであれば、作戦は変えるべきだろう。
何セットも相手に取られている状態なら、固執している方が愚かである。  しかし
盛り返しつつあるのなら、作戦はまだ変えるべきではない。  たとえ他の作戦が良いように見えても・・・。
コーチが席を立つのは、戦況が変わって相手が有利になり始めた時である。


「デフレは物が安くていい」 というのは、消費者側からすればそうかもしれないが、生産者にすれば
あまり居心地は良くないだろう。  商品の値段を上げられなければ、社員の給料も上げられなくなる。
労働者の給料が低いままなら購買意欲は伸びないから、高い物ほど売れなくなる。  結果として
安物作りに励むこととなるが、安物作りには低賃金は欠かせない。  購買意欲を使用者が抑えながらも
商品を売らなければならないという、矛盾した構造を持っているのが 「デフレ」 なのだ。


本来は 「安いほどいい」 ではなく、「いい物は高くても買える」 が望ましいのだ。
給料をもらう立場の人たちのことが、視野からスッポリ抜けている・・少なくとも年金生活者たちは。
だから受給額を減らされ、各種保険料が値上げされるのだ・・稼ぎ手(納税者)のことを考えないから。
だから必死で金を使わないようにせざるを得ないのだ・・上記の心配から。
デフレ・スパイラルは、年金受給者にも決して他人事ではない。


デフレ脱却を稼ぎ手(納税者)の側から図ったのが現政権であるとするならば、年金受給者あるいは弱者の側
から図ったのが前政権、と言えないこともない。  余分な生活防衛資金を貯め込まなくても良い状態なら
眠っている貯金は市場に吐き出されるであろう・・つまり、経済の活性化はこれでも成し遂げられるはずだ
と、考えたのではないか?  これの失敗の原因は、その資金を生活者の懐から得ようとしたことである。
増税によって資金を作ろうとすれば、税率を上げるのが手っ取り早いが、納税者対策を後回しにしてしまった。


順序が逆だったのである。  稼ぎ手(納税者)の給料を引き上げさせれば、税収は自ずと増える。
その資金を基に、生活弱者と言われる人たちに手を差し伸べるべきだったのだ・・ウケは良くないだろうが。
いきなり懐に手を入れられたら、誰でも身構えてしまうだろう。  それで購買力は回復しなかった。
やはり遠回りでも、順序を踏むべきだったのだ。  それには、長期政権が必須になってくる・・・。
なにしろ、即効性は期待できないのだから。


逆に、短いスパンしか与えられていないと自覚してれば、途中をすっ飛ばした政策もやむを得ないのかな?
・・と思ったりも。

「迷走する瞑想集969」 2018/03/24

詳細な記述をしてある書き換え前文書を国会に提出すれば、その内容はマスコミに伝わり、ひいては
国民の知るところとなるであろう。  その場合、冷静な読解を期待できるのなら良いが、万が一
曲解してマスコミが国民に伝えたらどうしよう・・と、財務省が危惧した場合
公文書の内容に直接関係のない表現を極力削除することは、十分に考えられる。  これも一種の
「組織防衛」 と言えるだろうが。  この場合、閣僚のことなどはなから眼中になかったであろう。


ツッコミどころが無数にある表現だから、たとえ十分に申し開きができる自信があったにしても
あえて 「餌」 をバラまく必要はない・・だから、「簡略版」 を国会に提出した。  なぜなら
国会議員に 「守秘義務」 などないに等しいから・・と反論されたら、いかがするつもりか?  ところで
一つの起案文書で二カ所に文面の異なる文書を送付したい時、「案の1」「案の2」 とすることはよくある。


もし、「案の1」 が詳細な文書で、「案の2」 が簡略版という捉え方をしていたとしたら、どうだろう?
起案者は、何も違法なことはしてないことになる。  「案の1」 が国土交通省に送られ、また
「案の2」 が国会に提出されたものと考えれば。  その場合でも、「起案文書(表書き)」 は一枚である。
なにも官僚の答弁と食い違いはなくなる・・「二種類の文書は存在しない」 を文字通り取れば。


「官僚は悪事を行なっている」 という先入観を持って判断したらそれは、何でもそうなってしまうだろう。
それを財務省側も恐れたのでは?  あるいは、もう一つの見方もある。  それは
詳細な文書を国土交通省に送った後に、簡略版に差し替えた場合だ。  その場合すべきことは二つ。
国土交通省の先に送った文書を差し替えてもらうこと。  実際、その要請はあったようだ。


それから二つめは、差し替え前の文書を完全に破棄すること。  でないと、後で迷うことになるから。
たとえ誰かが偶然持っていたとしても、最終文書はあくまで一つである。  だから 「一つだ」 と答弁した。
公文書はあくまで 「最終文書」 であって、どこで最終にすべきかは関係者以外判断はできないだろう。
出先から上がってきた文書は、確かに詳細な事実(真実ではない)を列挙してあったであろうが
しかしそれを最終文書とするには、あまりにも不確定な要素が多い・・だから外した、のではないのか?


こういった事務手続きをすべて否定してしまうと今度は、役人は徹底して文書に残さなくなる恐れがある。
つまり、「分かりきった処理結果」 のみを文書に記載して、途中の過程がまったく分からなくなる恐れが。
そんなことになれば同様の案件で、後任者(役人)が前例に学べず、途方に暮れることにもなるだろうし・・・。

「迷走する瞑想集968」 2018/03/23

好景気・不景気が人知の及ばぬ自然災害のようなものであると信じていたなら、景気を良くしようなどという
無駄なことに、はなから努力しようとは思わないであろう。  好景気をすべて 「バブル」 と呼ぶならば。
景気循環は波のようなものとはよく言われるが、だから座して見ているだけなのか?
過去に波形があったとしても、それが将来にもわたって永劫に繰り返すと、本気で思っているのか?
これだけ自然に対して影響力を持ち始めた人間も、こと経済に対してはまったくの無力なのか?


かく言う私も、経済はしょせん水物だと信じてきた。  人間がどうあがいても無駄なことなのだと。
しかしそう言いつつも、父母の代からの生活は間違いなく向上してきた。  それは誰も否定できない。
自動車など、昔はトラックかバスしか走っていなかったのに、今や私でも車で通勤できる時代になった。
それを考えれば、まだ諦めるのは早いのではないか?  経済対策に無気力になってはいけない、と考える。


ある政策でうまくいかなかったら、次は手を替えてみればいいだけ。  「経済はしょせん水物だ」 は
無能な政治家の言い訳に過ぎないと知れ。  デフレが終わったら、即ハイパーインフレに突入するわけでも
ないであろうに、何を怖がっているのか?  そんなに舵取りが信用できないのか?


勤労者の賃金が上昇すれば税収が伸び、老人の年金も切り下げられないだろう、とは考えられないのか?
物価が上がることをことのほか心配するが、物価が上がらなければ賃金も上げられない・・のでは?
パイを大きくすることを諦めると、今ある量からの回収を最優先に考えるようになる。


消費税率のアップなどは、その最たるものだ。  景気が良くなってくれば自然に税収が増えるのは
実際に目にしていることなのに、景気を冷え込ませることが分かっていながら 「増税」 を叫ぶ。
パイを大きくする能力がないから(政治家)、あるいは、その担当ではないから(財務省)、消費税増税を
仕方のないことだと考える。  確かに低迷が永遠に続くのなら、増税もやむを得ないだろう。


保護を要求する世帯は、確実に増えてくるだろうし。
その 「現状維持の上での対策」 をやろうとしたのが、前の政権ではなかったのか?
一見、国民の受けは良いから。  そのためには、金がいることに気がつき、政策を180度転換
(消費税率アップ)してしまった。  それで、さらに低迷から抜け出せなくなってしまった。


こういう時 「経済は水物」 という言葉は、まことに都合が良いものだ・・責任がないんだから。

「迷走する瞑想集967」 2018/03/23

天下り斡旋は、早期退職者(肩たたきをされた者)にとってはありがたいであろうが、一般の職員にとっては
定年後の再就職の口など 「かってに探せよな」 が現状だからして、あれは雲の上の出来事であって
はなはだ迷惑な事件でしかない、という印象だろう。  だから一般の職員にとっても、あれは悪だと映った。
しかし部外者には、分けて考えられない人が少なくないから、対人業務に支障が出ることも・・・。


キャリア組とノンキャリア組は、それでもなんとか分けて見られるようになったが、「出世組」 と
「そうでない組」 の差も歴然としてあるのだ・・内部では。  まず、給料の上昇速度が違ってくるし
出世して等級が移らないと、いずれ給料表の上限に阻まれてしまう。  つまり、それより上には行けない
ということ。  退職金は最終基本給で計算されるから、たとえ同期生でも支給額は違ってくる場合がある。


「給料表」 は職員なら誰でも持っている。  だから自分の将来の賃金は、ある程度予測できる。
このままだと(出世しなければ)、あと何年で自分の給料の頭がつかえるかも・・・。
退職金の計算式も出ているから、それでおおよその金額は計算できてしまう。  私は、採用時の研修の時に
これをやられた。  ある意味自分の将来まで知ってしまうということは、決して楽しい気持ちにはさせない
場合があるということを、身にしみて知った瞬間だった。


「賃金はある程度予想」 と述べたが、不確定要素は 「昇任」 である。
これで一年遅れを取れば、給料表の差は退職時までずっと続く。  正確には退職金まで? いいや年金額まで。
途中で抜き返すことはほぼ困難だから、精神的以外に経済的に見ても、痛手は大きいと言わざるを得ない。
ところで昔、「公務員はボーナスがようけ出ていいわねえ」 と言われたことがあったが、その陰で
ボーナスの支給割合を毎年切り下げられていたことを、幸せなことに部外者は知らなかった。


「一人あたりの平均支給額」 は新聞に載っても、「支給割合の推移」 はなぜか報道されないから。
賃金が切り下げられて拍手喝采を浴びるのは、公務員ぐらいのものだろう・・・。
「でも、公務員は身分が保障されてるから・・」  もし、来月にでも首を切られかねない事態になったら
職場は足の引っ張り合いで阿鼻叫喚の場と化すだろう。


なんせプラスの得点が、なんら評価されないシステムになっているから。
減点のより少ない者が 「良い公務員」 という捉え方である。  だから
上位の者をより短い周期で移動させるのも、悪く取れば 「傷は浅いうちに・・」 という配慮があるのかも。

「迷走する瞑想集966」 2018/03/23

財務省理財局が 「組織防衛」 のために書き換えを行なったことは、事実としては理解できるにしても
普通、役人が危険なことに踏み出すのは、自分たちの落ち度を隠蔽するためだけだ。
一般住民は何も知り得ないし、政治家は数年で入れ替わってしまうから、最も恐れるべきことは
内部に監査が入った時ぐらいだろう。  では今回、いったい何を隠そうとしたのだろう?


土地売買に、法手続き上の問題はない。  多少イレギュラーな事案であったにしても。
また、土地代金をまけたことに対しても、ほかにも同様の案件はあった。  前例主義からも逸脱はしていない。
書き換えた文書の内容にしても、見られて特にまずいことはなかった。  かえって書き換え前の方が
現政権の関与が否定されて、都合が良かったぐらいだ。  いったい隠すべき 「落ち度」 はあったのか?


もしかすると今回の騒動は 「事件」 でも何でもなかった・・そういう可能性すらあるのではないか?
周りが、よく知らずに 「事件」 に祭り上げてしまった可能性が、ありはしないだろうか?
部外者は、「事件」 があった方が好奇心が刺激されるが、それに迎合してしまった恐れはないだろうか?
「決裁文書の書き換え」 は確かに褒められたことではないが、文書の差し替えはどこでもやっている。


それをやることによって、文書が最終的により正しい表現になっていくなら、むしろやらない方が
役人として無責任と言えるのではないだろうか?  「白」 を 「黒」 と言い換えてしまうのは、確かに
まずい行ないだ・・犯罪的ともいえるだろう。  しかし今回、それをやっているだろうか?
本当に今回の案件が財務省にとってヤバイものであったなら、途中でご破算にする事もできたのだ。


それをしなかったということは、財務省に罪の意識などぜんぜんなかったのでは?・・その道のプロが見ても。
というか、犯罪にはなんら該当していなかった・・と見ては、いけないのだろうか?
壮大な 「えん罪」 の可能性すらある・・のだが、言いがかりを付けた人は、どうせ謝りはしないだろう。
「我々は警告を発しただけだ」 とか言い訳して。


「えん罪」 かそうでないかは、大阪地検が現在捜査中であるらしい。

「迷走する瞑想集965」 2018/03/22

もし最初から売り渡し価格を低く設定すると、「あの土地とその周辺部は、二束三文の値打ちしかないんだ」
ということになってしまわないか?  だからゴミがあったことは知っていても、一応相場通りの値段を
付けたのではないのか?  「本来は、これだけの価値のある土地なんですよ」 と一般に知らしめるために。


結果的にゴミ撤去費用を差し引いたが、「ゴミを撤去し終われば、最初に提示したぐらいの価値はあるんです」
と、あくまで本来の価値を示したかった・・のではないのか?  当初から二段構えで行くことは想定済みで
相手もたんにそれに呼応しただけ・・ということは考えられないだろうか?


結果的に買い手は安く買うことができるし、売り手も、買い手の付かない状況だけは回避することができる。
なにがしかの金額で売れたのだから。  近隣住民も、「ゴミさえなけりゃ、土地評価はそんなにベラボーに
低くないんだ」と納得するだろう。  であれば、元々ゴミのない住宅地なら、評価額に変動はないだろう。
そして自治体もまた、胸をなで下ろす結果に・・・。


普通の土地売買なら、売り手と買い手だけ見ていれば事は済むが、政府が売るとなれば
その周辺にも及ぼす影響をも、無視はできないはずだ。  たとえ公園を作らせてもその結果、周りの住民が
どんどん移転してしまったら最悪であろう。  学校でも同じこと。  「住民の安心」 は重要であると
誰かが言っていなかったっけ?  「これは性悪物件ではない」 と安心させたかったのかも?

「迷走する瞑想集964」 2018/03/22

近くに高速道路が走ることが分かった後で、それに隣接しているわけでもない山林の土地評価額まで
引きずられて上がっていることが、実際のところある。  土地を買う方とすれば、安いのに越したことは
ないのだが、土地を売る方やその周辺に土地を持っている人たちにとっては、評価額が高い方が
望ましいのではないだろうか?  ただ、固定資産税の納付額は上がるかもしれない・・・。


M学園に実際に売った額が結果的に高かったのか、安かったのかは評価が分かれるところであるが
もし異常に安く手にしたのなら、その近辺の住民たちはどう判断したのだろうか?
「俺んちの、評価額も安くされるかも?」 と思った人もいるだろう。  いつか売りたいと考えている人
などは特に。  結果的に固定資産税も減額となり、地方自治体とすればあまり歓迎すべきことではない。


これら周辺住民や自治体に、売り手は 「忖度」 したのだろうか?  売り手もまた、高い方が良い。
しかし諸々の土地条件のため安くしないと売れないとなれば、「この土地だけは、公共用地に使用するために
破格の値段で売り渡すこととした」 と、涙を呑むふりはできる。  公園や学校用地になら・・・。
周りの住民も、「まあ公共のための土地なら、安く売るべきだろうな」 と、渋々納得はするだろう。


うまくいけば、連動して地価が下がるのを食い止められるかもしれないとしたら、自治体もまた
この方式で税金の減収にならず助かるであろう・・という各人の思惑は、はたして皆無だったのだろうか?
この方式で、少なくとも損害を被る者は誰もいないことにはならないか?・・そっとしておいてやれば。
誰が、藪をつついて蛇を出してしまったのだろう?  それで得をする者などいるのだろうか?

「迷走する瞑想集963」 2018/03/21

会計検査は、検査官が完全にお引き取り願うまでは、まだ安心ではない。  「お引き取り」 とは
県全体の講評(検査結果報告)が終わって、帰りの電車に確実に乗るまでだ。  ある事務所では
順番で検査が済んで喜んでいたら、また検査官が戻ってきたという、笑えない話もあったそうな。
会計検査でどの地区の第何回工事を指名するかは、検査官一人一人のまったくの自由である。


過去に検査が終了している年度でも、「あれを見るから持ってこい」 と言われれば準備しなくてはならない。
だからそれを防ぐには、検査が完了した年度の書類は、早々に処分してしまった方が・・得策かもしれないと。
「文書は破棄されました」 という言葉をよく聞くが、あれはもしかすると・・・。  だが実際は
各文書により保存年限が定めてあるから、そうむやみには焼却できない。  しかし
説明用に用意した 「参考資料」 程度なら保存期限などないから、書庫を空けるため翌年度に盛大に・・・。


なにを 「参考資料」 と見なすかは、所属長の判断によるだろう。  逆に
「公文書」 とは、どこまでの範囲を言うのか?  も、なかなか深い問題ではある。
ここを統一しない限り 「文書の紛失」 は、常に起こりうる問題だ。  しかも
文書の重要性を正確に判定できるのは、当事者だけだというジレンマ。


無限大の書庫がもしあれば、なんら問題にはならないのだが・・・。

「迷走する瞑想集962」 2018/03/21

技術者なら、最新の工法に興味が湧くのは当然のことだ。  試してみたいとも思うだろう。
しかし、それをやってしまうと検査の時に 「なぜ一般的な工法ではなく、この工法を採用したのか?」 と
これも当然のごとく質問される。  そこで 「なんとなく良かったからやってみた」 などと答えたら
一発で御用だ。  検査官は 「なぜこの工法しかなかったのか?  いちばん安上がりだったのか?」 を
問うてくる。  それに答えるためには、予め膨大な資料を準備しなければならない。


工事着工前にその説明資料を作ってなどいたら、とても発注期限は守れないであろう。  だから
みんな最新工法には及び腰なのだ。  これも一種の 「忖度」 といえるのだろうか?
もし最新工法を採用して失敗でもしたら、その担当者は目も当てられなくなってしまう。  なぜって
どこにも仲間がいないから。  だから、当たり障りのない事業で試してもらうに限る・・町単独事業とか。


よって周りの技術者と違う工法でやらざるを得ないような場合は、かなりの覚悟がいるということだ。
もし、検査受験資料に 「特殊工法を採用」 などと書いてしまったら、それだけで検査対象地区に
ノミネートされてしまうのは間違いない。  検査官もやはり興味があるだろうし・・・。
それでなくとも会計検査官は、事業量に対する事業費の割合だけでピンとくる・・らしいから。


そして検査で万全であっても、痛くない腹までが探られる。
会計検査とはそういうものだ、と何度も聞かされた。  「奴らは、お土産(獲物)を得ないと
おとなしく帰って行かない」 と、まことしやかにささやかれたものだ。  あるいは
部下の気を引き締める意味合いがあったのであろうが・・これは一種の上司からの脅しだ。


「悪いことをすると、お巡りさんが来るよ」 類いの・・・。
確かに検査官に人格円満な人は、あまり見受けられない・・受験者側から見れば。
頼まれても一緒に酒を飲みたくない人ばかりだ(偏見か?)。  だが彼らも
一週間おきに全国へ検査に出かける。  そんなことを繰り返していたら、機嫌が悪くなるのはしょうがない。


せっかく獲物を捕まえていっても、今度は上司から吟味を受けるらしいし。  だが
少なくとも検査中は、県知事より偉いらしいから天下無敵の状態ではある。
県の機構でも、「検査課に行ってくると人格が変わる」 と陰で言われたものだ。
検査中は一職員が、事務所長より威張っていられるのだから。


「野郎、戻ってきたらみておれ」 と思われていることに、鈍感な人が・・・。

「迷走する瞑想集961」 2018/03/20

削除された内容で私が引っかかるのは、イレギュラーな処理形態である 「特例的な措置」 という文言である。
これは、まだ前例がないということを言い表わしており、もちろん違法なことを行なえるわけではない。
しかし一般的な手法ではなかったにしても、過去に前例がまったくなかったのであろうか?  これは


まったく一から近畿財務局が編み出した手法なのだろうか?  そうなれば普通は、暗礁に乗り上げてしまった
ので別の手法に切り替える、と方向転換を図るのではないだろうか?  似た事例が過去にあったのでは?
「本当に多方面を検討してみたか?」 とは、私が検査官に言われた言葉である。  「これしかない」 の
思い込みはよろしくない、と釘を刺された経験があり、はたして、それをやらなかったと言えるのだろうか?


あらゆる手法を検討してみて、「これが最もベターな方法だ」 と結論づけられたのか?  それで
他を納得させられるのか? は重要な要素で、「結果がよければ、何だっていいじゃねえか」 とはいかない。
同じ成果を得られるなら、税金の持ち出しが少ない方がよい方法・・は、役人の鉄則だ。


これをちゃんとやったのだろうか?  土地を売り急いでいたとか、特別な事情があったのだろうか?
土地の元の持ち主の大阪航空局は、そうでもないようだ。  ではなぜ、一旦立ち止まれなかったのだろう?

「迷走する瞑想集960」 2018/03/20

「範例に則り今回の事案を処理しただけなのに、なぜとやかく言われるのだろう?」 と役人なら思ったはずだ。
「今回の処理がまずかったと言うのなら、そもそも範例の処理自体がまずかったのではないのか?」 とも。
役人の仕事は法律に則ることはもちろんだが、「前例主義」 が鉄則である。  前に同様の実施例があれば
今回も安心して執行することができる・・そう考えるのが普通だ。


今回の事案になんの違法性も見つけられないのに、それでも 「何かおかしい」 と感じるなら
その出発点になった事案をこそ、洗い直してみるべきなのではないだろうか?  
特に隠すべきことでもないような文言を、あえて危険を冒して消すと言うことは、その中に
「前例になった事案」 を指し示してしまう何かが、混ざっていたという可能性もなくはない。


その 「前例」 にメスを入れられたくないがために、他のどうでもよい文言まで合わせて消すことにした。
「木は森に隠せ」 というのが推理小説でたまに出てくるが、本当に殺したい相手を特定されないために
ほかの関係のない人まで殺す、というのを御存知の方もいるだろう。  陽動作戦である。


もし、案件の処理に 「前例」 に則ったが、「その前例がどうもヤバイようだ」 と危惧するような場合
その関係性を削除する方向に舵を変えないだろうか?  「私、あの人知りません」 と事件関係者が言うように。
もしかすると我々は、探索場所を間違えているのかもしれない・・・。

「迷走する瞑想集959」 2018/03/19

しかし財務省の国土交通省への 「文書差し替え要請」 は、何時行なわれたのだろう?
誰かさんの 「武士に二文はない(こうは言っていないが)」 発言の後なら、国土交通省の会計検査は
その前だろうから、当然手元にあるのは 「書き換え前の文書」 だけである。  そしてこれも当然ながら
それを検査資料として提出せざるを得ないだろう。  その後に


「文書差し替え要請」 があったとしたら、しかも誰かさんの発言の後ならなおさらだが、国交省側が
「なにかヤバイんじゃねえか?」 と思ったとしても、無理からぬ事だ。  財務省の泥縄・・と見られても
文句は言えない。  さしもの財務省も、無理押しはできないであろう。  しかしそれより前に拒否したら
国土交通省は、役人の信義に反する行為をしている。  文書をより正しい形にすることを拒否したのだから。


だから場合によっては、国土交通省側もおかしな動きをしている・・とも言えるのだ。
「断固改ざん要求をはねのけた」 と言えば聞こえはいいが、「差し替え要請」 にいちいち
「改ざん疑惑」 を疑ったりはしない。  少なくとも役人間では・・当然先方の上司の承諾があるわけだから。
だから発生時点がどこであるかによって、当然の行為にもなるし、怪しい行為にもなり得るのだ。


しかし国土交通省は会計検査院に、すでに 「書き換え前の文書」 を提出してしまっているわけだから
たとえ発言前だとしても、財務省の要請に 「はいそうですか」 と応じるわけにはいかないだろう。
差し替えを要請する方も、調査不足であると言わざるを得ない。  このことから
要請が少なくとも会計検査前でないことだけは、はっきりした・・先に述べた国土交通省の悪意がなければだが。

「迷走する瞑想集958」 2018/03/19

探し回らないと出てこないような 「書き換え前文書」 を、はたして 「原本」 と呼んでいいのか?
という根源的な問題に突き当たる。  聞くところによると、国土交通省にも 「文書の差し替え」 を
財務省は要請していたらしい。  その話が本当なら、先に送った文書は内容に不備があったと考えられる。
だから、恥を忍んで差し替えを打診していたのであろう。  しかし、国土交通省は会計検査院に
「書き換え前文書」 を検査資料として提出したそうな。  これは役人の信義には反する行為だ。


「それは破棄してくれ」 と頼んでいる文書なのに、臆面もなく検査の折に提出してしまうとは。
その理由を、国土交通省の内面に分け入ってみよう。
① たんに会検に出す文書を間違えた。  この可能性は、ゼロではないと思う。
② 財務省が憎くて、わざと間違えて提出してやった。  これでも国土交通省にダメージはない、当面は。
③ なんとなくヤバそうなので、関わり合いになりたくなかった。  これも可能性としてはゼロではない。


しかし財務省の 「文書差し替え要請」 に国土交通省は、本当に答えなかったのだろうか?
拒否したのなら、国土交通省の手元にあるのは 「書き換え前文書」 のみである。
承諾して差し替えさせたのなら、「旧版」 と 「最新版」 の二種類が手元に残る。  もっとも
「旧版」 はすぐに破棄するのが礼儀だが・・粘着質の役人なら、あるいは保存しておくかも。


もし拒否したのなら、なぜ虎の尾を踏む行為をあえてしたのかが、興味深い。
陰湿な報復攻撃を考えなかったのか?  たとえば、来年度の予算査定がなんとなく厳しくなるような。
それ以上に省庁間で仲が悪かったのか?  しかし財布を握っているのは、財務省側である。
喧嘩をすれば、勝敗は見えている。  内容も内容だし、あえて拒否する理由が分からない。


しかし考えてみれば、国土交通省は 「文書差し替え要請」 を拒否したものと思われる。
だから平気で 「うちにある文書は、書き換え前のやつでした」 と報告できたのだ。
要請を承諾していれば、自分らもグルだと見られる恐れがあった・・と警戒した、かどうか。

「迷走する瞑想集957」 2018/03/19

本気で文書の文言を改ざん・隠蔽するつもりなら、他省庁に出した文書類も含めてすべてを
「差し替えお願いします」 で訂正しておかねばならない。  それをやっていなかったという事は
やはり、国会議員向け文書のみが 「パンフレット」 という認識だった、のではないのか?


書き換え前の文書を見る限り、あやふやな記述を外しただけで 「差し替え要請」 を拒否されるとも思えない。
まして、財務省と国土交通省の力関係から見れば、嫌とは言えないだろう。  しかし、やっていない。
契約関係の書類は普通、捜査・検査の時でもない限り、役所の外には出ない文書だ。


だから地検にも会計検査院にも、書き換え前後の文書がちゃんと渡っていた。  とどのつまりは
二種類の文書が作られた、が正解ではないのか?  「詳細版」 と 「簡略版」 という・・・。
しかし理財局長も大変だ。  すべての調査項目を完璧に確認してから報告すれば、「遅すぎる!」 と言われ
しからばと途中過程で報告すれば、新たな事実が出てきて 「ずさんだ!」 と非難される。


「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」 とキレたいところであるが、さすが役人の鏡、おくびにも出さない。
殴られ役に徹しなくてはならない役人だからこそ、陰で議員たちに仕返しをしたくなる・・としても
不思議ではなくなる質疑状況だった。  頭はいいだろうし、こと業務に関しては一般人に口を出させない
自信があるだろうに、「悪事をやっている」 の先入観で締め上げられるのだから。


しかし思ったのだが、文書の決裁後の書き換えが一切禁止されたら、ハンコのもらい直しに
多大の時間が費やされるはめになる。  それを分かって、言っているのだろうか?
悪意ではなく、「あの表現は過剰だから、やっぱり削れ」 と上司に後で言われたとしても
決裁のもらい直しが起きる。  文書綴りは分厚くなってゆき、決着するまでの時間も・・・。


たぶん文書の書き直しなどは財務省だけでなく、あらゆる役所がやっているはずだ。
つまり、文書の差し替え(ズリ替えとも言う) は、小さな村役場でも絶対にやってないとは言えない。
ミスや考え違いは人間のすることだから、当然起こりうる。  それらをすべて記録に残せというのは
原理主義者の暴言でしかない・・と元役人は考える。  どうせいずれ、うやむやにはなってくれるだろうが。


一つの不祥事に対して身を引き締めるのは当然だが、規則をさらに厳格にしてしまうと
結局は行政の受益者である国民が、悲鳴を上げることになってしまわないか? と危惧するのである。
申請書類の記載項目がやたら多くなったり、一カ所でも不備があれば書類を突っ返されるとか・・・。


役人が裁量権を取り上げられてロボットに堕すれば、当然人間的暖かみは失われることになるがいいのか?
「冷酷無比な役人」 が役人の理想像であるとするならば・・ではあるが。
もっとも、判断能力の欠如した役人なら、かえって喜んでロボットに徹するかも。


私が見るに、今回の役人の最大の失態は 「書き換え前の文書は存在しない」 と断言したことだろう。
存在しないのなら、国土交通省にも存在はしてはいけない。  いっさいの書き換え前の文書は
破棄されて当然なのだ。  それは 「ボツになった原稿」 でしかないのだから。  でなければ
正直に 「国会には縮小版を提出しました」 と言っても良かったのだ・・隠しなどしないで。


それで何のかんの言われたら、「じゃあ、原本はこれです」 と言って 「詳細版」 を見せればよい。
「二種類の契約文書は存在しない」 などと言ってしまったから、コソコソ隠すはめになった。
「なんでこれ(書き換え前)を破棄しなけりゃならないんだ?」 と思った職員は少なくあるまい。
それは誰かさんの発言のためだ。  おかげで、適法な行為まで悪事に勘ぐられてしまった。


もっとも私でさえ、もう一段下の階があるのではないか? と疑っている始末である。

「迷走する瞑想集956」 2018/03/18

いまは昔、私が採用になって間もない頃、国の出先機関に書類を届ける業務で(当時、宅配便はなかった)
緊張しながら建物を入っていくと、まだ来ている人は誰もいなかった。  「アレッ?」 と腕時計を見ると
ピッタリ8時30分だった。  「今日は休みなのかな?」 と戻ろうかとも考えたのだが
9時近くになって、三々五々職員が登庁して来た。


「始業時間は8時30分じゃないんですか?」 と聞いたら、「国は9時業務開始だよ」 と教えられた。
帰って係長にその話をすると、「国は住民との直接の接触がないから、それができるんだ。  そのかわり
奴らの退庁時刻は、午前様を回ってからだからな」  つまり昼夜逆転している、と言いたいらしかった。
その話から私は、二つのことを学習した。


① 国の行政機関は、そこの住民との直接接触をほとんどしない。
② 国は異常に長い夜間残業の時間がある。
しかし、国の出先の係長や技官とともに、5時半頃に一緒に庁舎を出た記憶もなくはない。  そこで


③ 9時業務開始は全国的な慣例なのであるが、必ずしも実態を反映したものではない。
と付け加えた。  国会開催時なら、確かに午前様に納得はする。  しかし、いつも必ずではあるまい、と。
ところで、この頃はパソコンはもとよりファックスもない時代だったから、調査物の依頼などはまず電話が入り
しかる後に書類が郵送で届けられるという、のんびりした時代だった。  今ならメールで瞬時に来る。


それに加えて、各段階で集計に要する時間を取るから、下に行くほど提出までの時間が短くなる。
県の出先から集まった数字は、本庁で一覧表に集計され、国の出先に提出される。  そして国の出先は
各県から集まった数字を集計して、本省に提出する。  本省から一週間の期限で要求があれば、末端では
2~3日の期限しかなくなる。  集計者とすれば、すべての出先が期限内に問い合わせがいらない報告を
完璧に出してくれれば最高である・・と思っているが、そんな理想はまず成就されない。


末端の記入者の、凡例に対する判断が微妙に食い違うから。  かくして
提出期限はもっと早められる。  記入者は 「地獄だ」 と想い、集計者は 「自業自得だ」 と考える。
また、「送り状(表書き)」 に決裁を要するため、記入書類だけ早く届くような場合も無きにしも非ず。
集計者にとっては、「送り状」 なんてどうでもいい。  ブツ(記入書類)を一刻も早く受け取りたいのだ。


これらも、電話の向こうの相手の顔を知っているから可能なのであって、知らないと
どうしても杓子定規にならざるを得ない。  それがひいては、末端の記入者を苦しめる結果になる。
だから会議の後の懇親会は、無駄とばかりは言えないのだ。  出先の者同士のネットワーク作りにも役立つし。
「あいつはこの分野では、かなり経験がありそうだ」 と知っておくのは無駄ではない。


ところが、「移動したら別の分野をやりたい」 と考えている技術鷹は、あえて爪を隠す傾向がある。
転勤先の上司に発見されないように。  こういう技術者は、前に一緒にいた上司が今度の新天地もいると
悲劇でしかない。  確かにまんべんなく担当した者の方が、おおむね出世は早い・・ようだ。  というか
目を付けられた者は、ゼネラリストの道を嫌でも歩まされる、が正しいのかも・・・。


「ところでこんな文章、誰が読むんだ?  知ってる人には退屈だろうし、知らない人には
馬の耳に念仏だろう」  確かにそういう観点から見れば、読む人はほとんどいなくなる。
しかし筆者とすれば、憶えているうちに書き残したいと考えても、悪いことではあるまい?
遠く時間がたった今だからこそ、文字にできることもある。  縁側での独り言だと思ってくれ。

「迷走する瞑想集955」 2018/03/18

役所では4月1日に担当者が異動で交代すれば、それ以降はたとえ発端が前担当者の失態であったとしても
その責任はすべて、現担当者が負わねばならない・・これは会計検査でも不祥事の発覚でも同じ。
発議文書に前担当者の名前が書かれてあったとしても、理不尽のようだが叩かれるのは現担当者である。
だからヤバイ案件を担当した場合などは、移動を心待ちにすることは当然の帰結になる。


不祥事の再現を防止したいなら、現担当者が発覚を防げなかったことは問題であろうが、それよりも
「その案件を実際に担当していた者が、なぜやってしまったか」 を究明しないと、本当の解決にはならない。
しかし会計検査などは、「やってしまった間違い」 を検査するのであって、担当者が誰であろうと
そんなことは問題にはしない。  だから伝聞では、国の機関などでは当時担当していた者たちを
検査時に強制的に呼び戻すらしい。  出張旅費が大変であろうと推測するが、考え方としては合理的である。


実際に担当していた者が、その案件には最も詳しい。  つまり最強の布陣で臨む、ということだ。
国の機関だから、事務所間は遠く離れているだろう。  しかしそれはお互い様だ、という認識なのだろう。
出張旅費は、現在駐在している事務所から出るはずだから。


地方公共団体でも、このような対抗策を採っているのだろうか?
福島県のような広大な県では、残念ながら採用されていない。  町村役場なら、こじんまりとしているから
前担当者が検査時に、応援に駆けつけることは十分考えられるが。  このような策を採っていない場合
たとえば4月に会計検査が入るようになった時(実際あった)に、大騒ぎになる。


新任者が現場状態さえ把握し切れていない時期に、前年度や前々年度の事について質問されるのだ。
人事課は 「担当者、係長、課長のすべてを同時に交代させていない」 と豪語はするだろう・・しかし。
確かに同じ技術屋だから、他人の作った設計書でも読める。  しかし細かいところまでの理解には
どうしても時間がかかる。  それでも検査官の前で、「それは分かりません」 とは絶対に言えない。


「それなら、検査が7~8月頃ならいいのか?」 技術屋は4、5、6月を遊んで暮らしてるとでもいうのか?
年度の発注計画を立て(計画書は前任者が作って引き継ぐ)、早期発注をこなしながら過ごしている。
とても過去のおさらいを、悠長にしている時間的余裕などどこにもない、のが現実だ。
・・・この話題はこれぐらいにして、不祥事の原因追求に話を戻そう。


本当の原因者の名前を知ることができるのは、ごく内輪に人間だけだし、そんなことを一般に公表などしない。
もっとも国を揺るがす不祥事なら、過去の担当者の名前もあるいは出るかもしれない。
しかし現在においてその担当者が他部署に移っているとなれば、当該部署内だけでの追求には限度がある。
かといって外からの検査は、「不始末の事実」 のみを現組織に迫るだけだし。


「移動」 はその人に別人になることを要求するから、別人になってしまった人に、原則過去の責任は問えない。
せいぜい、それを見抜けなかった上司に、注意がされるぐらいであろう。  ただし
純粋に悪意の行為であるなら、遡って追求される可能性はある。  だが悪意と単なるミスとで、キッチリと
裁定を付けられるものだろうか?  だから大抵は、うやむやになってしまうのでは・・・。


だからといって問題が起きた時、時系列で見ていくことは無駄な捜査法でではない。
でないと、本当の 「原因者」 を見逃すはめになる。  そして
スケープゴートになるのは、たいてい手っ取り早い 「現担当者」 の方である。
本当に悪い者を罰しえない追求など、やっても何の意味もない・・と思う。

「迷走する瞑想集954」 2018/03/17

会計検査院は、国費を受け取ってそれを使用した 「事業主体」 の執行状況を検査するのであって
最終的に金をくすねた者への懲罰云々は、守備範囲外である。  だから、詐欺まがいの行為が発見されても
「なぜ、そんなおかしな要請に金銭授受を許してしまったのか?」 と、「事業主体」 が責められるはめに。
もし 「補助金返還」 の事態になっても、金を返させられるのはあくまで 「事業主体」 である。


それでは一番悪い 「だまして金を受け取った者」 は、お咎めなしなのか?  会計検査は
「補助金使用者」 の行為を検査するものであるから、支出までに違法なことが発見されなければ
「異状はありませんでした」 で検査は終了する。  しかし、虚偽申請者を警察に告訴することはできる。
あとは捜査を、バトンタッチするということだ。  犯罪人をとっ捕まえるのは警察の仕事だ、ということで。


個人を逮捕する権限までは、おそらく会計検査院は持っていないだろう。  いっぽうで
「事業主体」 が最も恐れるのは、「検査翌年度の国会報告」 である。  これで具体的な名前が出たら
万事休すだ。  「事業主体」 が早々に罪を認めて白旗を掲げたとしても、国会で名前は知れ渡ってしまう。
よく役人が、申請者に対して 「疑り深い」 「冷たい」 と言われるのは、こういう事情があるからなのだ。


「しょせん、他人様の納めた税金じゃねえか」 ではあるが、適正な執行を逸脱するわけにはいかない
・・・自分のためにも。  失敗は昇任の延伸となって跳ね返り、ひいては経済的な差(給料)となってくる。
いったん後れを取った給料は、以後その差を取り返すことは不可能だ。  それは生涯賃金の平均の差となって
最後は年金手取り額にまで反映される。  その恐ろしさは、退職後に身にしみて分かるのだが・・・。


一時金の退職金のように、最終基本給で算出されるものとは性質が違う。  それをあまり深く考えないから
職場が平穏に維持されている、と言えば言えるのだが・・・。

「迷走する瞑想集953」 2018/03/16

文書が書き換えられたのが去年2月以降の国会答弁以後なら、財務省側の発言に則して近畿財務局が
書き換えを行なったの理論が正当化されるだろうが、去年2月以前ならばその理論は当てはまらない。
とうぜん財務省側は、書き換えられた後の文書をもとに答弁するだろうから。  では実際に
書き換えが始められたのは、何月何日からだったのか?  パソコンに日付が残っているだろう。


また、国土交通省側は 「書き換え前の文書」 を受け取っていたのだから、文書を受理した日付は
何月何日だったのか?  少なくともこの日までは、文書は書き換えられていなかったのは明白だ。
「文書が書き換えられていた」 は確かに問題だろうが、「文書案」 と 「決定文書」 の間なら
ぜんぜん書き換えが行なわれない方が、むしろ希である。  たとえ文書起案者が自信満々に書き上げても
それがすなわち 「決定稿」 にはなりえない場合が多い。  上司は目の付け所が別だから。


しかし 「書き換え前の文書」 が国土交通省に送付されていたのだから、その文書は 「決裁後」 すなわち
「決定版」 なはずである。  まだ内容が固まっていない文書を送りつけられたら、相手方は怒り出すだろう。
一方で、守秘義務のある役人同士で詳細な情報を共有する必要があれば、洗いざらいを記載した参考資料を
添付してやるのもまた、余計なお世話とは言えないのではないだろうか?


「痛くない腹を探られたくない」 から、国会向け(すなわち一般国民向け) の資料からは、不確定な事実を
外したのではないのか?  役人に集まる情報の中には、事実の判明しないものが多く含まれる場合があるから
未確定の情報は役人同士では知っておくべきでも、一般国民にはあえて発信しない方がよい・・との
判断があったのではないか? と、素直に見ればそう思える。


書き換えられたのは、国会議員向けの文書だけだったのであろう?  だったら・・
「公用文書」 と 「パンフレット」 の違い、なのではあるまいか?  もし、基礎知識がない人が
文書類をすべて覗き見るときには、「猿ぐつわ(守秘義務)」 を課すべきなのかもしれない・・と
思ったりもして。  だから警察は、捜査状況を逐一事細かに発表しないのでは?

「迷走する瞑想集952」 2018/03/16

会計検査院は国費を不当に使用した案件を洗い出す機関だからして、違った内容の文書が二枚あったぐらいでは
大騒ぎしないのでは? と感じた次第だ。  おかしいと思って捜査を依頼するとしたら、警察の方だろう。
あるいは地検特捜部とか・・・。  そもそも犯罪性があるかどうかを、会計検査院で判断できるだろうか?
土地取引の経緯などなら、頼まれなくとも調査するだろうが。  それが、会計検査院の本分だから。


会計検査院は警察のような仕事をしているが、警察組織とは捜査の対象が別なのだ。
だから今回も、それだけで動き出しはしなかった・・これが真相ではないのか?
土地取引(国庫に損害を与えたかもしれない)に関して調査してみて、手続きに違法性がなかったのならば
国会報告の義務は、はなからなくなる・・それだけのことだ。  言っておくが会計検査院は甘ちゃんではない。


検査官がとっ捕まえてきた案件を、今度は上司が吟味をするそうだ。  だから、完全な予算の不法使用を
立証が難しい案件は、ほとんど懸案事項にされるのであろう。  だから違算や記入ミスは現行犯逮捕に等しい。
弁明の余地がないのだ。  「考え方の相違」 では争えないから。


国交省が書き換え前の文書でもらっていたのなら、財務省は訂正後に差し替えさせてもらっておくのが常道だ。
それをしなかったのは、なにか後ろ暗いところがあったから・・と勘ぐられてもしょうがない。
また、他省庁にまで出す文書が 「未定稿」 のはずがない。  あれは 「完成版」 だ、省庁間では。
要するに 「国会議員に見せる文書」 に手を加えたに過ぎない。  それでも 「虚偽報告」にはなるのだが
事務手続き上にはなんの影響も及ぼさない。


会計検査院が動かなかったのだから、土地取引の手続き関しては違法性は認められなかった、といえるのだろう。
かつ、相手方が逮捕されたのは、その前段で犯罪性が確認されたからだろう。  土地を売った方としても
外聞が悪いことではある。  だからそれに関する記述を極力削除した・・そういうことではないだろうか?
誰でも自分の落ち度と受け取られそうな事は、あまり口外したくないものだ。


ところで国会議員にも、守秘義務はあるのだろうか?
なんでもテレビの前で喋ってしまいそうな気がする・・たとえ、それに違法性がないことでも。
しょせん議員は人気商売だ・・と、役人たちは思っているのではないだろうか?
「大人の対応」 など期待しても無駄だと・・・。

「迷走する瞑想集951」 2018/03/15

最近ユーチューブの音楽にはまっているのだが、戦時中の歌謡にも心浮き立つものが少なくない。
戦意を高揚させるために作られているのだから、当然と言えば当然なのだが。  しかしその責めは
歌詞が負うべきであって、作曲そのものに罪は少ないのではないか? と感じた次第だ。


「海ゆかば」 や 「愛国行進曲」 がよいし、「愛国の花」 や 「元寇」 「水師営の会見」 それに
「婦人従軍歌」 もよい。  ついでに言えば 「行進曲・軍艦(軍艦マーチのこと)」 も最高だ。
といって、私がガチガチの右翼主義者というわけではなく、実際戦時中に生まれてもいなかった。


歌詞がもちろん大事な要素ではあるのだろうが、気分を高揚させてくれる音楽は、やはり捨てがたい。
「戦争を賛美する歌詞」 が気に入らないなら、現代風の歌詞に 「書き換え」 ればよかったのだ。
歌詞のせいで曲までをお蔵入りにさせてしまうのは、何かもったいない気がする。


現に童謡でも、歌詞が書き換えられて現代に至っているものはいくらでもある。
ほとんどの有名な童謡は、対戦以前に作られているから。  やはり、いいものはいいのだ。
明治43年に文部省唱歌となった 「われは海の子」 にしても、当初の第7番目の歌詞を見たらば
平和団体なら飛び上がることだろう。  しかしこの歌は、現代でも歌われている・・毒気を抜かれて。


作曲にアレンジャーが欠かせないのなら、歌詞に編詞者(?)がいたとしてもおかしくはない。
しかしだ、最初に上げた歌謡曲ぐらいなら、平気で歌える環境の方が望ましくはないだろうか?
「水師営の会見」 にしても、負けたロシアの指揮官をクソミソには言っていない・・「元寇」 ほどには。
だから、外交問題に発展する恐れは少しもないと考える。  「元」 という国家はもうないし・・・。

「迷走する瞑想集950」 2018/03/14

もし、文章が自分の指示通り訂正されたのを確認した上でハンコを押す、というのを徹底したらどうなるか?
シュミレーション(実際にあったことだ) をしてみよう。


① 担当者が起案文書を書き上げ、係長に回す。
② 係長が文章の一部訂正を指示する。
③ 担当者は文章を打ち直し、係長のハンコをもらう。 文書は課長補佐のところへ。
④ 課長補佐が文章の一部訂正を指示する。
⑤ 担当者は文章を打ち直し、課長補佐のハンコをもらう。 文書は課長のところへ。
⑥ 課長が文章の訂正を一部指示する。
⑦ 担当者は文章を打ち直し、課長のハンコをもらう。 文書は次長のところへ。
 ・・・・・
何度も訂正を繰り返した末に、表現が当初のものに戻っていた。


こんなアホなことが、起こりえる(実際起こった)ことが十分考えられる。
だから直させるだけ直させておいて、訂正作業は一回で済ませる方がはるかに合理的なのだ。
たいていは一番上位の者の訂正案に落ち着くが。  しかし順序があるから、いきなりトップには回せない。
起案書は鉛筆の訂正箇所や付箋等で汚れまくるが、どうせ下書きだと割り切るしかない。


これがハンコの数が倍増する 「合議(あいぎ)文書」 にでもなったら、どうなるのか?
確認しないうちはハンコを押さないは正論だが、事務の停滞を招きかねないことを肝に銘じるべきだ。
ていうか、そんなに部下を信用できないのなら、アンタ自分で発議したら・・と言いたい。
その時は逆に、たっぷり修正を要求してやるから・・と(内心で)思うのだった。


だから役人にだけ正論を押しつけられても、よい結果には結びつかない。
回答までの長い時間に耐えられる、忍耐力があれば話は別だが・・・。
事務処理にまで、素人はあまり首を突っ込むな・・と、役人は思っているだろう。
いかに開かれた行政とはいえ・・・。

「迷走する瞑想集949」 2018/03/14

起案文書(お伺いを立てる文書)は、書き上げた時点で不磨の大典ではなく、柔らかな粘土細工のように
いくらでも形を変えることが可能だ・・と前項で述べた。  でないと、上司の出る幕がない・・とも。
さて、当面の事案に最も精通しているのは起案者(担当者)であろう。  その最も精通している者の書いた
起案文書を、担当者ほどに事情を詳しく知らない上司が、はたして書き直しを指示できるものだろうか?


できるのである。  要するに、ヒラ(担当者)の見ている視界と上司が見る視界は、広さが違うからである。
担当者は詳細に知っているが、言葉を換えれば近視眼的とも言える。  それに対して上司になればなるほど
大所高所から事案を検討することができる。  すべての上司がそうである、とは断言しないが・・・。
その結果、「ここはこう直せ」 とか 「この記述は不要だ」 とか、注文を付けてくる。


起案文書とは、たんに業務遂行の宣言だけにとどまらず、多くの事例との整合性を取るという意味合いもある。
だから公文書の 「確定版」 以外は、たんなる 「打ち合わせ書」 でしかない。
その 「打ち合わせ書」 まで開示請求する者は、当然 「固まらない粘土」 状態であることを知らなければ
むしろ開示しない方が得策である、と役人が考えたとしてもおかしくはない。


結果(公式文書)のみを公開した方が、誤読される可能性は低くなるのでは・・と考えるのではないか?
むろん公式文書は秘密でもなんでもないから、わざわざ開示請求するまでもないが・・・。
要は、誰がどのように読むのかが分からない怖さなのだ。  もし、本当に悪事を行なっているのなら
そもそもその事を文書開示者の期待通りには、文書なんかに記録してはおかないだろう。


文書は役人の守り神であると同時に、命取りにもなるということは、役人はすべからく知っている。
だから、悪事の尻尾を文書開示でつかもうという企ては、たいていの場合失敗する。
上司が 「他案件との整合性」 を常にチェックしているから。  単独犯の場合は以上である。
部署全体の悪事なら、隠蔽工作はもっと精緻になるであろう。  そして部署全体の悪事は


それをやる必然性を共有できなければ、いずれ破綻する・・密告者が現われて。
だから 「トップを守るために書き換えを始めた」 の理由には、私は懐疑的である。
トップが失脚すれば下の者が上に上がれる、と考えればあえて危険を冒す意味がない・・部下にとっては。
自分たちに火の粉が及びそうだから一丸となって作業をやった・・の方が、現実味がある。


謎の解明に、先に自分の気に入るストーリーを思い描いてしまうと、真実にはたどり着けない。
人はたいてい、道義よりも自分の不利益の除去を優先させるものだ。

「迷走する瞑想集948」 2018/03/13

もし、決裁前に書かれた文書と、決裁後に直された文書が違うと騒いでいるなら、「決裁後に直された文書」が
本物であって、それ以前の文書はあくまで 「下書き」 でしかない。  というのは文書起案者の文章は
上の者によって、加筆あるいは削除さらに訂正を要請された形で戻ってくるから。  だから
すべて直し終わった確定版が 「公文書」 と呼ばれるものである。  しかし訂正を要請した者は
訂正後でないとハンコを押さない、わけではない。  中には、そんな意地悪なのもいるかもしれないが・・・。


起案書は普通いちばん下の者が書くから、直すつもりなら 「てにをは」 から如何様にでもイチャモンは
付けられる。  実際、そんなしょうもない上司もいないことはなかった。  それでも
「文書は、指示したとおり直される」 の確信を持って、ハンコは押してくれる。  もっとも
指示通りしなかったら、あとで公文書を見られて大目玉だ。  訂正要請された起案書は担当者が持っている。
下書きなどは本文が確定したら破棄すればよいのだが、「他人の意思」 の証明にもなるから捨てられない。


しかし以上による相違なら、違っていて当たり前である。
小説でも最初に文豪が書き上げた原稿と、本になった時では多少は違うものである。  そして
「本になった小説」 を我々は 「作品」 と呼ぶ。  自費出版でもない限り、編集者を無視はできない。
だが、作品になった小説をまたもいじくり回すのは、普通はやらない。  それと同じこと。
いったん公文書になった文章を、またもいじくったら 「公文書偽造」 である・・それがなんであれ。


今回は、トップの誤った国会答弁に沿うように組織が公文書を書き直したらしい、という見立てだが
逆のケースは考えられないだろうか?  つまり、決裁文書が固まった(最終版)のを確認した上で
トップが国会答弁をしただけ(順序が逆)・・というパターンだ。  その場合
決裁文書作成に関わった者たちの方が、どちらかというと罪は重い、とは言えないだろうか?  えてして
辞めたり死んだりした者たちへ、一切の責任をおっかぶせるという行為が、あり得ないことではあるまい?


本当に、国会答弁の後に書き直しが始まったのなら、トップに同情の余地はないが・・・。
密かに業務記録でも付けていたのだろうか?  「○月○日 書き換え作業に入る」 とか。
トップは普通、決裁文書作成などの業務途中に、いちいち関わったりはしないものだ。
だから、書き直し後が正式版だと部下に言われれば、素直に国会答弁でもそう言うだろう。

「迷走する瞑想集947」 2018/03/13

決裁文書を起稿する担当者は、いちいち文書にくっついて行って説明などしていられないから
事の経緯を事細かに文書に添付する。  それには関係者の発言なども、正確に復元されるのは勿論だ。
しかし発言の真偽のほどは、担当者の判断するところではないし、疑わしい発言を勝手に削除などすると
上司の判断に狂いが生じかねない恐れさえある。  だから、あらいざらいをテーブルに載せる。


しかしこの 「経緯」 は内部の判断資料であって、外部に出て行くものではない。
もし上司が、「この発言は問題があるから文書から削除しておけ」 という指示をすれば、担当者はそれに従う。
役所内の文書と役所外に出て行く文書で内容に違いがあるのは、こういう配慮が働いたためだろう。
それとおかしな手続きとは、分けて考えなくてはならない。  もちろん国会議員からすれば
「嘘をつかれた」 になるのだが、提出方から言わせれば 「曲解されないよう配慮した」 になるだろう。


それとは別に、行政官庁から開示される文書が 「常に、眉につばを付けねばならない」 という問題の方が
重大だと思う。  天下の財務省でさえ行なっているのなら、他の省庁も推して知るべしである。
「黒塗り」 で隠すのはまだかわいい方だ・・と言えるかもしれない。
「いらぬ誤解を防ぐためにやっている」 としても、それで国民の判断に狂いが生じるとしたら・・・。


役所内部の検討資料まで公開させるのは、真偽をしっかりと判断できる場合に限られるであろう・・と
開示側は考えている節がある。  でないと、「この文言の意味は、実はこういうことです」 と
説明して回らなければならなくなる。  そんなことはできわけがないし、ことによったら
信用されないかもしれない。  白を黒と言いくるめることと、グレーを取り除いたことは同罪だろうか?


これが糾弾されすぎると今後役人は、真偽の判明しない経過を一切文書に残さなくなる恐れがある。
全部、会議上で口頭で説明して終わり、になるかも・・・。  そうなった方が、闇は深まる。  文書は
その一部分が開示されれば、一人歩きをする・・それが怖いのだ。  すべての経過を熟知しない素人によって。
職務経験者がかみ砕いて説明すれば、「同業者をかばっているな?」 と受け取る者さえいるし。


あるいは、もう一つ抜け道がある。  それは 「参考資料」 として発議書に添付する方法だ。
発議書本文に、「詳細については参考資料を参照のこと」 と言及していなければ、決裁後に外しても
その存在を証明はできなくなる。  誰かが写しを保管していたとしても、「おめーが作ったじゃねえのか?」
で終わりである。  万が一文書綴りに綴じてあるのが分かっても、「これは参考資料に過ぎません」 で
逃げられる。  「参考資料」 の存在など、部外者に分かろうはずがない。


そして 「関係書類をすべて開示せよ」 の要請にも、「参考資料」 は引っかからないだろう。

「迷走する瞑想集946」 2018/03/12

たとえ出先機関に文書開示請求をしても、その請求書は本庁に送られ、本庁が窓口になる。  なぜなら
本庁が最終責任者だから。  要求された文書類は、まっさらのまま本庁に提出される。  間違っても
出先機関で独自判断をして 「黒塗り」 をしてしまうことはない。  そんなことをしたら本庁に
「おめー何様のつもりだ。 これじゃ判断できねえじゃねえか」 と再提出を要求されるだけだ。


また、文書の内部を改ざんして提出したとしても、同じ仕事をしている者同士だ、バレないわけがない。
あげく出先機関は味方からも、痛くもない腹を探られるはめになる・・文書開示以前の段階で。
だから本庁を回せず直接、特捜部あたりが書類を押収していく以外は、出先機関での改ざんはあり得ない。


もし国会議員への公開文書で改ざんが行なわれていたのなら、それは窓口になった本省の仕業であろう。
「誤解の種になりそうな文言を、あらかじめ取り除いておいた」 だけかもしれない・・当事者に言わせれば。
気を利かしたつもりが、火に油を注ぐ結果になってしまった。  野党は火を起こしたいのだから・・・。


本来、予算委員会は予算案を審議するための会議なはずだ。  しかし予算案は
堅固な要求理由でキッチリと積み上げられているため、個別攻撃しようがない。  かといって
包括的な論戦に持ち込むと、そういう 「攻防戦」 は役人の得意中の得意である。  必ず千日手になる。
つまり勝負が付かず、審議終了を告げられてしまう。  あとはご存じの通りだ。


実は予算の中には、安全上 「フカして計上」 してあるものがかなりある。  それを無駄だとは言えないが。
公共事業の地区予算要求でも、要求は前の年にやる。  ということは、実施する翌年度の単価は不明なのだ。
つまり、発注設計書を作ったわけでもないから、ドンピシャの金額でなんか要求できない。  とすれば
何パーセントかの 「割り増し」 を潜ませておくことは、あながち間違いとは言えないだろう。


物価が安定している時でも、「来年はどうなるか分からない」 が慣例化してしまって予算を要求する。
建設資材が高騰して既割当の予算では足りなくなった時は、追加割当を要求すればいいのだが・・・。
一地区だけべらぼうなアップ率で要求すると、「おめーの見積もりは大丈夫か?」 と言われそうだし・・・。
足並みをそろえることは、何事にも大事なのだ・・特に行政では。


それで結果的に予算が余ってしまえば、あとは次年度予定の工事を前倒しさせるだけだ。
あるいは、「工事費削減に成功しましたので、予算をお返しします」 でもいいだろう。  ただし
年度末頃に返されると、その予算の引き受け手がどこも手を上げないという、窮地に追い込まれる可能性が
ゼロではない。  今はどうか知らないが昔は、国の出先機関は年度末返還には、モロに嫌な顔をした。


「じゃあ、繰り越せばいいじゃないか」  翌年度に繰り越すという手もなくはない。  ただし必ず
次年度に消化できるという自信があればだが。  二度続けて繰り越すことは、許されない。
だから 「用地交渉が難航して・・」 という繰越理由はよく使われるが、本当に地主が強硬だと次年度でさえ
工事開始が危ういことにもなりかねない・・・。


話は戻るが、予算案の中に潜ませた割り増しは、関係の仕事をしたことのある議員なら見つけ出せるだろう。
しかし 「関係の仕事をした人」 とは、昔は当事者だった人でもある。  そんな議員が
必要悪である 「割り増し」 を追求できるだろうか?  できるはずがない、一番必要なことを知ってるから。
予算要求に厳密さを追い求めると、予算調整や追加要求の頻度が増え、技術系職員の事務量が増大する。


技術系職員は、現場にこそ集注させるべきなのだ。
「でも事務屋には、工事費の要求なんてできない」 じゃあ、現場に目を光らせることはできるのか? と
問いたい。  不完全なものを造った責任は、技術屋が全面的に負う。  それを繁雑な事務で忙殺した責任は
いったい誰が負うのか?  いたずらに本業以外の仕事を増やしても、いいことはまるでない・・と思う。

「迷走する瞑想集945」 2018/03/11

「伺い文書」 の場合文書の表書きは、上司に対して 「別紙のように施行してよろしいですか?」 と
事案の経緯を含めて承諾を迫る書き方になる。  しかし、この内容が受取手に伝わることはない。
切り離して 「別紙の文書」 だけが送り届けられ、その内容は簡潔に相手に指示することだけを述べている。


そして 「○○送付文書」 の原本は、所属長印を押さない 「別紙の文書」 の発信者控えである。
それを 「原本」 と確認できるのは、ハンコがベタベタ押された発議文書とセットになっているから。
しかし発議文書はいわば内輪の相談用だから、外部に出ることはない。


では、今回 「原本、原本」 と騒いでいるのは、どれを指して言っているのか?
送付元が持っているのは1部だけ。  もう1部は受領者が保管していて、所属調印が押されているはずだが
それを 「原本」 とは呼ばない。  あくまで発信者からすれば 「写し」 である。


普通に考えて 「原本」 と 「写し」 の間で、書き直しは行なわない。  やっても、すぐバレる。
害多くして益はまったくない。  しかし 「原本」 と 「公開文書」 の間でなら、やらないこともない。
現にプライバシーの保護と称して、真っ黒く塗りつぶすことは役所の常套手段である。


「しかし、国民の代表たる国会議員には・・」  国会議員も一般国民と同じだ、と役所が判断したら?
かつて国会議員にも、黒塗りの調書を提出したことがなかったか?  同じ穴の狢、と見られたか?
それとも、隠匿すべき何かをやっていたからか?  どちらとも判断は付かない。


役所が特に記録に残したくない事柄とは、特定の個人に便宜を図ってやった事実だろう。
役所内では承知の事実でも、外部に漏れてしまっては困る・・と判断すれば、公開文書に 「黒塗り」 と
同じような行為をしないとも限らない。  文書を書き直すのではなく、部分削除して済むのであれば・・・。


「部分削除」 なら見つかっても、「うっかり落としました」 の言い訳を完全否定することは困難だ。
だが 「書き直し」 なら、その 「うっかり」 の言い訳が使えない・・としたら?
業務上の失態と、その後の隠蔽工作問題は、分けて考えなければいけないだろう。


隠蔽工作問題に目を奪われていてはいけない。  業務上の失態があったなら、即懲罰が役人の宿命だ。
ところで 「特定の個人に便宜を図ってやった」 ことを、どうして役所は記録に残したくないか?
その行為が、誰にも非難されるべきものではなく、ちゃんと理屈が立つとしても。


それは、その行為が前例となって、次の同様の申し立てを拒否できなくなってしまうからである。
だから、ほ場整備事業でも個人による直接陳情は受け付けない。  「地区の工事委員会を通してください」 
と冷たいようだが返答する。  その場でオーケーをすると、あっという間に情報は集落中に広まる。


そして、第二第三の同様な特別案件が持ち込まれるのだ。  下手をすれば予算が足りなくなる恐れも。
「これは特別ですよ」 と念を押して、それで人の口が封じられたためしがない。
直接取引は解決のスピードはあるが、次に問題が起こった時、誰もかばってはくれない怖さがある。

「迷走する瞑想集944」 2018/03/11

門外者によって曲解される恐れが十分にある文言、しかし識者になら幾らでも説明が可能であるとしたら
誰が読むか分からない公開用文書から、意味深にとられかねない文言を削除しておくことは
余計な仕事(誤解を解く)を増やさないために、あり得ることだとは私は思う。


なにせ、予算案の集計結果の一カ所でも誤算が見つかると審議は停止してしまうから、本省役人は常に
ピリピリしていると、かつて聞いたことがある。  野党は審議を止めたくてウズウズしているのか? と
暗澹たる想いになった記憶がある。  人のやることだ、何度チェックしてもすり抜ける間違いはある。


それを 「すいません間違えました」 で許されないのが、役人を取り巻く世界なのだろう。
しかし 「間違い」 は膨大な業務の中に、常に起こり得る。  だから、それをごまかすテクニックが
役人には必須になってくる。  青焼き(当時は湿式コピーだった)の図面を、陽光にさらして古く見せるとか。
あるいは、差し替えた新品の用紙を、わざと手で折り曲げて古く見せるとか・・・。


「何も問題はない」 ように見せかけるために、涙ぐましい陰の作業があった。  一般市民は
役人に対しては神のごとく一切の失敗を許さない態度なのだ・・と、教わったような気がする。
しかしもし本当に、一切の間違いがないのであれば、会計検査院や監査などいらないことになる。
もっとも、間違いだけではなく悪意の所業も存在はするから、なくせはしないだろうが。


「悪意の所業」 とは、誰かが得をし、ほかの誰かが痛手を被る所業のことである。
だが会計検査院は、この二つの事案に対して両方とも 「国庫補助を返納せよ」 との裁定を下す。
国会報告にでもなれば、国民は両方とも 「悪だ!」 と思うに違いない。
「悪気はなかった」 と言ったところで、はなから信じて貰えるはずがない。


ところで、「今はコンピュータで作業する時代だ。 集計ミスなどあろうはずがない」 と思うだろう
はたしてそうだろうか?  たとえば予定価格の元になる積算設計書、これも今はコンピュータ製だ。
足し算かけ算に間違いはない。  しかし、入力するのは人間である。
数量の単位を誤入力したらどうなるか?  100㎡単位の所に、1㎡単位の数量を入力してしまったら?


金額は100倍の値が打ち出される。  この危険は皆無ではない。
あるいは作業機械の単価において、作業条件を間違って入力してしまったら?
金額は、数量かける単価である。  これでも金額は違ってくる。  しかし見慣れていれば
「これ、ちょっと多いんじゃねえ?」 と気がつき入力し直すが、発注を迫られていると・・・。


しかしいずれ間違いは発見されるから、差し替えのテクニックが発動されることとなる。
「しかし、何人にもチェックされるんだろうが」  そうであるが、すり抜ける間違いがゼロにはならない。
「設計書が読める」 技術者同士がチェックするから、目の付け所は似たり寄ったりなのだ。
「総じて設計金額が高すぎる」 に気がつけるのは、かなりの経験を要する。


そして会計検査院は、全国の同種工事のデータを収集済みで検査に入る。  だから一目でおかしいと分かる。
私が受検した時は、コンピュータを受検会場に持参していた・・のぞかせてはくれなかったが。
「あのデータが欲しいなあ」 と受検後に話した覚えがある。  経験の浅い技術者には強い味方となるはずだ。
検査官個人用のデータであろうから、無理なのは分かっていたが・・・。


もっとも、積算金額の目安をあえて示さないのは、どの現場でもガチガチの規格設計で
押し通してしてしまうことを防ぐ意味もあるのかな? とも思ったりもした。
現場にはすべて 「個性」 があるから、他の現場は参考にしかならないのだ。
規格設計は、その個性をすべて無視してしまう・・・。

「迷走する瞑想集943」 2018/03/10

公文書に 「公」 の字があるから、広く一般向けに書かれた文書だ・・と思ったら大間違い。
小説やエッセイの類いとは目的が違う。  どちらかというと 「お役所発行文書」 が合っている。
それは、明確に対象者に向かってだけ発行される文書であるから。


だから、門外漢が読んでもチンプンカンプンなのだ。  文書の発行前に、多大の打ち合わせが存在するから
経緯を知らない者が読んでも理解できるわけがない。  公文書は、その最後の仕上げでしかないのだ。
公文書から仕事が始まると思っている人もいるだろうが、担当者からすれば公文書を書く時
仕事の大半は終わりなのである。  仕事が始まるのは、公文書を受け取った側でしかない。


また、文書綴りには公文書一枚がポツンと存在する、わけではない。
度重なるやりとりの経緯が、すべて同綴りに保管されている。  だから 「これはマズイ」 と気がついて
一枚の文書を破棄したとしても、前後の文書から一枚が抜けていることはすぐに発覚する。
課長や係長が 「あの文書を見せてくれ」 と言った時、文書綴り(ファイル)ごと渡すのが当たり前だから。


だから、一枚の文書だけが行方不明になった場合には、課全体の関与が疑われる可能性がある。
やるならファイル一冊まるごと行方不明にした方が、悪行はばれにくい。  皆で探すはめにはなるが・・・。
さらに、公文書は送り手と受け手が、同内容の書類を保管するのが鉄則だ。  だから
発行元だけが差し替えたとしても、受領者の文書がもとのままでは、すぐに異変に気がつかれる。


さらに受領者の文書まで、「すみません、差し替えさせてください」 と頼んで交換したとしても
受領者がもとの誤った文書を素直に廃棄してくれるかどうかは、発行者の関知するところではない。
だから、信頼関係は大事なのだ。  信頼関係を良好に築ける人なら、あえて悪行に及ぶことなどないだろうが。
冷たい信用のおけない担当者だったなら、廃棄すべき文書も全てに渡って根こそぎ保管されてしまうかも・・・。


以上のことは、悪行の発案者と実行者が一緒だった場合の話だ。  しかし
役所には 「業務命令」 があるから、下の者はよっぽど事がない限り、上の命令には従わなければならない。
これがあるからこそ、役所はスムーズに業務を遂行できるのだ、とも言える。
べつに逆らってばかりいても首を切られるわけではないが、遠隔地に飛ばされたり、昇進が遅れることはある。


なぜなら上司には 「勤務評定」 という、伝家の宝刀があるから。
これにクソミソなことを書かれたとしても、部下にはそれをうかがい知ることはできない。
「なんとなく昇進が遅れているなあ」 と感じ始めた頃には、すでに上司は別の部署に移っているという寸法だ。
昇進がないと昇給もすぐに頭打ちになるという、経済面での業務管理もあったりして・・・。


だから業務命令らしきもので無理難題を押しつけられたら、担当者は 「命令による遂行」 を証明するものを
絶対に保持していなくてはならない。  逆に、その恐れが十分考えられる部下には
あえて無理難題を押しつけてはこないだろう・・と思う。
「方法は自分で判断しろ」 と、自分だけは逃げる姿勢を見せることは、十分に考えられるが・・・。

「迷走する瞑想集942」 2018/03/09

公文書に具体的な事柄を入れたら、その後に 「等」 を必ず付けておくように・・との注意はよく受けた。
「等」 を付けることによって、カバーする範囲が何倍にも広がってくるから
後々、ちょっと想定外の問題が勃発しても、「それも含む」 ということで、対処が可能なのだそうだ。
だから逆に、役人の文書は何を言っているのか分からなくなる。  一種の業務上の安全弁なのだ。


また早い話、文書を送りつける当事者が理解できさえすれば、万人が理解する必要はない・・との考えもある。
公文書作成の前段で、当事者とは幾度となく話し合いが持たれているからである。
以上を勘案すると、「地下にゴミが埋まっているから・・」 とは書かずに、「本件の特殊性に鑑み」 と
表現するのは至極当然なことである、と思わざるを得ない。


「役人文法」 が、それを読んだ他人に違うことを連想させてしまった・・「偉い人に忖度して」 と
何としても読みたがっている人々に対して・・・。  だいたいにして、「偉い人に忖度して」 の意味なら
そんなことを役人は、わざわざ文書に書かないだろう。  間違いなく口頭で伝えるはずだ。
文書に書き込めば、動かぬ証拠が残ってしまうから。


「含みを持たせ過ぎた表現」 あるいは 「ゲスな直接的表現を嫌う」 の弊害が出た、のではないだろうか?
公文書とは相手を特定して書く文書だから、担当者は広く万人に分かるようになど配慮しないものだ。
「工事仕様書」 と似ている。  「工事仕様書」 は図面とセットで、工事業者に注意を促すものである。
だから、プロの施工業者には分かるが、一般人が読んでもまず用語が理解できないのは仕方がない。


そのかわり必要とする人には正確に意味が伝わるよう、無駄な表現は極力控える。
そういう特殊な文章であるとも言える。  だから、一般人が理解するためには 「翻訳者」 が必要。
今回の騒動は、その 「翻訳者」 の選び方に手違いがあった・・そう思われてならない。
頭から 「役人はズルをする」 と思い込んでいては、正確な翻訳をされたとしても、信用できるはずもないが。


ほとんどの場合、文書起案者(執筆者) はヒラの職員だから、変な暗号で書いても自分の得にはならない。
決裁で回して文章が訂正されて帰ってくることはあるが、その場合横棒で直された文書は必ず残しておく。
「これは自分の意志ではない」 の証明になるから。  そうして訂正後に出来上がったのが
正式の公文書原本になる。  起案文書はあくまで、「下書き」 でしかない・・担当者にとっては。

「迷走する瞑想集941」 2018/03/05

3桁以上には絶対ならない(たぶん) 「元号」 に対して、今は4桁だが将来5桁になる可能性もある
「西暦」 は、自分の生年月日を最大8桁まで憶えなくてはならない。  それに加えて奥さんと子供たちの
生年月日まで正確に暗記させられるとしたら、数字に弱い人たちは 「元号」 にしがみつくだろう。
・・と私は推測する。  「4桁の暗証番号の入力を・・」 で、入力ミスをするような人たちはなおさら。


これに対して暗証文字数で比べると、アルファベットは26文字だが、大文字・小文字で2倍の52文字。
日本のカタカナは、51文字でほぼ同数。  しかしパスワードは大抵、数字とアルファベットの組み合わせ
のみが強制される。  「カタカナ+数字」 でも同程度の組み合わせ数は得られるのに・・・。
キーボ-ドのキーの数を抑えられるからだろうか?  いいや、違うと思う。


それはコンピュータそのものが、英米由来だからに他ならない。  英語が世界標準語と見なされるように
パスワードも 「英数字で入力を」 を強制させられるのだろう。  なにも数字と記号(○△□) でも
必要程度の組み合わせ数なら得られるだろう・・が、記憶するのに意味を付随させにくいから、一般化しない。
あるいは、三角(△) などは、極端に使用頻度が落ちると考えるから?  へそ曲がりしか選択しないとか。


これが数字+漢字なら、組み合わせ数は天文学的に増大する。  たとえば日本人なら、氏名と生年月日だけで
別人との識別が可能であろう。  ただ問題は、他人にパスワードを盗まれやすくなる点である。
「氏名・生年月日」 は至る所で書かされるから。  それに特殊な文字の名前は、「漢字が出ないぞ」 と
ATMの前で騒ぎ出される恐れが多分にある。  それなら、いっそメロディーをパスワードにしたら?


音符は 「ドレミファソラシ」 の7音符で構成し、それで各自メロディーを作成して憶えておく。
メロディーならキーボードはいらず、マイクの前で聞かせるだけで確認終了である。  声紋認識のように
前もって音声登録しておかなくとも、音符の組み合わせが 「鍵」 になるから数字で登録可能であるし。


ただ懸念は、「音痴の人」 が、正しく発声できるか? である。  やはり、顔認証の方が無難か?
それに、誰かに聞かれてしまう恐れがなくはないし・・・。
「なにをグダグダつぶやいているんだ」  思考のブレーンストーミング・トレーニングをやっていただけだ。
思いつきがあらゆる方向に拡散していれば、まだ老化は進行していない・・という自己鍛錬だ。
「なら、結論なしでもいい訳か?」  「当たり前だ、私は論文や企画書を書いているのではない」


「会話の方がもっといいんじゃ?」  「会話は、相手の趣向に合わせるのが苦手だ・・というか
私の話題の引き出しはごく限られているため、会話がほとんど成立しないのだ」
「もっと少ない奴だって、延々と話をすることはある」  「それは会話ではなくて、むしろ演説だろう」
「しかし文を書くということも、ある種の演説じゃないのか?」  「会話より神経を使わず、楽だからだ」


「どういうことだ?」  「相手の真意を探る頭脳労働が休めるから、その分執筆に専念できる」
「だいぶ後ろ向きだな」  「それに、相手の言葉を片端から記憶する作業も休業できるし」
「老人向きだな、執筆って・・」  「飛び跳ねて骨折するよりは、ましだろうが」
「健康に生きたいとは思わないのか?」  「だから、頭を健康に保つためにやってるんだってば」


ところで、アニメ 『ミニオンズ』 の表情の描写は実に素晴らしい。  特に
スカーレット・オーバーキル(女悪党) の、実に分かりやすい目や口の変化は特筆ものだ。
あれは人間俳優を凌いでいる。  会話において表情の変化を大切にする、いわば国民性の表われなのであろう。
日本人製作のものは、背景や動作を描くのは巧みだが、登場人物の表情に見るべきものはあまりない。


日本人そのものが、オーバーな表情を表わすことを本質的に嫌うから・・だろうか?
だから、アニメの元になる表情のサンプル数の手持ちが少ないのだ、きっと・・・。
スカーレットの場合、最初に女優に演じさせておいて、それを絵におこしたかのような錯覚さえ覚える。
もちろんその場合、表情の倍率は何倍にも増幅させてしまうだろうが・・・。


ほとんど言葉が理解できなくとも(実際、ミニオンの言語は意味不明)、楽しめてしまうアニメだった。

「迷走する瞑想集940」 2018/03/03

高性能な長距離狙撃用ライフルは、どうしても大型化する。  映画で狙撃者物は多々あるが、見てみると
大抵は下に折りたたみの足の付いた、持ち運びに大変そうな代物である。  あれを持って移動するのだから
狙撃手自身も屈強な肉体をしている(実際は、女性の狙撃手もいるらしいが)。
しかし、いかに長砲身の銃であっても弾が発射されれば、後は自然の法則に従うしかない。


映画でも、風向・気温はもとより、気圧や湿度も多少は弾道に影響するらしい。  だから狙撃手には
前もってこれらを勘案して判断する能力が必須である。  弾を発射すれば、なにも修正することは不可能だ。
そして最初の一発で、自分が狙っていることも分かってしまう。  だからなるべく長距離から狙うのだろう。
長距離なら、重たい銃でも担いで逃げる時間が確保できるだろうから。  近くに寄れないのもあるだろうが。


さてスポーツに目を転じてみると、同様の条件は射撃競技やアーチェリーあるいはジャンプ競技に当てはまる。
ジャンプ競技で、空中で方向を変えるのは不可能なはずだ。  着地点をやむなく手前にするぐらいのものだ。
しかしシュートの方向を途中で変えるのは、サッカーではよくやる。  たいていは味方の仕事だが・・・。
カーリングではストーンの方向のほかに、スピードの調整までスイーパーが行なうようだ。


これは投てき手が、実は3人いるということでもある。  単なる掃き清め屋とは違うのだ。
そして、対岸から見張る誘導手の指示に従っているのだろう。  狙撃手にも、観測員というのがセットになる。
単独行動は、ゴルゴ13とベケット軍曹ぐらいなものだ。  所詮人嫌いでは務まらないのだ、狙撃手は・・・。
戦場では常に広い視野を見張る観測員がいないと、狙撃手もおちおち仕事ができないのだろう。


だからスワットの狙撃手には、観測員がいない。  反撃される恐れがないから。
それから考えると、カーリングの出場選手数が4人というのは、まんざらでもない絶妙な数なのだ。
あえてリストラすれば、「スイーパーは一人でも務まるじゃろう」 ぐらいか?  これとて
疾駆するストーンの両側に配置しないと、自在に曲げられない・・とかの理由があるだと推測するが。


では、「先攻・後攻を作戦によって入れ替えられる」 はどうだろう?
卓球のように、5本ごとにサーブ権が交代する決まりではまずいのか?  たぶん、まずいのだ。
カーリングは後攻が圧倒的に有利だから、先攻・後攻をじゃんけんで決めれば、その時点で勝敗がついてしまう
・・という欠点が浮上する。  だから、先攻・後攻を固定してはいけない。


それでも1セット目は、嫌でもどちらかが先攻にならざるを得ないのだが、セット数を増やすことによって
その最初の影響を極力薄めているのがカーリングだ・・ではないだろうか?
複雑なようだが、なかなかよく考えられたルールである。  というか、これが分からないようでは
はなからカーリングを観戦する資格などない・・と言われているようだ。

「迷走する瞑想集939」 2018/03/02

身体障害者は健常者に比べて身体能力の面で不利だから、別枠で競わしてあげよう・・のはずだったのが
補助器具の進化により、通常の四肢の能力をはるかに超えるパワーが得ることが可能になり
その結果、オリンピック記録が逆転してしまっても、まだ 「別枠」 を続ける意味があるのか?  が
前回の妄想だった。


「そうなったら逆に、補助器具使用者と不使用者を分けなければならないだろう」  つまり
不使用者を 「別枠」 にしてあげないと、圧倒的に不利になるから・・が、一応の結論だった。
たとえばメガネは 「弱視者の視力を、正常値の者に近づけてあげる」 が目的だったが


より高度な遠視能力や動体識別能力が付加された時、そのメガネを禁止するのか、眼鏡使用者をすべて
出場停止にしてしまうのか?  同時に、サングラスの類いも禁止されるのか?
これらの問題は現に、選手の使用器具や水着などでせめぎ合いが起こりつつある。
どこで一線を引くのかは、小さくない問題だろう。  画期的な製品が、企業の売り上げに貢献するのならば。


たとえば卓球のラケットやラバーの世界では、このせめぎ合いは古くからある。  結局、用具の進化は
肯定される方向になるのだが・・・。  反発力の大きいラケットやラバーは、速い返球が可能だが
うまく使わないとオーバーミスを連発しやすい。  高粘着性のラバーは、回転を多くかけられるが
うまく使わないと相手の回転にも影響を受けやすい。  そんなわけで、使用もやむなしとなるのだろう。


これは一長一短があるからである。  もし、長所ばかりが大きく短所が無視されるほどだったら、はたして
許可になるのか?  ラケットやラバーのように、誰でも購入することが容易な器具で、なかったとしても。
万人には使用不可能な特殊な器具であったとしても、それは認められるのか?
100メートル走の記録更新の影には選手の向上もあるだろうが、トラックやシューズの改良も含まれている。


土のトラックに昔の運動靴で走ったなら、今の記録は得がたいかもしれない。
厳密に用具の進化を禁止したら、世界新記録のタイムとは永遠にお別れせざるを得ないだろう。
後に残るのは、格闘技のように勝つか負けるかの世界だけである。
勝つか負けるかだけなら、一流選手の技を見るまでもなく、一般世界でも普通にいくらでも体験できる。


記録で過去の選手とも争う競技の、興味は半減してしまうだろう。  では
用具の進化はどこに、歯止めの一線を引くべきなのであろう?
万人に開かれていない・手にすることができない技術は、禁止すべきなのか?  不公平の観点から。
では、有名選手の要望に添ってメーカーが改造したランニング・シューズはどうなのか?


運動選手の能力を100パーセント発揮できる以上の、効用が隠されていたとしてもオーケーなのか?
いまは選手の身体能力の差が、用具の差を大きく上回っているから、誰も騒がないが
人間の能力はいずれ限界にぶつかるが、用具の進化に限界はないとしたら、観客はどちらを望むだろう?
「跳躍力アップ短距離シューズ」 の使用を、はたして許すのだろうか?  映画 『フラバー』 のように。


ところで運動具メーカーは、その製法は秘密にしても、製品自体は広く世界に公表しないと儲けに繋がらない。
だから有力選手には、お願いしてでも使ってもらいたいのだが、一方で優秀性の差を実証したいから
相手選手には何としても使ってもらいたくない・・こういう心境だろう。  結果優秀性が立証されれば
その製品が引く手あまたになるのは確実だ。  勝つことに比べれば、高価格は問題にならない。


多くの選手に行き渡ってしまえば、今度は使用しないことがハンデになってくる。
「あの製品を使えば勝てたのに・・」 との後悔はしたくないであろうから。
選手は 「力一杯プレーできればいい」 の自己満足だけで、大舞台に送り出されるわけではないことを
うすうす感じているはずだ。  有名選手には、自分のためだけに勝負するという自由は許されていない。


わがままを口に出せるのは、圧倒的に応援者が多い超有名選手になった時である。

「迷走する瞑想集938」 2018/03/01

「パラリンピックの選手は、代わりの義足でも頑張っている」 ではなくなって、「義足を新製品に交換して
またも記録を更新しました」 になったら、記録の更新サイクルはオリンピックを間違いなく上回る。
記録自体もオリンピックを抜くだろう・・と前項で述べたが、高機能な義足は使いこなすのも並大抵ではない。
・・ではあるが、使いこなす者は必ず現われる。  そして用途の特化した機械の方が、進歩のスピードが速い。


ところで、今どき心臓のペースメーカーを、無用な発明だと言う人がいるだろうか?
音の出る信号機を、無駄な設置だと怒る人がいるだろうか?
SFでも今までにサイボーグの話は、掃いて捨てるほど登場してきたが、肉体の限界を機械で乗り越える
それに憧れてはこなかっただろうか?  健全者でさえそうなのだから、機能を失った人は切実だろう。


仮に、生身の足を超える能力を持つ義足が開発されたとして、それを装着できるのが健全な足を持った人では
ないとしたら・・逆な意味で、格差が生じてしまうかも。  赤外線領域まで感知できる義眼が開発されたら
正常な目を取り外しても、移植するだろうか?  暗視能力は格段に向上し白内障はなくなるのだが・・・。
肢体不自由者が工業のバックアップを全面的に受けて、正常者の能力を追い越すことは十分に考えられる。


「恩恵を受けるにしても、金持ちだけだろう」 最初のうちはそうだろうが、心臓のペースメーカーは
いまやどうなったか?  金持ちしか装着できないか?  電池の交換はやってくれないのか?
あるいは完全に麻痺した片腕に見切りを付けて、高性能な義手に交換する・・時代が来ないとも限らない。
我々は義歯やヘアピースで、工業製品を取り込むことにさして抵抗はない。  その補助器具に


用途を満たす以上の能力を付与することが可能だとして、それでもまだ拒否するだろうか?
人間は飛行船ですでに空中を飛べたのに、ジェット旅客機まで発明し全世界で使用している。
蒸気機関車ですでに楽に移動できるのに、新幹線に駆逐されている現状である。
水の落差でタービンを回す水力発電があったのに、火力・原子力発電にまで手を伸ばした。


「発展・進化」 は 「人間の欲望」 の賜物である・・と考える。  であるならば
補助器具類が、人間の能力を超えてもなお進化すると考えても、何らおかしくはないであろう。
いずれカーリングに、ミスショットは完全に存在しなくなる・・と予言しておく。
もっともそうなった時にもなお、カーリングが存在しているかどうかは、はなはだ疑問だが・・・。


新幹線時代に、蒸気機関車を懐かしむ者は少なからず存在するが
しかし、蒸気機関車全盛の時代にまた戻りたいとは、思わないであろう。
トンネルに入る時に、慌てて窓を閉めなければならなかった時代に・・・。

「迷走する瞑想集937」 2018/03/01

最終的に円の中心に近い所にストーンをより多く置いた方が勝ちなのだから、投げるコースや
相手の次の出方などを、人間より計算速度が速いコンピュータに演算させるという方法は、十分に考えられる。
より得点確率が高い方法を模索するためには、演算速度が速いほうがより広範囲にチェックできるからである。


これが将棋なら、計算結果を正確に反映することが可能だが、カーリングはそうとばかりもいかない。
ちょっとでも手元が狂うと、3位決定戦の英国の最終投てきのような結末になる恐れがあるからである。
だからコンピュータの最適値予測は、あくまでストーンをそこに正確に置けるという、前提条件とセットである。


どこにストーンが行くか分からないヘボなチームには、まさに猫に小判である。
もし、機械のように正確極まりなくストーンを置けるチーム同士が戦ったら、今度は
コンピュータ同士の戦いになるであろう。  オンラインで首都に置いたスーパーコンピュータが使える。


そうなると、オリンピックで勝ち残る国は限られてくる。  スーパーコンピュータが造れる国、あるいは
購入できる国。  しかも、大会の会場とコンピュータを直結できるインフラのある国。  すると当然
それを妨害する作戦も登場するはずだ。  ウィルスや妨害電波などが持ち込まれることになるであろう。


その前にカーリング協会は、選手のイヤホーンを禁止するだろう。  しかし演算結果を伝える方法は
いくらでもある。  試合中の会話は禁止されていないから、脇のコーチが大声で話しても違反にはなるまい。
もしだめなら、周りには観客が取り巻いている。  これを連絡員に使って、合図すればよい。


「そんなカーリング試合など見たくもない」 内幕を知っていればそうだろうが、こういうことは
たいてい隠密作戦で行なわれる。  だれも自国の兵器の性能を、あえて公表はしないだろう。
暴露されるまでは粛々と遂行されるはずだ。  新手のドーピングと同じように。


ところで前の方で 「機械のように正確極まりなく・・」 と述べたが、義手・義足使用者は
参戦していけないのだろうか?  「それじゃ、パラリンピックだろう」 そうだろうか?
カーリングに関しては、その差は決定的とは思えないのだが。  なにせタイムを争う競技ではない。


動作の正確さと読みの頭脳が要求されるスポーツだ。  かつてフィギュアスケートにあった
「コンパルソリーフィギュア」 つまり、課題の図形を氷上で正確になぞる競技に似ている。
ならば義手・義足の選手を拒むことに、正当性はないと考える。  そして
機械の腕から投げ出されるストーンは、もしかすると生身の腕より正確な軌跡を描けるかもしれない・・・。


としたら日本やドイツ、アメリカなどの工業国はぜったい、正確に動作する義手の開発を始めるに違いない。
としたら国際カーリング協会の次にすることは、「義手・義足の選手のいるチームを認めない」 という
前代未聞の規約を制定することだ。  人間の筋力には限界があるかもしれないが、科学の力には
限界がないからだ。  とすれば、パラリンピックの記録は、いずれオリンピック記録を上回るのは確実だ。


「それはもはやスポーツではない」 と言おうものなら、パラリンピックを真っ向から否定するものである。
義手・義足の改良が認められるのなら、対抗上生身の人間のドーピングも認めざるを得なくなる・・のでは?
そうなれば、オリンピックのパラリンピックからの隔離政策が、ぜひとも必要になってくるかも。
・・・・・なにか、SFじみた話で終わってしまった。

「迷走する瞑想集936」 2018/03/01

カーリングの靴底は、片側が滑る材質でもう片側が滑らない材質でできているらしい。
選手は難なく歩き回ったり、ストーンに併走したりしているが、あれを一般人が履くと
氷上で立つことさえままならないそうである。  相撲の力士が土俵上では、大きく見えないのと似ている。
昔、現役の貴乃花の背中を京都で見たことがあったが、ゆうに一般人の二人分の幅があって驚いた。


あの巨大な体躯で張り手など食らわせられたら、間違いなく数メートルは吹っ飛ぶだろう。
力士は鍛えてあるからたいした怪我をしないが、一般人ならそれだけで再起不能だ。
一流のスポーツ選手は、いかに親しそうに見えようと並の体とは違う、ということだ。
私はアイススケートで、あの薄いエッジで立っていられることが不思議でならない。


だから、足首捻挫の恐れを考慮して、スケート靴は履いたことがない(キリッ)。
「なら、ローラースケートならいいじゃん?」  それも嫌だ。  私は雪道でも尻餅をつくぐらいだから
「滑る」 ことは大体において好きではない。  一歩一歩着実に歩むのが、私の信条だから。
それはそれとして、スピードを競うでもなく芸術点を競うでもないカーリングが、はたして


スポーツと呼べるのかは、オリンピックに初登場した時からの疑問だった。
確かに並の繊細さでは、高度な試合などはなから無理なことは分かったにしても、囲碁・将棋のように
頭を酷使する対戦競技がほかにあるだろうか?  あるいは、新たなスポーツ形態の登場なのではないか?
とも考えたりもした。  筋力を増強することで、必ずしも勝利に近づけはしないスポーツ。


カーリングは勝利しても、選手の肉体的優秀性を語られることはない。  作戦の秀逸さは賞賛されるが。
また、ボーリングのように破壊的な力は必要としないが、しかし対戦相手に邪魔されるスポーツでもある。
それから、得点の多さが、後世にまで特に語られることのないスポーツ。  将棋が短時間で勝っても
それ自体は賞賛されないように。  この競技は、時間や記録と競争することはない。


だから、走り高跳びや射撃競技とも違うのだ。  純粋に勝ち・負けがあるだけ。
そういう点では、格闘競技的である。  しかし筋力の優劣が、勝敗に決定的には関わってはこない。
ストーンを氷上で押し出すだけなら、素人にもできそうだ。  しかしそれでも、力の差は歴然としている。
頭で分かっていたとしても、ストーンを自由自裁に操れないから。  その点では、紛れもなくスポーツだ。


カーリングは、縁側で将棋を指しているのよりは、はるかに動きを伴う競技だ。  しかも
チームワークが絶対的に要求される。  これはぜひ、老人連中にこそ普及させたい競技だと考える。
転倒の危険はあるし、そもそもチームワークが組めるのか? の問題は残るにしても・・・。
アイスホッケーのように 「ヘルメット着用!」・・が、高齢者の義務になるかも。


しかし、相手のストーンを避けながら高速でスイープして行くというのは、かなり難度が高いと思われる。
私なら間違いなく、ブロックしている奴を片っ端から蹴っ飛ばすだろう。  もちろん違反だが・・・。
それに、先攻・後攻を入れ替えるために 「相手に1点を取らす」 という戦法が、どうにも虫が好かない。
「ガンガン点を取りゃあいいじゃねえか」 と考えてしまう浅はかな観客ではある。


大量得点が難しいルールなのも、今回分かったことではあるが・・・。
「サークルにどんどんぶち込めばいい」 というものでもないという、悩ましいルール。
誰だ! あのルールを考案した奴は。

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