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2017年8月

「迷走する瞑想集794」 2017/08/18

人は、未来の悪い予言を回避するために、あらゆる措置を講ずるだろう。  これは間違いないとして
それでも、あらゆる悪あがきの末に予言が実現して、あげく 「お前の回避措置はすべて織り込み済みだった」
と予言者に言われたなら、「結局、何もしなくても一緒だったんじゃ?」 と自問自答する羽目になる。
回避措置が読まれていたのなら、やっただけ無駄な行為でしかなく、避けてたつもりが所定の行動だった。


こうなったら、やりきれない。  ただしあくまでも、悪い予言の場合である。  予言には
飛び上がって喜ぶような予言も存在するのだ。  そうなったら、人は回避措置などしないだろう。
かといって何もしないと、前項の受験生のようにならないとも限らない。  やはり結論に至る道筋を
詳しく聞いておくべきだ。  結果のみの好予言で、舞い上がってはいけない。  マクベスのように。


では、生命保険に入る場合のように、詳しい注意事項の説明が事前にあるだろうか?  それを聞かないうちは
いかに高名な予言者であろうとも、オレオレ詐欺のように疑ってかかるべきだ。  相手を喜ばせるだけなら
子供でもできる行為だ。  ぬか喜びに終わらないためにも 「確たる工程表を示せ」 と迫っていい。
もっとも、間髪を入れずに工程を示せるぐらいなら、とっくに別な職業に就いているだろうが・・・・。


「街の幸せ売り」 ぐらいに思っていれば、まず大けがをすることは避けられるだろう。
彼らは、お客が密かに望んでいる状態に、予言を合わせられる特異な才能がある。  予言者の声は、実は
本人の内面の声なのだ。  悪いことばかり予言する予言者は、たとえ外れても恨まれはしないだろう。
馬鹿にされる恐れは多分にあるが。  しかしポジティブな予言をする予言者は、そうは問屋が卸さない。


うまく的中すれば良いが、外した場合は馬鹿にされるだけでは済まないだろう。  だからこういう予言者は
「言い訳の引き出し」 をできるだけ多く持っていなければならない。  あるいは、逃げ足が速いとか・・・。
お客からの質問を、「おだまり!」 と言って遮るのは、気位が高いようだが気を付けた方が良い。
全体像が見通せないから、質問をいっさい受け付けない場合も・・・ないとは限らない。


ところで、予言者類が近寄ってこない人間とかも、やはり現存するだろうか?
何にでも屁理屈を付けて言い返す俗に言う 「いない方がいい人」 などは、防虫成分が効いているだろうか?
しかし何かしら望むことがあれば、付け入れられる隙は十分にある。  周りに相談する人がいない分だけ
もっとたちが悪いといえるかもしれない。  たとえマクベスになっても、誰も同情などしないだろうが・・・。

「迷走する瞑想集793」 2017/08/18

映画 『ペイ・チェック』 の終盤では、殺されるはずの主人公が殺されなかったという
どんでん返しが現われる。  しかし映画では、未来をのぞき見る機械が不鮮明だったがために、あるいは
動画を終わりまで確認しなかったがために起きた現象で、未来の予測にはなんら瑕疵はない・・・という立場を
取っている。  つまり、未来をあらかじめ知ったとしても、未来はなんら変わらないという主張だ。


さらに言えば、未来をあらかじめ知ってしまうことは織り込み済みである・・とも取れないことはない。
そうなると、現在の行動さえ選択の余地はない・・ということになる。  いわば過去の出来事と同じように
すでに 「確定した事」 という位置づけだ。  これは映画 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 に
真っ向から反論した映画だ。


あの映画では、未来はおろか過去の出来事までも、修正可能だと主張しているのだから。  いわば
神が過去・現在・未来の歴史年表を、修正液片手に眺めているようなものだろう。  神には区分など
はなから存在しないのだから。  タイムマシンは、そういう神への憧れでもある。
一方 『ペイ・チェック』 は、「全ては、年表に記載されているまま」 という、これも神の領分なのだ。 
さらに悪いことに、人間の自由意思は全く反映されないという、おまけ付きだ。  ただ勘違いだけが許される。


もし 『ペイ・チェック』 のように、未来を知って自分の意思で道を変更したとしても
最終的予言に間違いはないとしたら、予言者たちはずいぶん気楽になれるであろう。  どうあがいても
結局は予言通りになるのだから。  気まぐれな人間たちも、実は行動記録のとおり動いているだけという
いわば 「神の視点」 で見た場合の予言に過ぎないのだ。  しかし神は、最後まで決まっている映画を見て
はたしてつまらなくないのだろうか?


過去に 「大洪水」 まで引き起こして訂正を図ったようだが、あの 「間違い」 も織り込み済みなのか?
それとも神も、「年表」 の一員に過ぎなかったのか?  人間がどう動くか予測困難なら、そもそも
未来永劫までの年表など作れるはずがない。  結局神も、場当たり的対応でお茶を濁していたのでは?
「神の怒り」 って、そんなにしょっちゅう怒ってばかりいるの?  何もかもが、思うようにいかないから?


さて、話を本筋に戻そう。
未来を知ることが、未来を変えてしまうことにはならない。  なぜなら、「未来を知ること」 も
織り込んだ上での予言だから。  『ペイ・チェック』 の主張であるが、検討を要する。  この映画では
未来のある時点だけを見てしまったが、もしそれから逆に遡って現在までの行動を逐一記憶することができたら
主人公は 「そのとおり」 の行動をたどっただろうか?  映画の理論では、「正確にたどるはずだ」 になる。


はたしてそのとおり行動するだろうか?  周りの状況が同じなら同じように行動するはずだが、この主人公は
その最終結果まで知っている。  その場合同じ状況でも、あえて違った行動に出たりはしまいか?
筋書きの一カ所でも書き換えられれば、うまくいけば最終結果も変わるかも・・・そう考えないだろうか?
九分九厘そう考えると思う。  人は破滅までの時間を、座して待つようなヤワな神経はしていない。


とすれば未来は確定しているようで、必ずしも確定していないことになる。  それからいけば
『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』 の未来図の方が、まだ実感に近い。  ただし、未確定な未来世界なら
実際に行けるはずがないのだ。  まだデッサンの段階なのだから、絵ができていないではないか。

「迷走する瞑想集792」 2017/08/17

現在の素粒子の状態をすべてコンピュータに入れ、一月後の予測を計算できるとしよう。(ラプラスの魔)
しかし計算結果が正しいのが判明するのは、やはり一ヶ月後である。  そうこうして
コンピュータ予測が間違った答えを一切出さないことを確認できたとして、次の場合どう判断するのか?


ある受験生が、一ヶ月後の試験結果を予測してもらった。
コンピュータは 「貴方は100パーセントの確率で合格します」 と答えた。
受験生は喜んで、受験勉強をその時点で放棄して遊びまくった。  一ヶ月後、当然のごとく
受験生は試験に落ちた。  「100パーセント合格すると言ったくせに」 受験生は訳が分からなかった。


これは災害の予測でも起こりうる。  「A島は津波に襲われますが、死者は出ません」 と予測した場合
「じゃあ避難の必要はないな」 と高を括っていたら、大勢の死者が出た。  「この嘘つき!」 と
なじってもあとの祭りだ。  コンピュータは、津波の予測によりすべて避難を完了する・・という前提で
「死者は出ません」 と答えを出した。  しかし島民は、その予測により避難を取りやめてしまった。


なにかマクベスを見ているようだが、どこで予測が間違ったのだろう?
コンピュータは、大津波の予測の次の行動は当然、島民は全員避難するはずだ・・と計算していった。
島民は、本来なら避難するはずだが、未来予測で 「死者は出ません」 とお告げがあったから
ならばわざわざ逃げることはない・・と行動パターンを変えた。  それでは逆に


「大量の死者が発生します」 と言えば良かったのか?  さすれば島民も震え上がって
間違いなく全員避難してしまうだろう。  これでもコンピュータは 「嘘つき!」 と言われることになる。
では極端な話、予測を示さなければ良かったのか?  未来を知ったがために行動を変更した・・これが
結果的に予測を外してしまったのだから。  あるいは、二つのパターンを両方示すべきだったのか?


それでは馬券の予想屋より始末が悪い。  各論併記していいのなら、コンピュータを動かすまでもない。
予想屋を三人ぐらい集めて、好き勝手に予想させる競馬新聞と似たものだ。  結論として
未来は理論上予測可能だとしても、その 「予測」 が未来を変えてしまう恐れがある。  だから未来は
人間が絡んでくると、依然として不確定なままなのだ。  それを自由と呼べるかどうかは、なんとも言えない。


カッサンドラの予言が百発百中だったのは、誰もその予言を信じなかったから・・ということも言える。
あれで人々が信じて、次々に回避行動を取ったなら、カッサンドラの予言はことごとく外れる運命にある。
そうなればやはり人々は、カッサンドラを信じなくなるだろう。


未来を正確に言い当てると評判の予言者は、一方でことごとく予言と結果が食い違ってくるという、なんとも
やりきれない事態になりそうだ。  これを逆手にとって無能な予言者は、結果が違ったのを
「貴方の回避行動が正しかったから、予言とは違う現実が来たのだ」 とうそぶくかもしれない。

「迷走する瞑想集791」 2017/08/17

「すべて成るようにしか成らない」 としたら、人間は一切のやる気を失うだろう。  ここで注意するのは
「成るようにしか」 の意味が、一般的なものと違うことである。  一般的には 「偶然のままにしか」 の
意味だが、今回言っているのは 「それ以外起こりえない」 の 「成るようにしか」 である。  つまり
未来永劫に渡って出来事がすでに決定されている、とした場合の話である。


「未来のことが、なぜ決定されているんだ?」 もっともな疑問である。  人間から見れば、未来は
不確定なものでしかない。  だから多くの者が、海原に乗り出してゆく。  しかしもう一つの視点
「永遠の相から見れば」 の神の俯瞰する視点で言えば、過去も現在も未来もないそうである。  すべては
年表に記載されており、瞬時に出来事間を移動できる。  そんなものらしい。


実は人間も、不完全ながらこの目は持ち合わせている。  それは 「過去の出来事」 についてだ。
過去はもはや動かず、紀元前から20世紀までだろうと瞬時に視点を移動させられる。  ただ
神の視点と違うのは、現在と未来とをあらかじめ知ることができない点だ。  しかし人間は、その能力までは
要求しないだろう。  未来を知って儲ける人はいるだろうが、その直後に強盗に殺される運命かもしれない。


未来の出来事は、自分に都合が良いことばかり、とはいえないのだ。  神のように、年表から完全に距離を
置いていないと、自分も巻き込まれることになる。  しかし考えようによっては、人間が
「神の視点」 を語れるというのが、微笑ましい。  もっとも自分自身でも、自分を見下ろすもう一人の自分
を感じることが、ないわけではない。  「いったい自分は、何人いるんだ?」 と思わないでもないが。


たとえば、二人の自分がいれば、対話劇を書くことなどは、いとも簡単なことだ。
どっちが最終的に言いたいことなのか、分からなくなってしまう危険性はあるが。  しかしさすがに
三人の対話劇は逆立ちしても書けない。  そこがプロの脚本家と決定的に違うところだ。
大勢での会話を好まない習性も、あるいは関係しているのかもしれない・・・・。  酒はサシで飲むべきだ。

「迷走する瞑想集790」 2017/08/16

押した瞬間に作動するスイッチは、未だかつて存在していないはずだ。
いかに速い電子スイッチでも、厳密にはタイムラグが必ずある。  だから4000分の1秒のシャッターがついた
高性能な一眼レフカメラでも、厳密には写った画像は狙ったものではない。  4000分の1秒とは、画像素子に
光が当たる時間であって、シャッターの応答速度は4000分の1秒よりはるかに遅い。


高性能なカメラでさえも 「現在」 を捉えてはいないのだから、人間の目など、光が水晶体を通過してから
脳で映像化されるまで、もっと多くのタイムロスがある。  それなのに、プロの選手は時速150kmの球を
打ち返している。  ということは、ある時点から予測に切り替えてスイングしているということだ。
だから厳密には、バットに当たった瞬間の映像は、実際に当たった瞬間よりも遅れて認識されるはずだ。


何を細かいことをグチグチ言うのかというと、人間は本当の現実を 「リアルタイムでは」 認識できない
ということを分かって欲しいのだ。  前に太陽の位置は、何分か先に進んだ所にある、と言った覚えがある。
地球と太陽間で光が到達するのに、数分を要するから。  遠くに見える銀河は、何億年も前の姿である。
はたして、未だにその形を保っているかは、誰も保証できない。  そこにあるかさえも・・・・。


全てにおいて見るものにズレが存在するのに、つつがなく行動できるのは、「予測機能」 が働くからである。
カメラに 「動体予測機能」 が付けられたのは、遙か昔ではない。  これのおかげで、タイムラグがある
シャッターでも、動く被写体にちゃんとピントが合ってくれる。  しかし、目のある動物はすべてにおいて
この 「予測機能」 を装備していると思われる。  でないと、動く餌を捕まえられない。


いかに素早く動けようとも、相手の餌がいつまでもトロいままだとは、必ずしも言えない。
種の生存のためには、能力の向上さえ厭わない・・・それが進化だから。  人間も
「目」 の能力向上は無理だとしても、「予測機能」 の向上は訓練で可能である。  だから素人が
かすりもしない球を、野球選手はいとも簡単に打ち返せるのだ。


彼らは 「慣れ」 と言うかもしれないが、私は 「予測機能」 の精度の向上と考えている。
あくまで私個人の考えだが。

「迷走する瞑想集789」 2017/08/16

いつだったかパナマかどこかで、世界中の企業の(中には個人も)資金を運用しているのを防露した騒ぎが
あったと記憶している。  あっという間に、騒ぎはかき消えたが。  あれは、多国籍企業の悪事を
暴いた快挙だったと報じられたが、はたしてそれが本当の目的だったかは、いま考えると怪しくなる。


前項で述べた 「世界的悪党退治のための法整備」 を陰でもくろんでいたのではないか?  と
考えられなくもない。  「そんなら、はっきり言えばいいのに」 ところが、そうはいかなかったのだろう。
中には武装テロ集団も混じっている。  しかもこの締め付けが成功するには、全世界が協力しなければならぬ
・・・としたら、中には二の足を踏む弱小国も出てくるかもしれない。  しかしそういう国にも、銀行はある。


そうであれば 「多国籍企業にワルになってもらって」 全世界にその機運を醸成させる・・・のが主目的
だとしたら、急速に騒ぎが減退した訳も納得できる。  多くの国が資本主義国家なのに、資本家をいじめて
結果的に得になるわけがない。  しかし国民の多くは 「資産の強制開示」 もやむなし、と思ったはずだ。
作戦というものがもしあるなら、「作戦」 は成功したといって良い。


小市民がコツコツ貯めた預金を暴き出すのが、第一目的だったとはどうしても思えないのだ。
資本主義国が、自分の根を枯らすようなことを、あえてするだろうか?
そうなる可能性はできたが、おそらく運用の面でグズグズになってしまうはずだ。
憲法で 「個人の財産」 は、はっきりと認められているのだから。  共産主義国は別だが。

「迷走する瞑想集788」 2017/08/16

最初に注意しておくが、私の話の半分以上は妄想が混じっている。  そこのところを気を付けて読まれたし。
さて、前項で 「偽金預金で大金持ちになる可能性がある・・・ただし税務署に気を付けて」 と述べたが
一カ所の口座に大量の資金が流れ込んだら、目立つことは避けられない。  ひとりで幾つもの口座を
持っていても同じこと。  政府の監視の目は次第に厳しくなっている。


それはなにも個人預金者をいじめるためとは限らない。  先に述べた、マネーロンダリングをやりにくくする
効果もあるのではないか?  悪の組織は目立たないために、多くの同一個人の口座に分散させて預金をすると
考えられる。  それが一目瞭然に分かってしまえば、他人の口座を収集するしか手はなくなる。  あるいは
海外の口座に移すか・・・。  海外の口座でも、多くの国は捜査に応じるようになってきているそうだ。


世界を股にかけた悪の組織に対抗するには、全世界共同で当たるしかないから。
「個人の蓄財の秘密が暴かれてしまう」 とか、細かいことを騒いでいる場合ではないのだと思う。
悪の組織でも 「お金」 が有力な手段であることには変わりはない。  たとえヤバい金であろうと
いったん銀行に預ければ、全世界で使えるようになる。  「きれいな金」 と見分けがつかないから。


この 「全世界共通の手段(お金)」 を封じ込めねば、場所を移していくらでも活動を続けられる。
その副次的効果として、世界対応企業の 「税金逃れ対策」 があるのではないか?  これが第一目標だったら
下手をすると自国の企業の息の根を止めかねないから、発展国ほど二の足を踏むだろうが、そうではないようだ。
ましてや、個人の資産を監視するなんて効果は、たんなる脅しとしか思えない。  財務省は分からないが・・。


財務省だけは 「個人の資産の監視」 に本気だったとして、それでは税金に持って行かれるよりはと
派手に消費してもらえば、世の中の景気は急激に上向くだろう。  なにせ、お金が回り出すのだから。
海外の銀行に逃げても、下ろすのは国内の支店からだ。  移住でもしない限り、金を使うのは国内でだろう。
しかも海外の銀行でも資産公開に応じるとしたら、「追徴課税」 が待っている・・・とならないか?


たとえ私の手元に大量の資金がなくても(すごい表現だ)、こうした思考実験(あるいは妄想)をするのは
金もかからず暇つぶしにはもってこいだ。  マスコミが言っている 「個人の資産が丸見え」 の表現も
かなりオーバーなものに思えてきたし。  個人資産家も悪の組織も、私なんかよりはるかにプロだ。
必死で抜け道を探しただろうことは、想像に難くないから、なにも素人の私がいちいち案ずることではない。

「迷走する瞑想集787」 2017/08/16

「偽一万円札」 は、本物だと信じていた時は1万円の価値を持っていた。  それが
偽物と分かった途端、ただの紙切れに変わってしまう。  お札は何も変質しないのに。
お札は、二重の信用の上に成り立っている。  ひとつは、本物だと言うこと。  もうひとつは
お札の価値を、日本銀行が保証していること。  それであの紙片が、単なる紙片でなくなるのだ。


たとえ札束を見せても、それが偽札ならただの紙の束である。  そのチェックが面倒だから
支払いに現ナマよりも、カード類の方を好むのか?  偽札が横行すれば、嫌でもそうなる。  しかし
カードは現金を持ち歩かない反面、その移動が記録に残る。  だから悪党同士の支払いは、常に現金なのか?


偽札を大量に刷って、それを全部銀行に預けて小切手決済にしてしまえば、「もはや偽札ではない」 になる。
だからもしチェックが甘い銀行があれば、そこに偽金預金をして 「正規な金の資格」 を得ることが可能だ。
一般にはこれを 「マネーロンダリング」 と言うらしいが・・。  偽札を大量に作ることができれば
大金持ちも夢ではない。  ただし、税務署に目を付けられなければの話ではあるが。


もう一つ、偽札であれ本物の札であれ、現物(お札)を手に持っている段階では、まだただの紙に過ぎない。
それと価値ある商品とを交換して初めて、「価値が出た」 といえるのだ。  人間は、紙を直接食えないから。
しかし一方で、大量に金が集まる大金持ちが、「何も欲しいものがない」 状態になると
預金残高は、単なる数字の変動でしかなくなるから、他人に価値ある物と交換してもらうしかなくなる。


これをどうやら 「投資」 ち言うらしい。  投資とは本来、お金を増やすのが第一義ではなかったはずだ。
単なる数字の預金残高を、他人を使って価値ある現物に替えてもらう・・・だから、またお金になって
戻って来るというのは、話としてはおかしいのだ。  ミダス王の二の舞になりかねない。
お金(可能性)が一番価値がある・・・と信じて疑わない人なら別だが。  そういう人は、数字を食っていろ。


「寄付」 も似たようなものである。  こちらは最初から、お金の返礼など受け取りはしない。
寄付をするような人は、自分の生存には一応満足している人たちだろうから、他人の生存の手助けになれば
それを 「価値」 と判断するのであろう。  やはり 「紙切れ」 と 「価値」 とを交換したのだ。

「迷走する瞑想集786」 2017/08/15

「公正無私な人」 とは、他人に対して私情を挟まない判断をすることのできる人・・の意味だ。
自分自身に対しては、私情を挟むも挟まないもない。  私情そのものが、自分では判断できないから。
「思考」 と 「私情」 は、すでに一本の糸に寄り合わされている。


では他人に対しては、どうして公正無私に判断できるのだろう?  ただし、誰でもができることではない。
だから 「公正無私な人」 は尊敬されるのだ。  特に、役人や裁判官などは。
なぜ私情に従うことの方が、自身にとっては快感のはずなのに、それを抑えられるのか?


前に述べた 「尊敬」 を得られるから?  それも確かに快感だろう。  しかし
公正無私な行ないが尊敬を得られるまでには、長い時間を要する。  一度や二度では、尊敬など得られない。
「いずれ尊敬を得られるであろう」 という、希望的満足感はあるにしても。


では、もっと差し迫った理由があるのか?  私はあると思う。
それは、もし私情を挟んだ判断をした場合に、他人の誰かからクレームが来るのが嫌だという
消極的な決断理由によるもの、ではないだろうか?  無私を貫けば、矢は少なくとも私には当たらないという。


役人や裁判官だとて人間である。  態度の悪い人間には不快感を憶える、これは同じだ。  逆に
態度の良好な人間には好感を持つ、これも人間として当然の感情だ。  ただ、その感情をモロに
判断に反映させてしまうと、クレームの矢は全部自身が受け止めねばならない。  他の事例と違うから。


しかし 「個人の感情」 が判断に影響を与えた具体的証拠は、何も残っていないはずだ。
「あいつの態度が悪いから・・」 などと書かれた文書があるわけがない。  他の事例からうかがい知るのみ。
だから、行なったとしても危険性は100パーセントではない。  しかしそれでもやらない理由は
かといって、安全性が100パーセントでもないからである。  危ない橋は渡れない、これが防波堤である。


ところで、今述べたのとは別な事例も考えられる。  それは、昔の武家と庶民の関係だ。
この二つの階層は、お互いに生活がほとんど接触しない。  だから互いに 「個人的感情」 など持ちようがない。
「蔑視」 や 「嫉妬」 の感情以外は、個人的な感情はまず生まれないだろう。  そういう場では
武家の庶民個々人に対する公正無私な裁定は期待できる。  たとえクレームなど存在しなくとも。


だが一歩間違うと、「蔑視」 がモロに出た裁定にもなりかねない。  その場合にも
クレームは一切許されないだろうから、始末が悪い。  やはり現代の民主主義の方が
執政官がやりにくいとしても、庶民が安心はできる。  安心はできるしクレームの道も閉ざされていないが
その道は細長く困難を極め、途中で挫折してしまうことをひそかに願っているのかのように・・・・。

「迷走する瞑想集785」 2017/08/09

今朝、新聞の投稿欄 『みんなのひろば』 に、11歳の小学生の投書が載った。
題は 「人件費削減にはセルフレジ賛成」 である。  小学生もいろいろ考えているのである。
さて、それを読んで準老人からの返答。  どうせ投書しても載りはしないから、ここに書く。


論点は二つ、「人件費削減」 と 「レジ待ちの時間の問題」 である。
まず 「レジ待ちの時間の問題」 からいってみよう。  確かに、少ない買い物でレジに並ぶのは
時間の無駄遣いである。  セルフレジを通り抜けた方が、早いように思える。  実際、若い人は
待ちきれずに、セルフレジの方に行く場合が多い。


しかし、単純にレジのスピードを比べると、店員さんの方がはるかに手際が良い。
私でも、一度か二度はセルフレジにダメ出しされる。  それでも今はセルフレジに行く人が限られているから
流れが良いように見えるが、同じ混み具合で比較したら、断然店員さんのレジの方が流れがスムーズなはずだ。
だからセルフレジは、一概に 「レジ待ちの時間の短縮」 になるとは言えない。  混雑時には
レジの店員を増やす方がはるかに合理的だと思う。


しかしそうなると、もう一つの論点の 「人件費削減」 に逆行する。
「人件費削減」 の目的は、商品価格の低下を狙っての発言だろう。  使う人が少なければ人件費が浮き
結果的に価格を安く設定できる。  これは経済学を知らなくても分かる。  しかし視野を広くしてみると
削減されたレジ係の店員さんはどうなるのだろう?  収入の当てが途絶えるのも、また事実だ。


レジ係の店員さんのほとんどは、その地域から出勤しているはずだ。  図らずも、彼女らの収入途絶に
手を貸してしまうことにならないか?  販売店側は大いに喜ぶだろうが。  それでもストレートに
販売価格が安くなる保証はない。  それは店側の判断だから。  ここが教科書とは違う。


客がより安い物を求めて移動したがために、地方都市では家の周りの個人商店が軒並み廃業となった。
それでも自動車を使える人ならば困りはしないだろう。  問題は、取り残された老人の場合である。
彼らは、徒歩か自転車か交通機関を使ってしか買い物に行けない。  家の周りに商店がない・・・と嘆いても
あとの祭りである。  自分たちが、個人商店を捨てたのだから。


だから少なくとも私は、多少高いとしても歩いて行ける店を利用し続けている。  どうしても遠くの店にしか
品物がない場合は、迷わず車を出すが。  これは将来の、保険料の振り込みである、と割り切って。
この視点が、残念ながら小学生にはない。  無理からぬことだが。


「人件費削減」 が店側を喜ばせはしても、そこに働く地域からのレジ係の何人かが失職するとしたら
それでも貴方は 「セルフレジは安上がりだ」 と言い切れるだろうか?  自分には関係ないか?
もちろん、セルフレジをレジ係と併設するのは一向に構わない。  急いでいるお客は、そちらに行けばよい。
後ろに並ばれてイライラしているお客ほど、不快なものはない。  老人ほど、先を急がないものだ。

「迷走する瞑想集784」 2017/08/08

はたしてそこの住民は、お祭りに 「招待される側の人間」 なのか、それとも 「招待する側の人間」
なのであろうか?  従来の地域のお祭りなら、間違いなく 「招待される側の人間」 であろう。
お祭りに参加するのだから。  しかし昨今の他地域から人を呼び集めるお祭りでは
住民も 「招待する側の人間」 となる。  そこの切り替えが、未だに曖昧なお祭りが結構あるように思える。


住民としては地域のお祭りの意識なのに、一方で広く全国にPRしているとしたら・・・。
全国にPRした段階で、そのお祭りは地域総掛かりで 「見せるお祭り」 に変身せざるを得ない。
しかしその意識を、主催者しか持っていないとしたら、前項で述べた事態が少なからず起こってくる。
たとえば福島市の 「わらじまつり」 や郡山市の 「うねめまつり」 は、その発祥はどうあれ
現在は 「見せるお祭り」 と捉えられている。  少なくとも住民レベルでは、郡山市は早くからそうだ。


市内片平町の地域のお祭りを、郡山市が大々的にプロデュースした時に、すでにそうだった。
「あれはあれで良い」 と市民の多くは思っていたはずだ。  しかし 「地域のお祭り」 と
「見せるお祭り」 の違いは、マンネリ化したら一巻の終わりだということだ。  「地域のお祭り」 なら
百年一日のごとく同じ出し物でも構わない。  最終的に、住民に安心感を与えるものだから。


しかし 「見せるお祭り」 は、飽きられたら観客は減少し出す。  だから常に、ハプニングを要求される。
しかしそのうち、ハプニングの種も尽きる。  そうなった時でも、名前だけで人が呼べるようになっているか
が、勝敗の分かれ目になろう。  負ければまた観光客のない 「地域のお祭り」 に降格するだけだ。
「地域のお祭り」 と 「見せるお祭り」 の要素を併せ持つ場合、どちらに力点を置くかだろう。


白河の 「だるま祭り」 や いわき市平の 「七夕まつり」 は、あれだけ長い歴史がありながら
「地域のお祭り」 に力点を置いている。  だから、どこにどんな飾りが下がっているか予測ができるのに
また行ってしまうのだ。  毎年生ビールを飲む出店も、ようやく固定化しつつある。
月遅れの8月に七夕まつりをやるのは、うがった見方をすれば、子供に氷水を大人に生ビールを売らんがためだ。
それがために、飾り物をスカスカにして嫌でも直射日光に炙らせる。

「迷走する瞑想集783」 2017/08/08

「人はみんな死ぬもんだ」 と悪党モリアーティが大見得を切ったが、それをあんたの口から聞くと
哲学的な意味がすっ飛んでしまう。  どうせ死ぬんだから、俺が多少死期を早めてやっても問題ない・・そう
聞こえる。  しかしこれと似た言葉を、マイクロフトの口からも聞いた。  なんとまあそろいもそろって
達観している登場人物ばかりだこと。


達観しているといえば、通りでお祭りが行なわれる場合の商店街の対応も、いろいろであり面白い。
昨日行ってきた平の七夕祭りでは、日中から人出があるので、通りの商店は全開で商いを行なっていた。
しかるにその一方で、地名は臥せるが、我関せずで堂々と店を閉めている通りもある。
確かにお祭りの当日に、日用品を買いに来るお客はいないだろう。  それに休日・夜更けとなれば
店を閉めて祭り見物をした方が、考えとしては合理的だ。  防犯上の意味もあるのかもしれない。


しかし、ズラリ店を閉めた通りでお祭り見物もなにか味気ない。  確かに、店を開けるか閉めるかは
各商店の判断だ、どうこう言える立場ではない。  お祭りも、市や町が人集めにやっているだけかもしれない。
それに電気代まで使って、協力する義務はない・・・という考えも一理あるような気がする。  それでは
市や町の必死の人集めは、商店とは何のつながりもないのであろうか?


祭りを見に来た他郷の人たちは、入口を閉ざした商店街を見て、彼の地に魅力を感じるだろうか?
お祭りだけ見せてやれば、活気ある商店街にはどうせ関心は持ちやしない・・・と達観しているのだろうか?
「出店がいっぱい出るから、それでいいじゃないか」 そんなものなのだろうか?  祭りを
市町村主導でやるか、商店街主導でやるかの差・・・と言ってしまえば、それまでであるが。


役場と住民との分離が如実に示されて、観察対象としては面白い。

「迷走する瞑想集782」 2017/08/05

水が豊富である間は、水利権関係者同士の争いは起きない。  問題は、干ばつにより超渇水状態になった時
である。  水瓶あるいは河川の水そのものが少なくなってきた時、誰の取水量をまず制限するか・・・これが
重要になってくる。  工業用水や農業用水はもちろんのこと、上水道の取水(つまり飲み水)の制限が始まる。
しかしこれは、河川管理者(国土交通省)がエイヤッと裁定はできない。  権利者同士の合意の上である。


ここで発電用の水利権は、最後まで保護されるはずだ。  取水量を半分に減らす、なんてことはできない。
水力発電には常に一定の水量が必要だから。  しかし水力発電所といえども、水がカラになればアウトである。
発電機は回らず、電気は起こせない。  風力や太陽光発電と同じく、水力発電もやはり 「気象頼み」なのだ。
それが頻繁に起こらないだけのことで、原子力発電のように一度燃料を入れれば一年間ぐらいは黙って
発電し続けてくれるものとは違うということを忘れている。  もちろん取り扱いは慎重を要するが・・・。


石炭火力発電が煤煙の問題で、水力発電が適地の問題で、頭打ちなのはご承知の通りである。
しかも電力の需要は、産業の発展のため減ることはなかった。  電力は供給不足により「停電」となった場合
現在は、一時的に照明が消える程度の被害では収まらないことが問題なのだ。  多くの精密機器が
電気によって作動している。  突然の停電などは問題外なのだ。  だからして、水力発電所も優遇される。


コンピュータなどの最先端機器が、「お天気頼み」 の発電で動いているとは考えたくないであろう。 だから
大きな工場などは、自前の発電設備を用意している。  工作機械を突然ストップさせたくはないだろうから。
「安上がりだから」 だけが、設置の理由ではないと思う。  維持管理に要する負担は、容易ではないはずだ。
各電力会社が、複数箇所の発電所と二、三種類の発電方法を併用しているのは、突然の停電を防止するためも
あるのではないか?  安上がりだけなら、一カ所の超巨大発電所から一系統の送電線で送るのが一番だ。


停電の経験が全くなくなった今は、停電を回避するのに 「需要を抑制」 すれば事足りると考えるが
供給側の突然の事故(原発以外でも事故は起きる)、あるいは発電不能(無風、日照不足、日照り)により
供給不足に陥った場合も、電力不足により停電は起きうる。  その点も考慮して、発電方法は選択しなければ
ならない。  たんに好き嫌いの問題ではないと思う。  なくても絶対に停電の危険性がない・・と言うなら
廃止しても一向に構わないが。

「迷走する瞑想集781」 2017/08/05

福島県の猪苗代湖の周囲には、三つの市と町がある。  猪苗代町と会津若松市、それに郡山市である。
それと呼応して、湖面も三分割されている。  北半分が猪苗代町、残り南半分の西側が会津若松市。
東側が郡山市である。  面積比でいけば郡山市も、四分の一の権利を持っている。  しかし
猪苗代湖の 「水利権」 は、現在は東京電力が多くを保有している模様。  水力発電所の関係であろう。


安積原野の開発の生命線だった 「安積疏水」は、上戸(じょうこ)頭首工からしばらくは猪苗代町を通過する。
しかし地図をよく見てほしい。  猪苗代町と郡山市の境の 「中山峠」 から西は、猪苗代湖に向けて
勾配がついている。  小河川はみな、猪苗代湖に流れ込んでいる。  つまり、そのままでは
逆立ちしても、水は郡山側には流れない。  では 「安積疏水」 はどうしたか?


本来の出口であった日橋(にっぱし)川[会津若松側] を十六橋水門で堰き止め、約1m水位を上げて
山潟取入口[郡山側] に乗せている。  現在は山潟取水口から上戸頭首工に移り、十六橋水門もその役目を
小石ケ浜水門に譲っているようだが、猪苗代湖の水位は5~9月間だけは高いまま保持される。
「5~9月間」 とは、田んぼで水を必要とする期間である。  ところで


「水利権」 とは水を使用する権利のことであるから、東京電力一社が独占しているわけではない。
東京電力が持っているのは、日橋川と五百川[郡山側] の水力発電所で使用する分の水の権利だけであろう。
当然、安積疏水も郡山市の上水道水源を含む、農業用水の権利を認められている。  そのほかには
昔から湖水を利用してきた会津盆地の農家とか・・・。


このように権利が錯綜している猪苗代湖では、一権利者のわがままがすんなり通ることは絶対といってない。
逆に何かしようというときにも、十重二十重の足かせとなる。  たとえば白河市の南湖公園は
公園だから市の公園課が管理しているのは、なんとなく分かる。  しかし一方で、藤野川の水系にも
当たっているから、県の河川課を外すわけにはいかない。  さらに、南湖はため池の構造も持っている。
実際、東側には取水施設があるし・・ということは、農家も外せない。  こうなると


池が汚れたから掃除しよう・・・という提案でさえ、「どこがやるんだ?」 「金はどうするんだ?」
「こっちに迷惑が及んでは困る」 の大討論会である。  「それが民主主義だ!」 もっともである。
しかし長く膠着状態が続くのであれば、人々に 「水戸黄門」 が期待されるようになる。
一刀両断、言葉を換えれば 「独裁者」 である。  水戸黄門のように、さっさと次へ行ってしまうのなら良いが。

「迷走する瞑想集780」 2017/08/01

『旅人よ』(作詞:岩谷時子 作曲:弾厚作) という歌がある。  加山雄三が歌った歌だ。
実は、この歌がはやったとき私は中学生だった。  当然耳には入っていたはずなのだが、記憶にない。
その後も聞いたのは聞いたが、どうしても好きにはなれなかった。  歯の浮くような歌詞が嫌だったし
歌手がニヤけて好きになれなかったし、ギターを弾いて歌っている周りの奴らが、これまた別世界の感じがした。


だいたい、若者が自分であの歌を歌うのが理解できなかった。  あの歌は、老人が若者を励ます歌だろう。
と同時に、老人の悔恨の歌でもある。  それを若者が歌ってどうする。  若者はすでに老人だったのか?
というわけで、ずっと縁のなかった歌だがこの年になって歌ってみると、なんとも歌詞がピッタリくる。
甘くも酸っぱくもない自分の青年時代を思い出すのに、最適の歌である。


当時でも加山雄三ではなく、鶴田浩二がこの歌を歌っていたら、あるいは好きになっていたかもしれない。
曲は若向きかもしれないが、詞は老成した感じがある。  それを分からずに、当時の洒落た若者は歌っていた。
あるいはこのチグハグ感が、歌の生命を長引かせているのかもしれない。  もっとも
今の準老人が熱唱したところで、若者は耳のイヤホーンをはずしてはくれないだろうが・・・。


我々でも前の時代の歌は古くさいと思ったように、今の若者は(老人くさい言い方だ) 異次元の音楽を
聞き慣れている。  古典派やロマン派の音楽になじんだ耳には、現代音楽が音楽でないのと一緒である。
昭和の時代に生まれて育った人たちが死に絶えたなら、おそらく昭和以前の歌謡曲も死に絶えるだろう。
我々は戦後の歌まで否応なく聴かされたからなんとか知っている。  それは家庭用音源がひとつしかなかったから。


しかしここまでである。  いまは年齢層で、歌の好みがはっきりと分かれている。
民謡は生き残るだろうが、歌謡曲は間違いなく死滅する。  ところで愛唱歌というものを
今の若年層は歌えるのだろうか?  共通の言語さえ、なくなる恐れがある。  別に強制はしないが・・・。
レコードやCDをいくら保存していても、その取り扱い方を知らなくなるから無駄である。

「迷走する瞑想集779」 2017/08/01

貴方の考えている自分とは、貴方の中にしかいないのかもしれない・・・ということを前に述べた。
周りの他人が見ている貴方は、別の人格を持っている可能性すらある。  これは記憶が自己改ざんされるから。
自己同一性が記憶によって保たれるのなら、改ざん後の自分は、他人の目に映る自分とは別人格であるはずだ。


普通は、数多い否応ない他人との接触により、自身の記憶改ざんを逐次修正されていく。  だから
乖離は最小であるはずだ。  だがもし、人との接触が全く行なわれなかったら・・・・。
記憶違いを遠慮なく指摘されることの少ない、偉い人や芸術家はどうなのだろう?


これは、事実を羅列できる記憶能力とは関係ない。  事実に対して自分が 「どう振る舞ったか」、あるいは
「どう感じたのか」 かが容易に改ざんされてしまう恐れがある。  事実と違い、具体的証拠が残らないから。
改ざんされた記憶に、自身だけで気がつくことはまず不可能である。  改ざん後の記憶が、自己の全てだから。


記憶にないことは 「起こらなかったこと」 である。  もし自身で記憶を消去できれば
自分の好きなきれいな色のみで、部屋を装飾できる。  記憶の突き合わせをしない限り、部屋の内装は
他人に知られることはない。  とすれば、全ての記憶の改ざんや消去はいけないことなのか?


自我の隠れ家を許さない人なら、そう考えるだろう。  しかし、細胞から細胞壁をなくしたら
人間は、ドロドロの流動物になってしまいませんか?  自他を分ける壁は、なくせないと思うのだが・・
・・・という訳の分からない前段はこれぐらいにして、本題に入る。


「おまえのかーちゃん、でーべそ」 という、いささか古い中傷文がある。  しかしよく考えてみると
この文はおかしい。  これを言われている当人は、「かーちゃん」 の息子なり娘なりであるから、当然
母親のヘソの状態については熟知しているが、発言者は赤の他人である。  「のぞき」 でもしない限り
知っているわけがない。  彼は、罪を自白しているのか?


それとも、憶測を述べているだけなのか?  たまたまそれが的中したら、つまりその発言で相手が怒ったなら
相手の弱みをひとつ握れたことになる・・・そういう意図が隠されているのか?
それとも深い意味はなく、ただ単に 「月夜の晩だけではないからな」 の、捨て台詞の類いに過ぎないのか?


「でーべそ」 は哺乳動物同士には使えても、たとえばカエルなんかには使えない。  ヘソが存在しないから。
イルカには言えるが、カジキマグロやニワトリには意味をなさない、範囲限定の捨て台詞なのだ。
そこらへんまで分かった上で、言っているのだろうか?  と怪訝な顔をしていたら、発言者の方は
「へんな奴」 と気味が悪くなって、もうその捨て台詞は使用を封印するか?


「ちがわーい」 と反論することは、反論を一応認める人へなら、しても構わないであろうが
反論を肯定の意味に曲解することが予想される人に、反論を投げかけることは、餌を与える行為である。
正当な言葉のやりとりなど望んではいないのだから、こちらも応戦するしかない。


「おまえのかーちゃん、ど近眼」 とやり返せば・・・ただし、もし相手の母親が本当に眼鏡使用であったなら
威嚇の矢が相手の心臓を射貫くことにもなりかねないから、使用する際は慎重に。
「なーにを悠長なことを・・」・・・取っ組み合いは、双方に禍根を残すぞ。  家に帰ってまた叱られる。

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