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「迷走する瞑想集784」 2017/08/08

はたしてそこの住民は、お祭りに 「招待される側の人間」 なのか、それとも 「招待する側の人間」
なのであろうか?  従来の地域のお祭りなら、間違いなく 「招待される側の人間」 であろう。
お祭りに参加するのだから。  しかし昨今の他地域から人を呼び集めるお祭りでは
住民も 「招待する側の人間」 となる。  そこの切り替えが、未だに曖昧なお祭りが結構あるように思える。


住民としては地域のお祭りの意識なのに、一方で広く全国にPRしているとしたら・・・。
全国にPRした段階で、そのお祭りは地域総掛かりで 「見せるお祭り」 に変身せざるを得ない。
しかしその意識を、主催者しか持っていないとしたら、前項で述べた事態が少なからず起こってくる。
たとえば福島市の 「わらじまつり」 や郡山市の 「うねめまつり」 は、その発祥はどうあれ
現在は 「見せるお祭り」 と捉えられている。  少なくとも住民レベルでは、郡山市は早くからそうだ。


市内片平町の地域のお祭りを、郡山市が大々的にプロデュースした時に、すでにそうだった。
「あれはあれで良い」 と市民の多くは思っていたはずだ。  しかし 「地域のお祭り」 と
「見せるお祭り」 の違いは、マンネリ化したら一巻の終わりだということだ。  「地域のお祭り」 なら
百年一日のごとく同じ出し物でも構わない。  最終的に、住民に安心感を与えるものだから。


しかし 「見せるお祭り」 は、飽きられたら観客は減少し出す。  だから常に、ハプニングを要求される。
しかしそのうち、ハプニングの種も尽きる。  そうなった時でも、名前だけで人が呼べるようになっているか
が、勝敗の分かれ目になろう。  負ければまた観光客のない 「地域のお祭り」 に降格するだけだ。
「地域のお祭り」 と 「見せるお祭り」 の要素を併せ持つ場合、どちらに力点を置くかだろう。


白河の 「だるま祭り」 や いわき市平の 「七夕まつり」 は、あれだけ長い歴史がありながら
「地域のお祭り」 に力点を置いている。  だから、どこにどんな飾りが下がっているか予測ができるのに
また行ってしまうのだ。  毎年生ビールを飲む出店も、ようやく固定化しつつある。
月遅れの8月に七夕まつりをやるのは、うがった見方をすれば、子供に氷水を大人に生ビールを売らんがためだ。
それがために、飾り物をスカスカにして嫌でも直射日光に炙らせる。

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