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2017年7月

「迷走する瞑想集778」 2017/07/28

私は前項で 「笠 智衆の御前様になりたい」 と言ったが、鏡を見てみるに東野英治郎の坪内先生のように
なりつつあるのではないだろうか?  例の 『続・男はつらいよ』 に出てきた 「こらっ、寅!」 と
叱っていたあの恩師である。  『水戸黄門』 を演じた時の、東野英治郎ではない。  もっとも
『水戸黄門』 でもあの呵々大笑する顔を作るのに、苦心惨憺したとは言われているが・・・・。


手本とする俳優でさえ役を作るのに苦労しているのに、それを簡単に真似できると思う方が間違っている。
ではあるが、誰か手本はあった方が、いざというとき迷わないで済む。
風貌・物腰というのは、性格の裸に着る着衣のようなものである。  自分で作るには、糸をつぐむところから
始めなければならないから、非常にやっかいだ。  出来合いの既製品を手に入れた方が、手間が省ける。


若い頃は、既製品の善し悪しが分からなかったし、既製品があることも知らなかった。
ただ単純に 「俺は俺だ」 と思っていた。  しかし 「俺は」 を表面に出すことは、集団の中にあっては
必ずしも望ましい結果を生まない。  そこで、既製品の服を探すことにした。
「出しゃばらず、あまり笑わなくても良いから、迫力だけは感じさせる」 そんな吊しはないものか?


「そんなら高倉 健がいるじゃないか」 って彼は、もともと二枚目スターである。  私とは正反対だ。
ただ彼は福岡県出身で、父は炭鉱関係の仕事をしていたようだ。  何を隠そう、私の保育園の
園長先生と筆頭保母さんは福岡県出身である。  だから私の頭の中には 「ズリ山」 と 「ボタ山」 が
同時登録されている。  いわき地方では 「ズリ山」 と言うのだと、後で分かった。


それはどうでも良い。  だから高倉 健は、即時却下した。  同様に、ジャン・ギャバンも。
笠 智衆の御前様のいいところは、常に穏やかな顔をしているし、怒っても笑っても表情の激変が全くない。
だから、人を驚かせない。  驚かせないから、取り繕う必要もない。  ある意味、エコな顔なのだ。
彼を老人顔の手本にせずして、誰を手本にすればいいというのか?


「しかし御前様に、迫力なんてあるのか?」 人を追い詰める迫力とは無縁だが、自分の陣地を一歩も引かない
そんな迫力なら充満している・・・と見るがいかがだろう?
他人に哀れを催させることがない分だけ、高倉 健の上を行っている・・・と思うのだが。

「迷走する瞑想集777」 2017/07/26

「記憶っておかしなものよねえ、シャーロック。 動転した貴方は、物語を自分に都合良く書き換えた」
これは 『シャーロック』 の最終回で、ユーラスがシャーロックに言う言葉である。
知性の塊のようなシャーロックでさえ、自分の記憶の改ざんをやっていた。  ならば平凡な我々が
自分に都合の良い記憶に改ざんすることを、やっていないはずがない。  これが最終回のキモだ。
自分が知っている幼い頃の記憶は、幼なじみに会って再確認する必要がある。  たぶん、違っているはずだ。


しかしシャーロックは、過去の一部分を消去したに過ぎない。  これが私となると
過去のすべての人付き合いの記憶が、事実(相手の見方)を上書きしていた恐れが判明したのだ。
私が演じているとおりの人物で、観客は受け取っていると自分では認識して、記憶してきたのだが
それはとんだ間違いだった。  観衆は、私の最も見せたくない姿を、ちゃんと私と認識していた。


つまり演技は、何の効果もなかったということだ。  羽目を外すと人を傷つけかねない性格は
小学校に入った時点で気がついていた。  注意された状況は今でも憶えている。  だから別の人格に
なりたいといつも思っていた。  そのための演技だった・・・がそれは、自分の中で完成していたに過ぎない。
控えめな人物の演技がほぼどこでも成功していた、と記憶を改ざんしたが、事実と照合すればすぐに
違うことがバレてしまう。  それを無意識に恐れたから、過去の人とは会うことを避けていた・・・のかも?


考えてみると過去の事実は割と憶えている方だが、見せたくない姿をさらした案件は、なぜか記憶から
消えている。  いや実際は憶えているのだが、引き出しに物を挟んで開かないようにしている・・・のかも?
こうなると、久しぶりに人と会うことは、ある意味恐ろしくなる。  どう対応して良いか不安になるから。
自分の記憶には頼れない。  それは自分で改ざんした後の記憶だから。  相手に大いにしゃべらせて
まずその当時の自分の姿を確かめねばならない。  またも、控えめな人物を演じて・・・。


幸いにして集団や組織から外れた今は、あえて演技をして本性を隠す必要がない。
「僕は社会不適応者だ」 でも別にいいのだが、生きるためには人と接することはやめられない。
そのため 「ムカッ」 とくる気質を覆い隠すため、こんどは笠 智衆の御前様をお手本にしようと思っている。
「なにも、そこまで老けんでも」 いいや、私は全身全霊をかけてこの老け役に挑むつもりだ。
幸いにして外見はいくらでも誤魔化せる・・・あとは中身だ。

「迷走する瞑想集776」 2017/07/25

女の人には、いつも微笑んだ顔をの人が確かにいる・・・が、内心で微笑んでいるかは謎である。
あれも実は 「擬態」 の一種なのかもしれない。  いわば、身につけてしまった振る舞いだ。
行なうことに、さほどの決心は必要ないのではないか?  うらやましい限りだ。
他人と接するごとに仮面を変えるのだから、「微笑みの仮面」 も用意しておきたいところだ・・・と思う。


突然だが、さて本題に入ろう。
シャーロックもどうやら終わってしまったようだ。  ワトソンの妻メアリーが
凄腕の殺し屋だったことよりも、徹頭徹尾善良なはずだったハドソンさんまでが 「カタギじゃないのよ」 と
言ったことに、世界が崩壊した思いだ。  赤いアストン・マーチンを高速で乗り回す姿に、「この世に
善人はいないのか?」 と・・・。


ただ一人まともで善良そうなモリーでさえも、よく考えれば毎日死人の相手をしている検死官である。
どこかは、常人とズレているかもしれない。  だからシャーロックに、いまだにホレているのだ。
普通だったら、とっくに口もきかなくなってるはずだ。  モリーもやはり 「変人」 なのだ。
みんなが認める 「変人のシャーロック」 は、変人を吸い寄せる磁石のようなのかもしれない。


ワトソンもメアリーに言われたごとく、危険に吸い寄せられる傾向を持つ。
シャーロックと出会ったことは、当然の帰結なのだろう。  ところでホームズ兄弟は孤独だと言われるが
本人たちはあまり気にしていないにしても、確かに友達は最小限である。  これは何かに似ている。
トロイアの王女にして予言者のカッサンドラである。


アポロンに予言の能力を与えられたが、そのために愛の冷めるのが見えアポロンを去ったら
その腹いせに 「誰も予言を信じない」 呪いをかけられてしまった。  ちょうどその例の裏返しである。
並外れた知性を持つが故に、相手の真意が見えてしまう。  相手の言説が嘘だということが
ありありと見える人間に、他人を信じろという方が無理である。  思考のスピードの違いにも
イライラさせられるだろうし・・・。  それで他人と話(意思の交換)をしなくなる。


口を突いて出るのは、他人に対する行動の指示だけである。  これは妹ユーラスにも顕著である。
世間では 「わがまま」 と評されるが、それはあくまで他人からの評価に過ぎない。
「なぜ、こんなことも分からないんだ」 それが予言者側(ホームズ側)からの見方である。
だがマイクロフトとシャーロックは、高い知性を持とうが、人間一人では生きてゆけないことも学習している。


シャーロックが真犯人を究明しても、レストレードがいなければ、逮捕や起訴の権限はないし。
マイクロフトが弟を何度も助けるのは、半分はその能力を利用したいがためであろう。
実際、ユーラスの能力も利用し続けていた。  ユーラスは鉄壁の要塞(監獄)の中にいた。
すべての人間を操るのは不可能だから、いつか生命の危険にさらされる恐れが必ずある、と考えたか?


たとえば、監獄島のすべての職員を洗脳することは不可能なはずである。  全員には面接できないから。
しかし上層部だけなら面接も可能であろうし、所長を洗脳し部下を強制的に従わせる、これでも掌握はできる。
しかし末端まで洗脳はしていないから、誰かが 「おかしい」 と気付くだろう。  警備員は銃を持っている。
それから身を守るのは 「鉄壁の監獄」 が都合がいい。  だから出入り自由でも、そこを動かなかった。
異常能力者でも、自らを守る配慮を欠いていたら、とっくに誰かに殺されていたろう。  ところで


悪党としては、モリアーティが一番興味が持てる。  残酷でいながら、自分の知性を持て余しぎみで
始終イライラしているところなどは、なにか滑稽である。  適当な回転車を与えてやらないと・・・。
シャーロックには、「事件」 がネズミの回転車だった・・・と言っては失礼に当たるかな。
マイクロフトには、「職務に専念すること」 だったようだが、これがないとユーラスのように暴発する。

「迷走する瞑想集775」 2017/07/23

女性が笑顔を作り続けるのは、苦行なのであろうか?
はたまた、そう見せたい相手には苦もなくできる行為なのであろうか?
というのは不肖私、記念写真撮影の短い時間にもかかわらず、笑顔を作れないことが発覚した。

精一杯微笑んだつもりが、役人の 「どうしました?」 の警戒の顔そのままである。
確かに一人暮らしでは警戒すべきことが多い。  誰も、緊急停止をかけてくれないから。
それは分かっているが、笑顔の作り方さえ意のままにならないとは、正直愕然とした。

これでは猫が寄りつかないの話ではない。  子供も女性もそれに男性さえも(どうでもいいが)
私に近づいてこないことになる。  これは、はなはだ良くない事態である。  いかに
「気楽でいいじゃないか」 だとしても、映画 『恋愛小説家』 のような事態だけは避けたいと思う。

猫は無視されてもかまわない。  どうせ、いなくてもいい存在だ。  私に必要性は、残念ながらない。
しかしだ、子供の写真を撮っていて、こちらに気付いた途端笑顔が消えるのは寂しい。  せめて
いてもいなくてもいい存在の方が、まだ救いはある。

で、笑顔を修復するにはどうすれば良いか?  これが、当面の課題である・・・終わり。
「終わりって、解決策を示さないのか?」 解決策があれば、いまごろこんなブログを書いてはいない。
自分では微笑んでいるにもかかわらず、実際には硬い表情のままだから困っている。

「お笑い番組を見ればいい」 って、おかしくて笑っていても、実際笑った顔をしているのかが分からない。
傍に他人がいないからだ。  まさか、鏡を前にしてお笑い番組を見るわけにもいかないだろう。
こういった症状の他人なら、いくらでも指摘してやることができる。  だが、自分では・・・・。

渋面で凍り付いた顔の老人は、確かに存在する。  しかし自分がああなるのは、御免被る。
できるなら・・・微笑んだままで凍り付きたい。  たとえ不気味だと言われようとも。

「迷走する瞑想集774」 2017/07/22

「3月の誕生石はアクアマリンだそうだ」
「そうだよ、4月はダイヤモンドだ」
「いわき市の小名浜には、アクアマリンふくしまという水族館がある」
「ああ、あるね。  それがどうした?」


「今気がついたのだが、この水族館と私とは因縁浅からぬものがあったのだ」
「アクアマリンという名前で?  そんなの偶然だ、こじつけに過ぎない」
「それを言い出したら、ほとんどの事象には因果関係が認められなくなる」
「なんで急に話が拡大するんだよ?」


「たとえばライター着火装置を回して火を点ける行為・・・これには因果関係がはっきりしている」
「当たり前じゃないか、火を点けようとして火が点くんだから」
「しかし、百発百中ではない。  必ず着火ミスは起きる」
「そりゃあ仕方があるまい。  古いオイルライターなら特にな」


「すると、着火行為が着火の原因とは言えなくなる」
「だって、石を擦らなければ火は点かないんだぜ。  原因と結果は明白だろう」
「しかし何パーセントかの確率で、火が点かない場合がある。  これで関係は断ち切られないだろうか?」
「じゃあ、火はどうやったら点くんだよ?」


「そこだ、火が点く場合が多数だが、火が点かない場合もゼロではない」
「ふ~んお前は、強固な因果関係などはなく、たんに確率の問題だとそう言いたいのか?」
「絶対に起こらない確率が明白にゼロでない限り、簡単に因果関係があるとは、言ってはいけないと思う」
「自信を持ってそう言い切れる関係が、はたして存在するのかね?」


「私はないと思う。  原因から自動的に寸分の間違いもなく、結果が導き出されるなんてことはね」
「だから未だに、自動車のリコールは発生するのか」
「コンクリートの壁だって、ダイヤモンドのように均一な炭素の結晶ではないから
 強いところと弱いところは必ず存在する。  そして、弱い部分にひびが入る」
「すると我々は、おおむねの因果関係の元に暮らしているということか」


「毎日が博打のようなものだ、と言った私の気持ちが分かっただろう」
「だから、改めてする勝負事などおかしくてやる気にならない・・・とも言っていたな」
「ああ、勝負事にはまる奴は、毎日が強固な因果関係にがんじがらめになっていると錯覚している。
 自分の一歩先のことさえ、正確無比な予測は困難なのになんで、さらにまた運を天に任すのか?」

「迷走する瞑想集773」 2017/07/21

よく 「写真を、現実から切り取る行為」 と言う場合があるが、では切り取った跡は
真っ白な四角い穴だけが残っている・・・なんてことはない。  だから 「現実の拓本を取る」 が
近いような気がする。  とはいえシャッターを切った瞬間に、ファインダーの映像は過去の写しになっている。


というか我々の 「いま」 という概念も怪しいのだ。  現象が目に入り、脳に認識されるまでに
いくらかのタイムラグがある。  だから認識したばかりの事象でも、正確には過去のものなのだ。
太陽も正確には、目に見える位置にはいない。  太陽と地球の平均距離は約1億5000万kmあり
これを光が届くまでに約8分のタイムラグがある。  だから太陽は、目で見る位置より実際は少し進んでいる。


なお太陽と地球の平均距離は、天文学の距離の単位で149,597,870,700mだそうである。
さらにいうなら空の星々も、何十光年や何万光年の彼方から光が届いている。  ということは今現在は
目に見える位置にはない可能性が高い。  あるいは消滅しているかもしれないのだ。


我々は 「たった今」 と言いながら、今現在には同調していない。  すべて情報は、いくらかの
タイムラグを経てきており、厳密に 「今」 を指せるものはない・・・もっと言えば、我々は
現在に生きていないということになる。  正確には、過去を現在と認識しているだけだ。


「現在」 とは過去と未来の接合面だと言われてきたが、正確な 「現在」 を指し示せないのだから
「現在」 とは、概念だけのものなのかもしれない。  本当に我々にあるのは、過去と未来だけである。
「しかし過去と未来は、自分で弄れないじゃないか」 確かに両方とも、一種の 「絵」 であるから
これに能動的に働きかけても無駄である、「現実」 に存在しないものだから。


だがもし 「現実には存在しない」 のではなく、「現実が存在しない」 のなら、いったいどうなるのか?
過去と未来はシームレスにつながり、「現在」 の接合面は必要ではなくなる。
どこまでが過去で、どこからが未来なのか、厳密に分離はできない・・・のではないだろうか?
我々は窮屈な 「現在」 に押し込められているのではなく、あるいは無限の 「未来」 の中で動いている。


我々の世界は、数多くの 「現在」 がつながった映画のフィルムなどではなく
止むことのない運動状態の連鎖が、本当のあり方ではなかろうか?
認識した時点でそれは過去になっている世界に、本当の 「現在」 などあろうはずもない。
・・・ああ夕方5時だというのに、部屋の温度は31度ある。  どうりで、うわごとが出るはずだ。


これから晩酌を始めると、さらに体は発熱する。  明日はビール祭りに行ってくる。
炎天下の開成山公園で生ビールを飲むのだ。  涼を求めて・・・とは正反対のことをする馬鹿さ加減。

「迷走する瞑想集772」 2017/07/21

それがなくても、生活する上で何ら困らないものを、あえて欲しがるのは贅沢と呼べなくもないが
生活に必要不可欠のものを備えておくことを、贅沢と呼んではいけない。
自動車は初めの頃は貴重品であったから、「贅沢品」 と呼んでも誰も反対はしなかった。
しかし現代の地方都市の大型店舗は、敷地の問題から郊外に造る。  そして郊外にお客を集めるために
広大な駐車場を造る。


客は徒歩ではとてもそこまで行けない。  バスを使おうにも、バス停まで歩きしかも乗り換えをしないと
そこに行き着けない。  バスで簡単に行けた駅前市街地に小売店は、絶滅危惧種だ。
地方人は贅沢で車に乗り、買い物に出かけるのではない。  車で行かないと、買い物もできないからだ。
病院に通う人も、似たことを言うはずだ。  大きな病院は、歩っていける近くになどない。


それでも車を贅沢品というなら、都会の人は、地方はどうあるべきだと考えるのか?
年寄りが免許証を返納しないのは、たんに年寄りの頑固さと考えているのか?
「私は運転手ではない」 という顔をしている息子・娘に、毎回乗せてもらえと?
「それは結局、街造りが間違っていたのだ」 そうかもしれないが、それではどうすれば良かったのか?


明らかな失敗を 「失敗だ」 と言うのは誰にでもできる。  都会人は地方に交通インフラを造ろうとすると
もろに嫌な顔をしなかったか。  「利用者の少ない地方になんて、無駄遣いだ」 と。
確かに効率は、人口密集地に劣るだろう、それは間違いない。  例えば下水処理場を建設する場合
都市部と農村部では条件が違ってくる。


都市部では家が密集しているから、短い配管で下水を集められる。  そして大きな処理場で、いっぺんに
処理できる。  しかし農村部は、家と家が離れているし、集落同士も離れている。  これを
一カ所の処理場で処理しようとすると、戸数に対する配管の割合が都市部の数倍にのぼる。
だから集落ごとに小さい処理場(それでも個人の浄化槽よりは大きい) で処理した方が
結果的に安上がりになる場合がある。  一概に 「不経済だ!」 とは言えないのだ。


それに下水は、自然流下である。  上水道と違って圧送はしない。  だから地形が一方向に傾斜してない
でこぼこした地形では、そもそも一カ所に集めることが難しいのだ。  そこでまた、配管が伸びる。
かように、都市部の論理では難しい状況を、都市部の人は分かっていない。  かといって下水をそのまま
河川に垂れ流すのは、「河川を汚染する」 と目くじらを立てる。  そんなことは、地方人でも分かっている。


要するに都市部の方法が、そのまま地方には使えない、ということだ。

「迷走する瞑想集771」 2017/07/20

タバコが、価格の半分以上の税金を払いながら吸っているとすれば、自動車は税金を次から次へと
納付しながら走っていると言わざるを得ない。  それは、購入する時から始まる。
購入時に、「自動車取得税」 と、車両価格の 「消費税」 が取られる。


次に乗り出すと、「ガソリン税」 と、それにもかかる 「消費税」 それから 「環境税」 である。
乗っても乗らなくても、毎年 「自動車税」 の納付通知が来る。  さらに二年に一度 「自動車重量税」が
取られ、併せて 「自賠責保険料」 が請求される。  これを拒否すると、公道を走れない。  しかし


タバコに 「税金の塊なんだから、吸うのやめたら?」 と聞こえても、「税金を払うの馬鹿らしいから
車をやめたら?」 と言う言葉は聞かない。  同じ税金の 「餌食」 なのに。
「車は贅沢品だ」 といまだに信じているのであろうか?  確かに都会なら、移動に必ずしも車は
必要ないかもしれない。  しかし地方に住んでご覧なさいよ。


「車は、やっぱり必需品だ~」 とならざるを得ないから。  「でも、宅配だってあるんだし・・」
何をい言ってるんだ、生活必需品をいちいち宅配便で届けてもらうのか?  送料を払ってまで。
都会人は 「地方を知らない」 のではなく 「知る必要がない」 と考えているのではないか?


米や野菜や海産物は、自動的に都会に運ばれてくるものと勘違いしている。  いっぺん
道路や鉄道が通行不能の事態に、遭遇してみればよく分かるはずだ。  食品店の棚から、商品が消える。
いくら何でもバスは動くだろう・・・と思ったら、ガソリン・軽油が入らず街は死んだようになる。


水の配給で長距離運ぶのは大変だろうなあ。  当然エレベーターはストップしている。
自販機なんて動かないよ、電気が来なくちゃ。  商品が残っていても、レジの機械は動かないんだから。
そんなこんなを考えたら、恐ろしくて都会のど真ん中になんて住めない・・・と私は思っている。


地方の車を本当に贅沢品にしたいなら、都会と同等の交通インフラを完成させてから言うべきだ。
都会人が電車や地下鉄やバスを贅沢品と思わないように、地方人は今のところ車を贅沢品と考えてはいない。
だから地方での車の維持費用を、もっと低減させるのには賛成する。  地方のインフラ整備に金を使うのは
無駄だ・・・と言い張るのならなおさら。

「迷走する瞑想集770」 2017/07/20

車検を終わって車が帰ってきた。  二年に一度とはいえ、車検費用の負担はこたえる。
それでも、点検整備費や自賠責保険費の出費はまだ納得をするが、「重量税」 を取られるのには
釈然としないものがある。  毎年5月に 「自動車税」 を納めているんだぞ。  同じ車に
何回税金をかければ気が済むのか?


と思って検索してみたら、「自動車税は都道府県税で、重量税は国税です」 という回答が出てきた。
どちらも車の走る道路を新設したり、補修したりの費用に使われるのであろう。  ということは
重量税は国道関係で、自動車税は県道関係に使われる・・・でいいのかな?  それでは
面積が小さい(従って県道延長も短い) 県では、自動車税は安くてもいいはずだ。  重量税も同じ。


国道の走っていない県はないが、その総延長が47都道府県すべて同じとはいかない。
総延長の短い県は、国道の維持管理費も少なくて済むはずである。  それでなぜ、全国一律の税額なのか?
「それをやめたら、国道延長の長い県では車が売れなくなる」 なるほど、それが正解かもしれない。
ならば面積の小さい県は県道の延長当たりの維持管理予算が、大きい県より裕福である・・・となるのか?


そうは簡単には、いかないはずだ。  なぜなら小さい県は、人口も少ない。  小さくても人口が多い都府は
逆に道路密度が高い。  ということは、国税である重量税は、人口(道路)密度が高い都府県にかなりの額を
振り向けているはずである。  それも毎年のように。  なぜなら維持管理費用は、年々増えこそすれ
決して減りはしないから。  地方の道路「新設」費用がよく騒がれるが、あれは完成すれば終わりである。


なにか、地方で納められた重量税が、人口密集地の国道の改修にせっせとつぎ込まれている・・・なんてことは
ないのであろうな?  都会より間違いなく、地方の一人当たりの自動車保有台数は高いはずだ。  なぜなら
長距離移動の手段が、それしかないから。  都会のように、あらゆる交通手段が勢揃いしていない。
つまり極論すれば、都会人は自分で重量税を払っていない。  それでいて、その恩恵は余すところなく
享受している・・・また被害妄想が出たかな?

「迷走する瞑想集769」 2017/07/19

先日 「踊っぺ!YOSAKOIおっとどっこい郡山」 要するにヨサコイ踊りのストリートライブなのだが
それに行ってきた。  そこで気付いたことが一つある。
ヨサコイ踊りは、当然伴奏の音楽を大音量で流す。  その中であるグループが 『ダイアナ』 の
ヨサコイ踊りバージョンを流した。  ダイアナは、ロックンロールの名曲である。


すると老若男女が拍子を取っているではないか。  ほかのヨサコイ踊り伴奏曲には反応しなかった人まで。
そうか、ロックンロールに音頭のリズムは、意外と万人受けするかも・・・と考えた。
「ロック」 ではダメである。  リズムが変幻自在では、聴衆は乗れないし、表現を追求してはダメである。
あくまで踊り手たちを乗せ続けなければならない。  演奏者は、いわばお囃子に徹すべきなのである。


テンポは最初から最後まで、ずーっと一緒。  アフリカ音楽に似ているかも・・・。
盆踊り唄が踊りの参加者を段々に熱狂させるように、単調で強烈なリズムにしたロックンロールは
初老の人から幼児まで、必ずや熱狂の嵐に巻き込むであろう・・・と私は考えながら、写真を撮っていた。
ロックの祭典とかやっている場合ではない。  あれははっきり言って、若い人しか共感できない。


日本にはリトル・リチャードやチャック・ベリーみたいのは、もうおらんのか?
ロックの祭典にはゼーンゼン行ってみたいと思わないが、上記のロックンロールの音楽会なら是非行きたい。
音楽は頭で感じるのではなく、体で感じるのだ・・・と、リズム命の愚痴を述べつつ本題に入る。
プロの人物写真家は 「モデルを美しく撮る」、それに対してアマチュアは 「美人の被写体しか狙わない」。


これは似ているようで全然違う。  プロは、ポーズ、ライティング、衣装、背景などを工夫し
モデルを最高に美しく「して」 撮影するのに対し、アマチュアはクライアントがいないせいもあり
自分が美人と思った被写体「だけ」 撮影するのである。  別にそれでクレームなども来ない(はずだ)。
アマチュアは、被写体にアレコレ指図はできないから(たまにするのもいる)、最高の笑顔を手に入れるには


自分で動いて、その瞬間を盗み出すしかない。  言い方は悪いが、被写体に意識されていては
自然な笑顔など望むべくもないから。  目線をくれて、笑顔を作ってくれる女性もいないではないが
なにか不自然な写真になってしまう。  撮影者は、無視されていた方がなんぼかよい。
「俺は写真を撮っているぞ」 より、透明人間の方が自由に動けるから、カメラは首に提げない主義だ。

「迷走する瞑想集768」 2017/07/18

「福島県の地図を見てもらうと、県都が広大な地域のかなり北に寄っているのが分かる。
 新潟県も、中心部に長岡市がありながら新潟市が北部に寄っている」
「たまたまだろう」
「同じ論理ならやはり広大な岩手県も、県都を南の北上市あたりにしても、なんらおかしくはなかった。
 しかし岩手県は、ほぼ中央部の盛岡市に県庁がある。  よほどのことがない限り、中央に置くのが正解だ」
「よほどのことが、あったのか?」


「ここからは妄想だと思って聞いてくれ」
「最初からそのつもりだけど」
「福島市は、近代の勿来の関ではなかったのか?  同様に、新潟市も」
「なにの侵入を防ぐために?」


「旧幕府側の反乱を恐れたのでは・・・というのがミソだ。 会津藩と米沢藩と庄内藩の」
「新潟市は確かに、会津からのもう一方の出口にあるのは分かる。  米沢藩と福島市との関係は?」
「地図で見てみなよ、米沢市は福島市と仙台市よりはるかに近い。  しかも、奥羽本線や国道13号線で
 結ばれている。  現在は山形新幹線があるし、東北中央自動車道が建設中だ」
「会津藩が警戒されていたのは分かるにしても、米沢藩と庄内藩もか?」


「庄内藩は会津藩以上に、最新兵器を備えていた。  会津藩ほど徹底的にやられない、というか負けなかった。
 会津藩の援軍に駆けつけようとはしてた。  背後の秋田藩が寝返らなければ。  だから明治になっても
 会津藩以上に恐ろしかったのではないか」
「言われてみれば新潟市は、庄内藩の一方の日本海側の出口、の関所にもなっている・・気がする」
「新潟市と会津若松市を結ぶ国道は、49号線である。  米沢市と福島市を結ぶ国道は、なんと13号線である」
「なにか寒気がしてきた。  偶然だろうけど」


「そう、何の根拠もない偶然だ。  ついでに、鶴岡市と新潟市を結ぶ国道は7号線だ、つまり死地」
「その話は終わりにして、ではなぜ県庁を動かしたくないくせに、郡山に日本最初の一大プロジェクト
 安積原野開拓事業を敢行したのか?  適地はほかにもあったろうに、士族の反乱対策であったにしてもだ」
「士族の反乱というが、もとを正せば政府軍だった人たちだろう。  賊軍だった会津藩は
 下北に遠慮なく追いやられている。  いわば身内の武士を、郡山に配置させたい考えだったら・・・・」
「ええっ、郡山も勿来の関だったと言うのかよ?」


「そうでもなけりゃ、なぜ反政府軍の巣窟なみたいな場所に、わざわざ大金を使って事業などやってやるのか?
 青森県でも北海道でも行けば良かったのに」
「そこはちょっと、西の人たちには耐えられないだろう」
「要するに西国人は、近代になっても東北人を警戒していた・・・と私は見るね」
「東北の玄関口だなんて言って、喜んではいられないということか」


「そう、福島・新潟両県は東北に対する関所の役目を担っていた・・・が正しい認識だろう」
「ところで、この論の信憑性はどのぐらいなんだ?」
「だから、被害妄想だって言っただろう」

「迷走する瞑想集767」 2017/07/18

「その割に、県庁は諦めていないよねえ」
「たぶん市民の大半は、別に来てくれなくても、と考えていると思うよ。  それより
 渋滞をなんとかしろ~、とかね」
「それじゃ未だに言われるのはなぜなんだ?」
「それは過去に、議会で決まったものをドタキャンされた恨みからだろう。
 別に県庁の機能が、福島市にあろうと会津若松市にあろうと、現在の郡山市にとって支障はない」


「じゃあ、ドタキャンされたことを恨んでいるだけなのか」
「たぶんな、だから福島市に照準をロックしている・・・とも言える」
「もし会津若松市に、県庁を移転するとなったら?」
「郡山市は一応異議は唱えるだろうが、徹底抗戦はしないと思う」


「なぜ?」
「県庁を移転するという議決が、今やっと履行される・・・という理屈づけでな」
「しかしだ、県庁を最初に福島市に設定したのは明治政府だろ。  ならばドタキャンの陰の首謀者は
 福島市ではなく、明治政府だとは考えられないか?」
「いい視点だ。  福島市単独で反対することは、あるいは不可能だったかもしれない。
 政府はなんとしても福島市に、県庁を置いておきたかった。  その理由とは何だろう?」


「やはり、会津藩や白河藩から遠いところか?  二本松藩からは近いけどな」
「確かに設置当時は、福島市は養蚕などで賑わっていただろう。  しかし移転騒動の頃は
郡山市も誘致できるぐらいには発展していたとみるべきだ。  なぜ交通の十字路に移転しなかったか?」

「迷走する瞑想集766」 2017/07/18

「しかしだ、福島ナンバーは減税しても当然だと思うが、県内にはご当地ナンバーが
 あと三つあるんだぜ。  それまで減税対象か?」
「たとえば、会津ナンバーやいわきナンバーを減税の対象から外したら
 全県の合意はまず得られまい。  だから、やるのなら全部一緒にやる」


「福島ナンバーなら、宮城、山形県ぐらいまでは福島陸運事務所に登録するだろうな」
「会津ナンバーなら、新潟、上越方面はこっちのものだ。  いわきナンバーなら
 茨城、栃木、千葉あたりはまず間違いない。  問題は郡山ナンバーだ」
「いまでも郡山市以外、あんまり波及してないぞ」
「郡山市民は、郡山ナンバーと福島ナンバーの両方から選べるから、対象から外しても・・・」


「おい、郡山市内のディーラーはどうするんだよ。  車が売れなくなるぞ」
「だから、昔どおり福島ナンバーを付けてやればいいだけじゃないか。  俺の車はいまだに福島ナンバーだ」
「それは登録したのが昔だから・・・が理由じゃないのか?」
「それに県内を転々とする身には、福島ナンバーの方が都合がいい。  オールラウンドだから」


「いくらなんでも、それじゃ郡山ナンバーが可哀想だろう」
「ご当地ナンバーとは、そういう運命を背負っている。  郡山市はネーミングを間違えた。
 グローバルスタンダードを狙うなら、岩代ナンバーあるいは安積ナンバーの方がよかった」
「市民だけ付けてくれればいい、と考えてるんじゃないのか?  郡山市役所あたりは・・・」
「だから、そんな発展性を見込めないナンバーなら、減税の対象から外しても文句は出ないのではと」


「こういう時の郡山市って、ひとりで頑張ったりしないものだしなあ」
「基本的に、商人の街だからじゃないか?  名誉ごときに固執しないとか」

「迷走する瞑想集765」 2017/07/18

「いま考えたのだが・・・」
「どうせまた妄想の類いだろう」
「木は森に隠せ、ということわざがある」
「なにかヤバイことがあるのか?」
「震災直後に、福島ナンバーの車が他県で傷を付けられたと聞く」
「放射能を帯びているとかでなあ・・」


「また最近も、豊洲とか福島県の名前を変えちまえという意見があった」
「ラベルを貼り替えても、その地は変わりなくあるんだが」
「私は違う対処法を思いついた」
「どうするの?」
「福島ナンバーの車を増殖させればよい」
「福島県人が、車を倍買えということか?」


「違う、他県人にも福島ナンバーの車を買いたくさせればいい」
「どうやって?」
「軽自動車税は市町村に、自動車税は県に入る」
「それはどこでも同じだ」
「例えば福島県が、自動車税を全車種1万円ポッキリにしたらどうだ?」
「たちまち税収が落ち込むじゃないか。 国に補助してもらうのか?」


「それは官僚的発想だ。  商人の発想は、最終的に売り上げが伸びればばよい」
「しかし福島県人に、一人で二台は必要ないだろう。  車が趣味の人以外は」
「今の自動車税は、年間で数万円を納める。  これが1万円ポッキリで済む。
 周りの県が福島県内の陸運事務所に登録しようとしないだろうか?」
「そりゃしたいだろうが、原則ディーラーのある陸運事務所でなけりゃ不可能なんじゃ?」
「多分そうだろう。  だから福島県内のディーラーで車を買うだろう。  そして、登録が済めば
 どこの県に移ろうと、自動車税の納付通知は福島県から追いかけて行く」


「そうならば、意外と税収は落ち込まないかも・・」
「自動車税納税通知書の中には、親切にも住所変更連絡票まで同封されている」
「安ければ、みな考えるかもなあ」
「軽自動車が日本の地方で大人気なのは、ひとえに自動車税が安いからだ」
「あと、車庫証明が不要とか・・。  しかし待て、そんなことをすれば、逆に
 福島県内の軽自動車の登録台数が減りゃしないか?  市町村から反対されるぞ」


「平時であれば、間違いなく猛反対だろう。  しかし異常事態時であれば、話は変わる。
 福島県民を救うため・・・の錦の御旗があれば。」
「しかし周りの県でも追随したら、元も子もないだろう」
「福島県以外で強行するのは、難しいと思う。  なんせ、プラスマイナスでメリットがない」
「しかし指をくわえて見ているのか?  新車販売をごっそり奪われて」
「それでは視点を変えよう。  県内の市町村の軽自動車税率を、全国一律ではなく
 市町村の人口に合わせて変えたとしたら。  つまり、小さな村はより安いとか」


「それをしたら、鮫川村(失礼) の税収は桁違いに増えるぞ」
「あっ、この方法はダメだ。  軽自動車税は、転居したらすぐに届け出ないとダメなんだ」
「だよなあ、税収が増えるのを捕捉しないで放っておきはしないだろうからな」
「やはり福島県だけ、災害対策の特区申請をするしかないか・・」

「迷走する瞑想集764」 2017/07/17

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」 三国志の故事である。
シャーロック第11作目 『臥せる探偵』 は、まさにこの故事をなぞっている。
死んだメアリーが、生き残ったシャーロックに遺言を残す。  そして二人の男が
その遺言通りの行動をする。  メアリーは諸葛孔明なのかよ? と一瞬思ったぞ。


あげく、シャーロックの妹まで現われてくる。
犯人を巻末に登場させるのは、三流の推理作家の苦し紛れだぞ、言っておくけど。
善良なハドソンさんの言動も怪しい。  「警察なんて呼べるわけないでしょ」 と明るく言っている。
もう、誰も信用できなくなった。  もしかすると、あのモリーさえも・・・・。


そうなのである、ワトソンが言っている。  「君は未だにアイリーンとメールを・・・」
名探偵が希代の女悪党と恋人関係?  そうシャーロックに迫っていたワトソンにしてからが、殺し屋を
妻にしていた。  もう信用できるのはレストレード警部だけだ。  だが彼には、裏の裏が理解できない。
それにしても、貸間の家主のハドソンさんが、あんな赤いスポーツカーを持てるのだろうか?


しかも、自分で運転してきた。  いざとなった時の、逃走用か?  いかに高速車で逃げても
グレートブリテン島は島国である。  国外に逃れるのには、飛行機か船に乗り換える必要がある。
乗り換えれば赤いスポーツカーが、そこに残される。  そこから足が付く。
あれは、陽動作戦用だな・・・と私は思った。  わざと目立つ色に乗っている。


貸家の家主は、世間を欺く演技かもしれない。  シャーロックとワトソン以外下宿人を見たことがない。
次回が待ち遠しいが、はたして最終回でストンと落ち着くのだろうか?  それともまだ不安のままに
引っ張られ続けるのだろうか?  現代人は、我慢にも限界がある。

「迷走する瞑想集763」 2017/07/16

昨日は、答えのないこ難しいことをつぶやいてしまった。  あんな日もある。
私たちは知らないこと(謎) に取り囲まれて生活している。  だが、知らないことを
知っていなければ、意外と平穏な生活を送ることができる。


「俺は何でも知っている」 は、知っている範囲で知っているに過ぎない。  実際は、知れば知るほど
知らないことが増えてくるという、悪夢のような世界が待っているから、知ろうとしないだけだ。
だから逆に科学者の仕事は、永遠になくならない。  人々がそれを知りたいと思うかは、別として。


あ、またおかしなことを書き始まった。  熱気のせいだ。  部屋の中は、9時台なのにすでに29度C。
風もやんでいる。  風の街・郡山も一日のうち何度かは、風がやむ。
ところで福島県は、北西の風が主に吹く。  だから、工場群は住宅地や市街地の東側に配置する。


郡山でいえば、郡山駅の東側に保土ケ谷化学があるし、日東紡冨久山工場や工業団地は市の東側にある。
しかるに白河市では、市の西側に三菱製紙を始めとする工場群がある。  もっとも、立地している
西郷村から見れば東側だが・・・。  そして那須おろしの西風が、白河市を襲う。


今は工場の排気も浄化対策が徹底しているから、匂いは全くといっていいほど気にならない(はずだ)。
大昔の白河市は、工場が稼働している日に西風が吹くと・・・・。  こうしてみると、郡山市が
いかにまともな街作りをしてきたかが分かる。  配置という点だけを見れば。


もう一方で郡山市は他の県内市町村と同じく、車なしでは生活が難しい街でもある。
駐車場のない新築アパートなど、考えられない。  持ち家には、最低でも二台の車が駐車している。
取り壊されたビルの跡地はみな駐車場に早変わりし、暇そうにしている駐車場は皆無だ。


公園でさえ車止めをやっておかないと、たちまち車の休み場所になってしまう。
郡山市は増え続ける自動車と、いたちごっこを繰り広げている。  路線バスを拡充しても
行きたいところに行くには、乗り換えをしないと行けない。  私は市役所に行くのに、途中まで
バスで行けるが、あとの半分は徒歩だ。  それが嫌なら、駅まで行って乗り換えるしかない。


「なら、車で行ったらよかろう」 いつ行っても悠々と止められるほど、広大な駐車場が待っているなら
迷わず車で行く。  イオンやベニマルやカワチには、それがあるから車で行く。  しかし
公共機関の駐車場は、どれもお粗末の限りだ。  建物を優先して設計してしまうから、だと思う。


そんなことを集客が生命線のスーパーがやったら、一年と持たない。  まだ、お役所気質が
抜けてるとは言いがたい、と感じている。  「商業の街」 が聞いてあきれる。

「迷走する瞑想集762」 2017/07/15

これは前にも書いたことだが、なぜ生物が誕生した時の単細胞のままでいないで
より大きな多細胞生物に変化してきたのか?  単細胞生物が生存に不利だから、より大きく
ならざるを得なかった?  それはおかしい。  現在も単細胞生物は繁栄している。


高放射能地域にも、高温の熱水吹き出し口にも、太陽と空気に縁がない地中深くにも
細菌類は生息している。  その生息範囲は多細胞生物を上回り、より強靱であることを示している。
わざわざ手間暇かけて大きな生物に変化したのは、他の理由があるに違いない。


バラバラのレゴ(単細胞) では飽き足らず、それを組み合わせてより大きな構造物(多細胞) を
造ってみたいと思ったのは、いったい誰なのだろう?
大きな生物が生存に有利なら、すべての生物が大きくなければならない。  しかしそうではない。


人間でいっても、一番多数なのは中型のサイズの人間だ。  全員が2mを超える長身ではない。
灼熱の地では、長身の方が具合がいいかもしれないが、それでも3mは超えない。
しかし恐竜は巨大化した。  一個の生命が存続するのに、あれほどのサイズがはたして不可欠だったのか?


ただ大きくなれる余地があったから、大きくなっただけなのか?
生物はよく 「エントロピー増大の法則」 に違反していると言われる。
単細胞生物から多細胞生物に変化することは、無秩序から秩序化することではないのか?
巨大な生物に変化するということは、生命体全部の個体数は逆に減少する、とはならないのか?


あるいは多細胞生物は、たんに単細胞生物のコロニーでしかないのか?
であるなら現在もこの世界に生息するのは、単細胞生物だけである、と言えることになる。
ではなぜ、単細胞生物の集合体が 「私」 という意思を持てるのか?


意思があっても、例えば体の傷でさえ 「意思」 だけでは直せないし、心臓の鼓動を
意思の力だけで調節することも不可能だ。  意思は、自分自身に対してはほとんど無力だ。
意思が力を発揮するのは、外界に対してだけ。  外界に反応するために、体全体の細胞群が考えている・・・
というのは考えすぎか?  どこまで切除したら 「私」 がいなくなるのだろう?


それは生命活動が停止した時・・・すなわち全細胞(単細胞) が死滅した時だ、と言うなら
部分的に生きている(例えば心臓だけ) 状態とは個人に対して、いったいどういう意味があるのだろう?

「迷走する瞑想集761」 2017/07/15

しかし 「一切の反論を許さない」 世界は魅力的だ。  これで文章を発表せずにいたら、筆者は
永遠の独裁者のままでいられる。  文章の世界だけで、満足していられればだが・・・。
別人になりすませば発表しても、文章への反撃から逃れられる。  中傷の矢も、自分には命中しない。
ただし賞賛も、当然別人に対してだが。  それを知っているのは、筆者自身のみである。


いわゆる忍法でいうところの 「うつせみの術」 である。  そこに敵の本体は、すでにない。
文章は本体はないにも関わらず、作者の意思は残る。  いわゆる 「残留思念」 であろうか?
ところで、事業をやっている事務所の公用車運転手には、二つの能力が要求されることを知っていようか?
「とうぜん、安全運転だろ?」 そんなことは、一般職員でも同じく要求される。


一つ目は、「うわあ会議にギリギリだ。 少しスピードを出してくれないか?」 と所長あたりに
頼まれた時、「いーえ制限スピード以上では走りません」 と答えるようでは、優秀とはいえない。
黙って、捕まらない範囲で、スピードを徐々に上げる・・・これがプロドライバーである。  当然
ねずみ取りのやっていそうな場所は、熟知し尽くしている。


二つ目は逆、後ろに車が並ばれようが、クラクションを鳴らされようが絶対に、制限スピードを逸脱しない。
これも事業課では必須の能力である。  「公用車なら当たり前だろう」 そうではない。
地方では、制限スピードと走行スピードは必ずしも一致しない。  大体10kmオーバーぐらいは普通だ。
その片道一車線の道路を、制限スピードビッタシで一日中走る。  これは並みの忍耐力ではできない。


それでは、その能力が必要とされる時とは、どんな時か?  会計検査院検査の時である。
院の検査は、室内でやる書類検査と、現場で行なう現地検査の両方がセットである。  一日の検査対象地区は
前の日の検査終了後に発表される。  そして、一地区当たりの検査時間が予定より超過すれば、それだけ
予定表の後ろの地区が押し出される。  なぜゆっくり移動するか、判っていただけたと思う。  こんな時
「もう少しスピードを上げたら?」 と運転手に言うような上司は、はっきり言ってクズである。


公用車が活躍するのは、現地検査の時である。  制限スピードならば、検査員も 「遅い!」 とは言えない。
しかし明らかに普段のスピードよりは遅く走っている、と職員は感じている。  そして陰で手を合わせている。
別に阿漕なことをやっているのではないのだが、検査院も一週間かけて何百地区も検査し 「何もありません」
では立つ瀬がなかろう。  なにかしら手土産を持って行かないと・・・と職員はみな知っている。


日本全国が完璧に仕事こなし、検査院無用論が出るくらいが理想なのだろうが、「浜の真砂は尽きるとも・・」
が検査院の存在理由であるなら、なにかは摘発し続けるだろう。  会計検査院は、若い職員への
「間違いをしでかすと、お巡りさんが・・・」 のお巡りさんの役目を果たしている・・・ただし上司が言うのだが。
しかし、当たらない奴には不思議と当たらない。  そんな奴にこの呪文は、何の効果もない。

「迷走する瞑想集760」 2017/07/12

自身に起きた不運を嘆く場合、二通りのタイプがあるようだ。
一つ目は、自身では防ぎようがない不運をより悔しがるタイプ。
二つ目は、自身で防ぎようがない不運は不可抗力として、不運にカウントしないタイプ。


「二つ目のタイプは、運そのものを信じていないんじゃないのか?」  なるほど、そういう見方もある。
しかし 「自身では防ぎようがない不運」 に、いちいち責任を感じる方がおかしい、と思わないか?
責任がないのであれば、それに対して悔しいと感じることもおかしい。  事実は、あくまで事実でしかない。


「お前、どっかのプラグが外れてやしないか?」  そうとも思えるが、冷静に状況を検討すれば・・・・。
「じゃあ、超前向きな性格なんだろう」  それも違う。  私は、失敗の経験は未だに憶えている。
どちらかというと、超後ろ向きな人間だ。  だからなおさら、運・不運を整理する必要があった、判るか?


「つまり、押しつぶされるのを防ぐためか」  的確な表現だ、まさに 「自己防衛」 だな。
「それって他人から見ると、傲慢に見えないか?」  他人をかまってはいられない、が、そう見えるかも。
「話は変わるが、文章を書くという行為も、一種の傲慢ではないだろうか」。


文章は、書き上げて他人に見せるまでは、一切の反論を許さない・・・ある意味、傲慢だろうな。
現実生活で傲慢を発散できないから、そんな人が文章を書く・・・のかもしれない。
そういえば私の過去の文章も、他人に突っかかりはしないが、傲慢の芽はあちこちに・・・・。


「やはりお前は、傲慢予備役だったんだ」  少なくとも他人に隠してはいなかった、それは評価してくれ。

「迷走する瞑想集759」 2017/07/12

福島県郡山市は、本日の最高気温でおなじみの福島市と館林市を結んだ直線上にある。  それでも
「東北は夏でも涼しい」 と判断する根拠を示してもらいたい・・・と絡みたくなるぐらい暑い。
それでも郡山はまだ風がある、福島市とは違う・・・たかが室内で31度Cだ、湿度は45%部屋が乾いて良い。 ←(2017/07/11)


県外からの客に注意しておくが、確かに小名浜は比較的涼しい。  そして小名浜の気温予想が
いわき市の気温予想になっている。  測候所がある関係だろう。  しかし、それにだまされて
JRいわき駅(昔の平駅) に降り立とうものなら、熱気にクラクラするはずだ。  「これは詐欺だ」 そう


いわき市は広い。  その海岸沿いの涼しい値を、いまだにいわき市全体の値として発表している。
ちなみに平の市街地は、海岸から約7km内陸部にある。  だまされた貴方が悪いから、同情はしない。
それでも日陰での涼しい海風は、県の内陸部では絶対に味わえないものだ。  そのかわり、ひなたは・・・・。


愚痴っても涼しくはならないので、これでやめる。  小名浜の悪口を言っても、郡山が涼しくなる訳ではない。
中通りで自然に涼しいところを探すなら、滝根の鍾乳洞にでも入るしかない。  福島県は、クーラーと
暖房器具の両方に金がかかる、やっかいな県だ。  車のタイヤも、夏冬両方そろえなくちゃならないし。


と、すっきりしたところで本題に入る。
社会の木鐸を自認するメディア界が、実は社会を左右する権力を帯びていた・・・という噂話は実に考え深い。
自分は羊のようにあるはずだ、と信じていたのに実は、オオカミの本性を持っていた。
これは、他人事ではない。  しかし私個人で見れば、危険動物の本性には気付いていた。


だから、羊のようにおとなしい演技を自分に強制していた・・・が正解に近い。
だが 「羊の毛皮」 では隠しきれていなかった。  他人に言わせれば 「何を今更」 であろうが
本人は一応そのつもりだったのだ。  さて、ここまで自身の演技力のまずさを見せつけられて、どうする?


俳優業を去るしかないのか?  それでも努力は続けるべきなのか?
努力を続けるべきというのは、いずれ演技が本性を変えるという希な例が、ないこともないからだ。
だが、私にその期待はもう不可能に思える。  では、「羊の毛皮」 を潔く脱ぎ捨てて
「狼の本性」 を丸出しにして生活を続けるか?


私の写った記念写真では、もうすでにそうなっている、と感じられた。  シャッターを押す瞬間
微笑んだつもりが、全然そうなっていない。  もう羊の演技は、自己満足でしかないようだ。
実際の演技に表現できない役者は 「大根役者」 でしかない。  もう役者廃業をするか・・・・。
少なくとも、他人が私を見る目と、自身の認識が一致するのだけは救いだ。 「俺は、狼君だぞ~」。

「迷走する瞑想集758」 2017/07/11

それから同じ同級会で、福岡の豪雨の話が出た。  ホテルの新聞を前に 「何ミリの雨は怖いよね」 と
話だったが、怖いのは総雨量ではなく、降雨強度の方だと説明した。  日本では年間に約1600mmの
雨が降っている。  それでも洪水で騒がないのは、降雨日数が多いからである。  つまり一日にすれば
たいしたことがない。


同じ200mmの雨量でも、それが一日で降ったか四日で降ったかで、被害は全然違う。
短時間に降られれば、排水管も河川もパンクしてしまう。  水が一気に集まるから。
これに時間差を強制的に付けるのが、洪水調節ダムであり山の木々なのだ。  20mmの雨は要するに
2cmしかないのだが、それが降ったらすぐに排水施設や河川に集まり始める。  だから


時間雨量20mmは立派な災害該当雨量なのだ。  それにしても最近の雨は、短時間に集中的に降る。
地下排水管のサイズアップや河川改修が、追いついていない。  「最後は俺たちが、責任を取るんだぞ」 と
河川管理者に背中の入れ墨を見せられた記憶がある。  食料増産が 「国是」 でなくなった時代に・・・。
世が世なら、「それじゃ、国民を飢えさせてもいいのか」 と、逆に机を叩いたのだろうが。

「迷走する瞑想集757」 2017/07/11

福島県には島がない・・・と言うと、知らない人は驚くだろうが、長い太平洋岸の海岸線があっても
島民の住んでいるような島は皆無だ。  だから、連絡船も必要ない。  逆に島根県や広島県や鹿児島県がうらやましい。
だから福島県は、鉄道と車だけで全域を回れる。


ところで先日の同級会で、「猪苗代湖が地震で壊れたら、郡山も藤沼湖のように水浸しになるのか?」 と
聞かれた。  なるほど、まだこういう認識の人がいるのか、と唖然とした。
まず、藤沼湖と猪苗代湖は誕生の経緯が全然違う。  藤沼湖は、人工のため池である。  堤体を造って
水を貯めていた。  その堤体が震災で破壊されて下流に被害が及んだ。  しかし猪苗代湖は天然の湖である。


しかも、裏磐梯の湖沼群のように、火山活動で堰き止められてできたものでもないようだ。  さらに
猪苗代湖から郡山方面には、湖水の水位を強引に引き上げて水を乗せている(安積疏水)。
一方で、会津方面には昔からある日橋川を伝って、自然に新潟まで流れていく。  だからもし
猪苗代湖が揺さぶられて溢れたら、まず間違いなく、会津盆地の方が水浸しだ・・・と私は答えた。


郡山に長年住んでいて、しかも要職にある人がこの認識なのだから、原発の風評被害根絶の道のりは長い。

「迷走する瞑想集756」 2017/07/11

福島県民は 「暑いのは福島市が突出しているだけだ」 と、冷静に構えているが
隣の群馬県になると、県全体が溶鉱炉の中というイメージを持つ人がいる。
実際は、館林市が有名なだけだ。  館林市は、群馬県の南東の端っこである。
一方で群馬県には、高冷地キャベツで有名な嬬恋村がある。  必ずしも、全県オーブンの中ではない。


ちなみに、もう一方の雄・埼玉県熊谷市と館林市とは、直線距離で20kmの近くである。
お隣の県でさえこの程度の認識である。  訪れたことがなければ、吹き込まれたイメージが一人歩きする。
地図を見るのを職業柄厭わない私であっても、あまり旅行などしないから五十歩百歩である。
やはり日本地図帳は、手元に置いておくべきだ・・・学業が終わった後でも。


世界地図帳は、外国映画を見た時の確認に役に立つ。  映画では、その位置を説明などしない。
知ったとて、どうという訳ではないのだが・・・。  ところで、ほとんど福島県を出ず
しかも職業柄県内を転々とした私でも、福島県全域が分かっているわけではない。  まず
南会津町、只見町、檜枝岐村の奥会津が、スッポリ抜けている。  それに、浜通りのいわき市よりも北の
土地勘が全然ない。  大熊町と浪江町のどっちが北かも、時々地図で確認しなければならない。


逆に、自分が事業を持っていた地域は強い。  会津の昭和村から喜多方市までの全域。
郡山市から東の地域。  それに白河市を中心とした県南(県全体の南ではない)全域。  それに
いわき市全域である。  もっとも、いわき市は幼少の頃住んでいただけであるから、町の配置は頭にあるが
新しい道路に関しては全く自信がない。


いかがか?  貴方は、自分の県の市町村と周りの県の市町村の配置が、完璧に頭に入っているだろうか?
それが分かっている人なら、福島県をアレコレ言うのも大目に見よう。  これから全域を回りたい
と計画している人には、「高速道路・国道を使っても数日はかかる」 と申し上げたい。  それも
通過する程度で。  各地域をよく見たかったら、一週間は見てもらわないと・・・・。


県の出先機関(合同庁舎)の数が、県内で7カ所だから。

「迷走する瞑想集755」 2017/07/10

シャーロックは、自分が鼻持ちならない奴に見えるということは認識していた。  ワトソンがしょっちゅう
ツッコミを入れていたから。  一方で、兄マイクロフトをもっと鼻持ちならない奴だと感じていた。
精神上の安全弁は、誰でもが設置している。  これがないと、ノイローゼになる。


では自分のことを振り返ってみて、自身がこうあるはずだと信じている姿と、現実のありのままの見え方とで
食い違いはなかっただろうか?  これが本編の主題である。  有り体に言ってしまうと
隠しておきたい姿が実は隠れてはいなかった、が結論である。  せめて
「おめーは、自分の考えている人物とは違うぞ」 と言ってくれる親友がいたなら・・・。


あるいは自分でも現実の姿は見えていたのだが、わざとベールをかけていた・・・これが近いのかも。
では自分の認識を、どちらに修正すればいいのか?  これが次の問題である。
あくまで理想の姿に拘るか?  それとも、ありのままの姿に一致させるか?  まるでハムレットじゃないか。
とにかくいままで周囲には、望ましくない姿の方をさらしていた・・・これは間違いない。


それでは、その事に対して責任を取る考えはあるのか?  答えはノーである。
自分の性格に対して、自分のいったい何が責任を取れるというのか?  たとえ望んだ性格ではないにしても。
では、ありのままに一致させてしまうのか?  それでは向上は、一切望めないことになる。
では、「自分は、高機能社会不適応者だ」 と自己批判しながら生きるのか?  最近、それもいいと
思えるようになった。


「俺は、実は危ないぞ」 と分かっていればいい、どうせ地が出る時は出る。  これは二重性格者とは違う。
他人の信頼を得るには、二重性格では絶対に無理だ、と若くして悟った記憶がある。
二重性格でも許されるのは、長く住み続けた者だけだ。  短期決戦には、シンプルな方が分かられやすい。
・・・でも他人から見れば、二重性格者に見えるかもしれないな。  これが最終結論だ。


「開き直っただけじゃないか?」 そうとも表現できる。  お粗末な猫かぶりは、いい加減飽きた。
売られた喧嘩は、必ず応じることにする・・・って昔からやってたんじゃ?
家訓に 「借りたものは、必ず返すべし」 とあることだし(嘘だ)。

「迷走する瞑想集754」 2017/07/10

「タバコを吸う人は、そうでない人に比べて病院にかかる率が高い。 だから、多く納税するのは当然だ」
つまり、医療費の補助をより多く使うのだから、「多く税金を取られて、当たり前だ」 の論理である。
つまり、「愛煙家は健康保険料の納付額を、高く設定されているのと同じだ」 の論理。
では、その理論を認めたとして話を進めてみよう。  たばこ税が、厚生労働省に行くかどうかは考えずに。


私たちは病院の会計窓口で支払いをする時、「喫煙者・非喫煙者」 を明示するだろうか?
先の論理では、たばこ税を納めている人は健康保険の給付に対しても優待権がある、ということにならないか?
「多く税金を取られるのは、病院を多く利用するからだ」 つまり、病院ではVIP待遇されて然るべきなのだ。
納めた税金に対しては、当然、利用する際の優先権が与えられて然るべきだ・・・と考えるならば。


しかしもし本当に、たばこ税が健康保険料の充当に使われているのなら、恩恵は喫煙者・非喫煙者の双方にある。
さすれば今度は、喫煙者側からクレームが出るだろう。  「だったら、差別などするな」 と。
「たばこ税を納めるのは、自身が病院によくかかるからである」 であれば、たばこ税の利用権は
まず喫煙者が持っているはずだ。  喫煙者は、税金納付の奴隷ではない。


ここで話が膠着状態になる。  前提のどこかが間違っていた可能性がある。
「多く利用する者は、多く負担して当然だ」 が間違っていたのか?  あるいは
「喫煙者は、病院を多く利用するはずだ」 が間違っていたのか?  喫煙者は、確かに病気になりやすいかも
しれないが寿命が短い分、年金の破綻を防いでくれている・・・といえなくもない。


「それは屁理屈だ!」 確かに屁理屈だ。  喫煙者に、その犠牲的自覚などないのだから。
もし喫煙を続けて長生きしても、それは 「例外だ」 として 「普遍的喫煙者の群」 には入れてもらえない。
一般的見方として、喫煙者とは 「病弱」 でなければならないのだ。  その視線を忘れてはならない。
「タイプ」 から外れた者は、視界から消え去るのだ。  だから、食後美味そうにタバコを吹かしてはいけない。


非喫煙者のイライラを増大させるだけだ。  人前では、麻薬常習者のように病的に吸わなければいけない。
それでこそ、救済運動家はやる気が出てくるのだ。  「ニコチン中毒の被害者」 を演じてやらねば・・・・。
「なぜ高額納税者の我々が、たばこ税を納めない非喫煙者に遠慮するのか?」 その怒りはごもっともだが
健康保険を逼迫させているのは我々なんだとよ・・あれ? 最初は多額の納税は当然だ、って言ってなかった?


結局、たばこ税って何に使用されているの?  健康保険の積み増しでないなら、「健康に害があります」は
嘘なのか?  害になるものと分かっているのなら、当然それに備えるよね。  あるいは
「国内使用禁止」 にするとかさ。  なぜ嫌煙団体は、タバコを撲滅しようとしないの?
「税金を上げて、吸いにくくさせる」 って、実は毒だと思ってないのじゃないの?  それとも


高くてもバンバン吸える金持ちから、速やかに死んでもらおうとか・・・それ一種の嫉妬じゃないのかなあ。
え? 金持ちはタバコを吸わない?  だったら、禁止しても同じじゃないの。  税率上げても
税収は減少するだけだから。  なにか世界的に、反対運動の腰が引けてると思わない?

「迷走する瞑想集753」 2017/07/10

夜にタバコがなくなれば、次の日の朝コンビニに買い出しに行かなくてはならない。  だから
スモーカーは、引きこもりにはなり得ない。  朝が来るのが待ち遠しいが、それまでの間は
シケモクをより分けねばならない。  フィルターの付近にも、タバコの葉は詰まっている。
ご飯粒を残すのが悪いように、タバコも葉たばこ農家の苦労を考えれば、残すのは悪だ。


などと考えながら灰皿を漁るのだが、根が几帳面なせいか、みな同じ長さであって長い吸い残しは
捜索しても見つからない。  短いシケモクは火をつける時、顔に近くてやっかいだ。
ところで酒もタバコもやらない人は、「健康に気をつかう立派な人」 のイメージがあるが、そうだろうか?
酒税もたばこ税も納付していない人が、国家から見て 「立派な日本人」 といえるのか?


タバコで考えてみよう。  一日一箱吸うとして年間で365箱。  一箱440円として、年間で約16万円。
この約60%は税金だから、年間納付額は約10万円になる。  タバコを吸わない人は、この額を
免除されている・・・ともいえる。  この話を非喫煙者にすると、「別のところで納めている」 と強弁する。
別のところとはどこか?  所得税率も消費税率も、非喫煙者が特に重いわけではない。


愛煙家側から言わせてもらえば、「嫌煙者は、脱税行為を行なっている」 になる。  財務省も同じ見解だ。
愛煙家がせっせと納税しているのに、税を免除された人たちがとやかく言うのはおかしいのではないか?
それとも、節税対策を強力に講じている人ほど、「立派な日本国民」 なのだろうか?
もっと言えば、納税拒否者が 「より立派な日本国民」 ということかな・・・。


嫌煙家がタバコの煙の匂いが嫌いなのは理解できる。  私も、食事をしている傍で吸われると味がしなくなる。
人には嫌いなものが、人の数だけある。  香水の強烈な匂いに、我慢のできない人もいよう。
犬や猫が、死ぬほど嫌いな人がいることを私も知っている。  人混みに大型犬を連れてくる行為は
暴力団に脅される行為に等しい・・・と考える人も。  しかしそれらすべてを、我々は正当化していない。


しかし、ペットが好きな人と嫌いな人が確実に存在するのだから、たばこ税の重税化の後に来るものは
たぶん 「ペット税」 であると、かつて私は予言した。  あるいは 「老人税」 かもしれない。
老人は、概して若者や壮年には嫌われているから、賛成者は多いだろう。  そして彼らも
いずれ取られる側に回るのだ・・・とはなぜか考えない。

「迷走する瞑想集752」 2017/07/09

宮本武蔵は巌流島の決闘に、遅刻していったという伝説がある。
相手をじらす作戦だったようだが、これが許されるのは、相手が生き残れない確信がある時だけである。
決闘後に相手がこの世から去ってくれるなら、どんな卑怯な手を使っても後腐れがない。
だが兵法者としてみれば、戦いの場所の状況を前もって把握しておくのが、常道であろう。


実際、佐々木小次郎は刻限より早めに現地に入っている。  礼儀を抜きにしても、これが正しい。
宮本武蔵は決闘に一度も負けなかったそうだが、相手の意表を突く戦法を少なからず採用している。
これはどちらかというと、近代戦の考え方である。  武芸のみの決闘とは、武蔵はもとより考えていない。
相手を倒すためなら 「方法は、使えるものは何でも使う」、使わないで負けるのは無知な相手の方が悪い。


それに、勝ち残れば、取り繕う手段は何かあるはずだ・・・それはそうだ、相手は死んで反論できないのだから。
小次郎の刀より長い小船の櫓を木刀に仕立てたのは、これは秀逸である。  多分より長い刀を作らせる時間が
なかったのかもしれない。  武器は、離れて戦える長い物の方が有利である。  だから女子のなぎなたを
侮ってはいけない。  あれは中国では馬上から敵兵を斬り殺す武器で、三国志の張飛も似たのを持っていた。


短刀で長刀に勝つには、相手の懐に飛び込むしかない。  それが小次郎相手では、難しかったのだろう。
既製の武器で槍もあったのだが、武蔵には習得する時間がなかったのか?  あるいはプライドが許さない?
武蔵の二刀流にしても単に、腰に大小を挿しているのだから 「使えるものは何でも使え」 と考えたのかも。
それぞれの刀に用途がある、などという決まり事は無視することも可能だ・・・武蔵は発想の武芸者であった。


自分が何を最終目的にしているかを明確に持っているから、枝葉などいかように変えても気にはならない。
しかし古来の決闘の作法に則って臨む武士には、武蔵は無作法者でしかない。  そいつに負けるのだ。
「五輪書」 など頼まれても読みたくないであろう。  武蔵にはおそらく 「正々堂々」 の観念がない。
こういう 「勝てばいいのだ」 の主義の人には、結局味方は少ないのではないか?


と、序文を書き終えたところで本題に入る。  「なんだ、長文にする力量がないのか・・」 鋭い。
しかし私は一向に気にしない。  文章を書くこと自体が、楽しくてしょうがないのだから。
ところで、昨日中学校の同級会に出席してきた。  三年間クラス替えも担任替えもやらないという
特異な中学校だったが、私は三年生になる時転校したから、三分の二の影の薄い存在なはずだった。


自分でも、おとなしい目立たない存在に徹していたと考えていたのだが、事実は違ったようだ。
二年生の時に新任で来た先生に、どうやらいちゃもんをつけに行ったらしい。  先生のノートに
ちゃんと書いてある、と宴席で隣に座った先生に小さな声で言われた。  「とんでもない野郎だ!」 と
いまなら非難せずにはいられない、いわゆる 「問題児」 だったことが判明した。


自分の持っているイメージが、いかに当てのならないものであるか、穴があったら入りたい心境だった。
・・・というのは嘘である。  酔いが回ってきた時だったので、ひと事のように 「そいつ」を非難していた。
人間は細胞が替わるように、思考形態も年齢によって変わる。  故に、同一な人間とはいえない・・・という
都合の良い理論をその時はすぐに採用していた。  「ほんと馬鹿だよ、あいつは」 と自分で言っていたのだ。


さらに酒宴の前の挨拶で、その事を話していた。  私は、「だれだよ、そいつは?」 とはやし立てていたが
当の先生は、相当印象に残っていたのだろう。  なにが自称 「目立たない生徒」 だ、聞いてあきれる。
しかし、この生意気な性格も社会に出てだいぶ研磨された・・・と思っているが、たぶん表面上だけだろう。
結局、人の大元はいつまでたっても変われないのか?


転校する時、「いつまでも変わらないでください」 と学生手帳に書かれたが、なんのことはない
そんな心配は杞憂だったのだ。  いっそ 「変われるものなら、変わってみろ」 と書かれた方が
よっぽど当たっている。  経験の引き出しは増えるかもしれないが、家の土台は依然として傾いたままなのだ。
もっとも、引っ越す意思など今となってはサラサラないが。

「迷走する瞑想集751」 2017/07/07

いま日本酒は3パックめにはいった。  なにがって、『奥の松』 がだよ。
と言っても、一度に3パック飲んだわけではない。  いろいろ飲んでみて、『奥の松』 が3パックめなのだ。
味についてはいずれ述べる。  今回は、紙パックの印刷についてである。  四角なパックの


黄色の地の二方向に、福島の祭りが紹介してある。  二本松が多いのは理解できる。  なんといっても
奥の松酒造は、二本松の会社だ。  地元を真っ先に紹介しないわけにはいかないだろう。
「二本松菊人形」 と 「二本松の提灯祭」 が印刷されている。  問題はそのほかだ。


「福島のわらじ祭」 が載っている。  これはいわば隣町(福島市)だ、当然の対応だろう。  次に
「郡山うねめ祭」 が紹介されている。  これもいにしえの主従関係からいけば、当然の処置と考える。
残りは二つ。  「いわきのジャンガラ念仏踊り」 あと一つは当然 「相馬野馬追い」。  以上だ。


あれ? 会津の祭りが全然出てこない。  スペースの問題もあるのだろうが、二本松藩が会津藩をソデにした。
これは一悶着あるではないか・・・と思ったが、会津地方には観光地は腐るほどあっても、全国的に誇れる
祭りは・・・あったっけ?  会津藩侯祭り?  東山の盆踊り?  柳津の虚空蔵尊裸参りぐらいじゃないか。


だから 「福島のわらじ祭」 を削っても、載せるべき祭りが思い浮かばなかったのだ、多分そうだ。
会津は観光地が豊富だから、一大イベントなどやらなくても客は年中来てくれる・・・そう考えているんじゃ?
県内のほかの地域の苦労など、肌身に感じないのだろう。  イベントで人を呼び集めても
所詮その時だけである。  あとの期間は、観光客も何を見て良いのか見当が付かないかもしれない。


イベントは次から次にやらないと、観光客から忘れられてしまう。  役場には、そのほかにするべき仕事が
山とある。  住民が先頭に立たない限り、いずれイベントは消滅する。  住民だってそればっかりは・・・。
そうとなれば、永続性のあるのはブツである。  観光地あるいは観光遺跡。


幸いにしてか福島県は、徳川幕府から明治政府に変わる時の 「ターンテーブル」 を演じている。
最後まで抵抗した者。  早々と寝返った者。  そして明治政府で賊軍と言われ、それでも名をなした者。
あらゆるパターンがそろっている。  まさに転換期のるつぼだ。  政府が変わってそれで
福島県が終わったわけではない。  安積開拓事業は、明治の日本で最初の一大プロジェクトだ。


なんで、よりによって福島県で最初にやったのか?  ほかに適地はいくらでもあったのに。
いま思えば、それが謎である。  福島を慰撫するためか?  まさか、そんな余裕はないはずだ。
士族の反乱を抑えるため?  それで未墾地が多い東北に目をつけた?  それだったら分かる気はする。
北海道よりは、冬でもなんとかしのげるし。  それでも過酷だったんだぞ、入植者は。


しかし東北の入り口の玄関先で初めてやったというのも、ある意味腰が引けている。
大河の周辺にありながら水が水田にかからない、という所は探せばいくらでもあったはずだ。
猪苗代湖という水瓶があったから?  なければ造ればいいだけの話だ。  ため池は大昔から造られている。
そのままでは郡山側に流れない(会津・新潟方面に流れる)湖水を、堰き止め(十六橋水門)までして強引に
反対側に流す。  それまでしなければならないほど、米は足りなかったのか? (我ながらいい質問だ)。


本格的な食料増産政策は、戦後に始まったのではないか?
そうまでして明治政府は、郡山に(当時はなかった) なぜそこまで肩入れしたのか?
有明海の諫早湾を、真っ先に干拓しても良かったのでは?  オランダ人は干拓が得意だろう。
なぜ得意科目を率先して利用しなかったのか?  でも、ファン・ドールンさんに恨みは一切ございません。

「迷走する瞑想集750」 2017/07/07

「鬼も十八、番茶も出花」ということわざがある。  昔の女の子ならこう言われて、少なくとも
怒り出しはしなかったろう。  取りあえず 「きれいだ」 という意味だから。  しかしその一方で
会津地方の方言で、おばあちゃんを 「おばんちゃ」 と呼ぶ。  こうなると
何が何だか分からない様相を呈してくる。  おそらく会津地方では、このことわざは禁句なのかもしれない。


分かったような分からないような話をマクラに、本題に入る。
言葉の定義が双方で違っていたのを気付かないために、握手したくて手を出したら殴り返されるという
ニアミスは大いに考えられる。  さて、「恐喝」 の定義が、シャーロックとマグヌセンで違っていたら
どういうことになるか?  シャーロックは相手に何かを要求して脅しをかけるもの、という捉え方をしている。


一方マグヌセンは、具体的なものは何も要求していいない。  ただ、自分の事業に差し障りのある事に対して
「それは不快だ!」 として脅すのである。  だから、交換条件など、そもそもありはしない。  だから
事が成就しても、「相手の弱み」 を返してやる気などない。  だから、ブツは所持していなくても一向平気だ。
そこをシャーロックは見誤っていた。  交渉などこの悪党には、最初から無意味なことだったのだ。


自分の通り道に他人が邪魔をしていて、「どいてください」 と言うのと、捉え方としては一緒なのだろう。
だから避けてくれたとしても、自分としては当然のことであって、なぜ感謝感激しなければならないのか?
マグヌセンは確か 「私は実業家だ」 と言っていなかったか?  訴訟を挑むのと、何も変わりはないのかも。
・・・というのは加害者の言い分。  狙われた被害者はたまったものではない。  実害が必ずあるのだから。


こういう風にポリシーとして身に帯びてしまった人に、善悪を説いても何の効果もない。
かえって 「自分の道を塞ぐのは、悪に決まっている」 と言い返されるだけだ。
そういう人は、両側が崖で道幅が一人分しかない山道にいる他人にも、平気で 「どけ!」 といえる人なのだ。
逆に、自分が突き落とされるかもしれない、とは微塵も考えずに。


思考回路の当然あるべき部品が、ゴッソリはずれている。  これはシャーロックにもいえることだが・・・・。
シャーロックは 「自分は高機能社会不適応者だ」 と時々豪語するが・・・普通、不適応者と言いたいのなら
もっと恥ずかしそうに言うもんだぜ。

「迷走する瞑想集749」 2017/07/06

よく考えれば、マグヌセンはミルバートンと違って、金品を要求できないのだ。  なぜなら
交換に返却すべき手紙類の 「実体」 を持たないのだから。  脅し続けるか、破滅させるかしか手はない。
ではもし、要求を飲んでくれた有力者に 「さあ、手紙を返してくれ」 と言われたらどうするのか?
返せるはずがない。  だから当人が自殺して効力を失った手紙でも、マグヌセンは返しはしなかった。


これは恐喝としては、おかしな形態である。  普通は、金品なり手心なりが得られれば、恐喝の種は返す。
そうでないと、死に物狂いの報復が待っている。  手心を加えてやっても、ブツが戻ってこないのでは
「あいつ、実は何も持っちゃいないな」 と感づかれる。  弱みのなくなった被害者ほど、怖いものはない。
一時は自殺まで考えていたであろうから。  まして有力な被害者ばかりなら、警察でも闇の勢力でも使いうる。


マグヌセンは、決裂した場合の対策はできていただろうが、要求が通った場合の対策を考えていたのだろうか?
「あとは、この件に関して持ち出すことはありません」 の口約束で、被害者は納得するだろうか?
つまり、永遠に不安にさせておく・・・そういうことか。  「私に手を出すと、その時は・・・」
知られと困る秘密だから、被害者同士で情報を交換し合うなんてこともないだろうし・・・・。


いない間に家捜ししても、何も出てこない。  そして脅しはエスカレートする。  「貴方、私は
分かってますよ」 と。  ミルバートンの古典的な恐喝とは、明らかに違う。
いわば 「心理的な恐喝」 とでも呼べそうな、実体を持たない恐喝である。  ガサ入れされても
何も出てこない。  だから恐喝は立証できない、たとえ被害者が警察に駆け込んでも。


するとやはり、マグヌセンの恐喝の肝は 「実物を持っている」 と被害者に信じ込ませる技術にあろう。
この幻術が効かなくなったら、身の破滅である。  しかし一度は問題の手紙を見たはずである。
でなければ、被害者にあれほど克明な脅しはかけられない。  では、読んだ手紙はどうなったのか?
焼却したのか?  溜まりに溜まって、自分の居場所がなくなるから。  さすれば彼は、転勤族の鏡だ。


「引っ越す時に持って行けないような財産は、持つべきではない。  それから言えば、知識が
いちばん身軽である」  う~ん、いい言葉だ。  パソコンは、古くなれば交換してもかまわない。
どこに行っても役に立つのは、操作技術である。  これこそ私がパソコンを替える時の、座右の銘だ
(あるいは屁理屈とも)。  私とて、まだ使えるものを替えるのは、ハムレット以上に悩むのだ。

「迷走する瞑想集748」 2017/07/06

新聞屋恐喝王・マグヌセンがシャーロックの部屋に来た時に、面白いことを言っている。
曰く、イギリス人は従順でおとなしいから、ここで成功した方法はほかでも使える。(『最後の誓い』)
しかし私に言わせれば、そんなことを信じているから、最後に不慮の弾丸で死ぬことになるのだ。
冷徹なようで、いまいち考えが甘い。  日本人で成功した占領政策が、ほかでうまくいった試しがあるか?


方法を試すなら、順序が逆である。  もっともエキセントリックな国で試行してみて、それでうまくいけば
ほかのどの国でも問題なく使える・・・のではないだろうか?  あれでよく今までやってこれたと思う。
実際は 「おとなしいイギリス人」 の英国でしか、活動ができなかったのではあるまいか?
いつ拘束されるか分からない物騒な国では、下手に権力者を脅すことなどまず不可能だろう。


それとは別に、恐喝の種をデータ化もせずに 「知識」 として、頭の中にしまっておくのはいい方法である。
それには二つに条件がある。  一つは、具体的証拠物件がなくとも力になり得る 「メディア」 であること。
二つめは、具体的物件(手紙等) が現存すると、被害者に信じ込ませることである。  それを怠ると
シャーロックがしたように、突然頭を打ち抜かれる羽目になる。  だから警備体制は強固だった、のだろうが。


だからマグヌセンは、二つ目のミスを犯した。  恐喝の種が 「現存しない」 と言ってしまったことである。
せめて、「外国のどこかに保管してある」 とでも言えば良かった。  あまりに有頂天になりすぎたのか?
シャーロックに己の偉大な能力を、見せつけたかったのだろうか。  とすれば、ただの記憶力のある恐喝屋だ。
一作のみで、生涯を終えるのもやぶさかではない。  確か原作でも、ミルバートンは一作で死んでいる。


彼の場合は、手紙類を金庫にしまってあったが、シャーロックに開けられすべて燃やされている。
「恐喝」 を完遂することの難しさを表わしている。  交渉が長引くと、恐喝者はだんだん不利になる。
被害者も、こちらの情報を徐々に得てくるから。  金庫のある自室で交渉するなど、もってのほかだ。
だからマグヌセンは、機先を制してシャーロックの部屋にわざわざ来たのだ。  謎が多いほど有利だから。

「迷走する瞑想集747」 2017/07/05

シンデレラが白馬の王子に追いかけられたのは、城の舞踏会があったからである。
城の舞踏会があったのは、魔法使いのおかげではない。  ほんの偶然である。
それでは、なぜシンデレラが白馬の王子に追いかけられる羽目になったか?
それはシンデレラが、唯一のチャンスを逃さなかったから。  勿論、魔法使いのサポートは不可欠だが。


私が何を言いたいのか、女性の読者に分かっただろうか?
すべては、計画通りに運ぶものではない。  しかしながら唯一の好機を手にするか、あるいは逃すかは
すべて本人の判断にかかっている。  おそらくシンデレラにとっては、生涯に一度のチャンスだったろう。
その舞踏会に、万難を排して駆けつけた。  王子の顔もまだ見ていないのに・・・・。


いい度胸である。  イケメンであると勝手に想像していたのであろう。
もしブサイクだったなら、忘れた靴の履き主調査には応じなかっただろう。  そのぐらいの計算はしていたと
考えられる。  なんせ、チャンスを絶対に逃さない女だ。  シャーロックのアイリーンのような女か?


こんなことを言っては夢を壊す。  しかしチャンスというものは、通り過ぎてゆくものだ。
待っていてはくれない。  掴みかからなければ、それまでだ。  ただし成功する保証は必ずしもない。
だからシンデレラはたいしたものだったのだ。  普通は容姿に自信があるだけで、あんな場所に出て行かない
まして下層の平民の身では。  それだけ 「自身」 に対する自信が、あったのだろう・・・あっぱれだ。


これに匹敵するのが、原作にはないモリーである。  かつてはモリアーティと友達になり(知らなかったが)
クリスマスではクソミソに言われ、物足りない婚約相手と結婚式に出席し、あげく婚約指輪を外した手で
シャーロックに往復ビンタを食らわせる。  これはモリーの 「おしん」 物語では、と感じる時もある。


モリーは、一度相手にロックしたら容易なことでは照準を外さない、ある意味女性らしくない女性である。
現実的な妥協というものを、モリーはことごとく無視する。  これで、シャーロックと結婚などしたら
いったい何百回往復ビンタを食らわせるのだろう?  自分は、シャーロックのためだと固く信じている。


幸いモリーは、バレーボールやボクシングをやってないからいいようなものの、名探偵の顔が年中
腫れ上がっていたのでは、新聞社も困るだろう。  モリーは信念の人だ、結婚すれば必ずやる。
麻薬で、タバコで、アルコールで・・・・。  大いなる係船柱(ビット)・・・これは幸せなのだろうか?


またもやシャーロックは、危険地帯に出かけていきそうな気がする・・・・。
・・・支離滅裂なのは、麻薬ではなく日本酒 『奥の松』 を飲んだ上でこれを書いているからだ。
『奥の松』(2L紙パック入り) は、今のところ安くて最高に味がいい。  金さえ出せば
もっと美味いのは、いくらでもあるのはあるが・・・・。

「迷走する瞑想集746」 2017/07/05

自分の行動の予定を予定表に記載しておくのは、慎重な人である・・・はたして、そうだろうか?
自分の予定を決めた時最初にすることは、それを自分の頭に記憶しておくことである。
しかしそれだけでは不安だから、予定表 「にも」 記載しておくことになる。
いわゆる安全策である・・・ではあるが、はたしてそうなるだろうか?


予定表に目を通すのは、そこに何かが書かれているはずだと覚えているからである。
白紙の予定表なら、誰もチェックなどはしない。  その日の予定は何もない、と誤認している人がわざわざ
その日の予定をチェックするだろうか?  忘れっぽい人に、予定表は 「安全弁」 にはなり得ないのだ。


待ち合わせの約束をしているなら、「その時刻の直前に督促の電話を入れる」 これに尽きる。
たとえ 「私を信用していないの?」 と険悪なムードになったとしても、永遠の待ちぼうけよりはいい。
忘れている人には良心の呵責など皆無なのだから、何も言わず引き上げてしまうのも手段としては考えられる。


シャーロックをずっと見てきたが、こういう 「うっかり」 な登場人物が見当たらないのは好感が持てる。
シャーロックが神経質なぐらい電話で催促するのも、影響しているであろうが・・・・。
よくメモをとるのはワトソンぐらいで、あとの登場人物はみな頭にたたき込む。  これは見ていて気分がいい。


だから筋の運びに、スイッチバックがない。  判断を間違えてループしても、同じ地点にループはしない。
確実に列車の位置が上昇している。  収録時間にもよるだろうが私は、筋の後退だけは見ていて不快である。
せめて虚構の世界だけでも、「忘れっぽい人」 にはいてほしくない。  いかに現実離れしていようともだ。

「迷走する瞑想集745」 2017/07/05

兄マイクロフトと弟シャーロックの年の差は、七つだと特別番組で言っていた。
毎日が記憶に残り始めるのが三つ頃だから、そのとき兄は十歳である。  これだけの差があれば
「お前は馬鹿だ」 がシャーロックの記憶に残っていても、何ら不思議ではない。


おそらく小学生であった兄は、弟の面倒を見たはずである。  しかし、そういう親切を弟はまるで忘れて
なぜか 「お前は馬鹿だ」 と言われたことだけを覚えている。  つくづく兄は損な役目だと思う。
だから弟に対する時、いつも皮肉たっぷりな話し方をするのだ・・・と思う。


普段電話のやりとりさえないというのも、分かる気がする。  話をすれば最後は口論になるというのを
両方が痛切に知っているから。  別に、殺したいほど憎んでいるわけではない。  しかし、極力話をしない。
ワトソンなら気楽に話ができるのに・・・。  いちばん意見の合うのは、マイクロフトのようなのだが。


仕方のないことだが、常に教師的目線で話してくるのも癪に障るのだろう。  「僕はもう子供じゃない」
つまり、いつまでも兄貴面するなと言いたいのだ。  しかし兄と弟の関係というは、永遠に解消不能なのだ。
いかに肩を並べても、兄は弟の面倒を見ないわけにはいかない。  しかし弟には、その責務が免除されている。


それでも、兄だからまだ良かったともいえる。  これが姉だったら、永遠に子供扱いされるだろう。
第二の若い強力なママが出現したようなものだ。  ましてシャーロックの性格があんな風だから・・・・。
そのうえ姉は、シャーロックに負けず劣らず頭がいいであろう。  シャーロックが興味を示すのは、みな
そろいもそろって頭のいい女性である。  姉がけっこう美人であったなら、アイリーンさえ不合格になる?


結論として、ゴッホ兄弟のように弟(テオ)が献身的な例は、極めて希なのではあるまいか。
・・・という意見はあまりにも兄目線である、と反論が出そうな気がする。
確かに 「弟よ、もっと大人になれ」 というため息は、兄の独占使用フレーズではあるが・・・・。

「迷走する瞑想集744」 2017/07/04

たとえば陸上の100m競技で、一着と二着の選手が世界新記録を出したとしよう。
一着の選手がうれしいのは分かる。  問題は二着の選手である。
「世界新記録を出したことを喜ぶ」 のか、「二着に甘んじたことを悲しむ」 のか?


陸上競技とは面白いもので、ほかのランナーとともに記録とも競走している。
一着の選手はこの両方を手にしたのだから、うれしからざる訳がない。
二着の選手は世界新記録を手にしたが、二位だったために最高記録とは見なされない。
自国の新聞は褒め称えるだろうが、はたして内心はどうなのか?


おそらく、勝者であって敗者であるという、一種複雑な心境なのではあるまいか?
たとえ歴代で二番目に早いランナー・・・であったにしても。
こういう二重競走の競技は、勝ち・負けのはっきりした競技より親切なようでいて、罪が深い。


一緒に走ってもいないランナーに、記録上で負けるというのはなにか釈然としない。
「記録など採るからいけないんだ」 と言いたくもなる。  先にゴールした方が勝ち、でいいじゃないかと。
でないと、平凡な記録だが優勝した選手の立場がない。  100m競走は無論身体能力の競技だが
駆け引きが全く存在しないかというと、そうでもないらしい。  だったら


目の前のゴールに一番で飛び込めば、文句なく勝者である・・・これで何が悪いんだ?
もし連戦連勝で世界中に敵がいなくなった時は、仕方ない、記録と競走するのもやぶさかではないが。

「迷走する瞑想集743」 2017/07/04

碁や将棋それにチェスなどは、運が一切影響しないゲームと言われているが、はたしてそうだろうか?
ゲームのルール上で不確定要素は、先手・後手を決めるときぐらいで
後は棋士の駒の動かしかた次第である。  だから、機械とも対戦できる 「思考力のゲーム」 なのだ


しかし大事なことを忘れている。  いずれの種目も、生身の人間同士が対戦するという点だ。
そして個人の内部には、いろいろな不確定要素が渦巻いている。  それら一切を、自身で黙殺できるのが
プロ棋士たるゆえんであろうが、問題は完全に滅却できるかどうかだ。


たとえば対局で盤上の戦いのほかに、心理戦が展開されることはないのだろうか?
相手の自信満々な様子は、駒の動きとは何の関係もないのだが、こちらの焦りを誘発しないだろうか?
焦りは、自分の一手を誤らせないだろうか?  何の邪魔も入らないアイススケートやゴルフにおいても
ライバルの見えざるプレッシャーはあると聞く。  自分でそれらを遮断できるにもかかわらず。


これが人間同士の競技の面白さである。  たんに技量だけで勝敗が決まるなら、対戦するまでもない。
少しでも強い方が必ず勝つ・・・それだけだ。  逆転勝利などあり得ない。  しかし実際はあり得る。
世界トップクラスの選手でも、不調なときがあるように。  不調の原因は、プレーの足を遠慮なく引っ張る。


いかに自己管理していても、好不調の波は必ずある。  波高をより小さくするのが一流選手なのだ。
そんな生々しい戦いの場に、機械ごときがしゃしゃり出てきても場違いなだけだ。
どっちが強かったかを知りたいだけなら、試合結果を見ればすむことである。  長々と中継する必要はない。


途中経過の駆け引きの模様も見たいから、プレーの最初からの中継が存在するのだ。
人間が機械に絶対に勝てなくなっても(あらゆるゲームでその可能性はある)、あらゆるゲームは滅びはしない。
それは、人間という不確定要素満載の相手とプレーするから。  強い者がいつも勝つ・・・とは限らない。


しかし長い目で見れば、強い者の方が勝率は確実に高くなる。  でなければ、強くなる意味がない。

「迷走する瞑想集742」 2017/07/03

「今日は朝から雨がぱらついている。 だから、わざわざ床屋に出かけてゆく客は、ほとんどいないはずだ。
だから私は、今日、床屋に行こうと思う」  読みとしてはなかなか良い。  惜しむらくは
同じく考える者が、少なからずいるということだ。  そして床屋で、鉢合わせしてしまう。


同じことが床屋で、もう一つある。  床屋は毎週月曜日は休みだ、これに例外はない。
そして、月の第二、第三火曜日が休みでもある。  組合の取り決めだそうだ。  さて、特定の火曜日が
休みだということをみんなが知っていても、第一と第四火曜日に出かけてゆくのは勇気がいる。
間違えてもし休みだったらシャクだ。  だから第一と第四火曜日も、できるなら外して、水曜日に行く。


「だから私は、すいている第一火曜日にこそ床屋に行こう」 と考えたなら、拍手を送りたいが
現実は同じことを考える客が、わずかながらいる・・・としたら、またもや床屋で鉢合わせだ。
これは、人と違うことを考えることの、さらに一段深い 「はたして、他人が考えないか?」 の思考である。


株屋はこれの時間差を利用する。  いずれ自分の考えることは、他人も考える。  そうなれば一斉に
株の売買に弾みが付く。  その前のわずかな時間を利用して、大金を儲けるのだ(と思う)。
結局、床屋の読みとしては、月曜は当然休み。  火曜は、休みの時と上述の隙間狙いが必ずいる。


水曜は、何の心配もなく床屋に行けるから、いわば週の最初だ。  当然、普通の客で混むはずだ。
金曜は、土日曜日の休みの前日。  レクリェーションの前に、床屋に行きたいと思うかもしれない。
土日曜は、みんなが出かけて床屋は暇なはずだが、普通の勤め人は休日しか床屋に行けない。


しかして私は、いちばん客が少ないと勝手に推理して、木曜日に床屋に行くことにしている。
しかし・・・同じ予想を立てるものがほかに絶対にいない、という保証はない。
何も考えずにたまたま木曜日に床屋に来た、という客だっているだろうし。


実際は、頭を痛めることなど無用なのだろう。  前の客が一人なら、余裕で待っていられるし
二人以上なら、日を改めて出直せばいいのだから。  要は普段の生活で、競馬や麻雀などの博打を
やっていると同様なのだ。  推理しながらも外す・・・という、どうしようもない博打打ちを演じて。


だから、ゲームの博打にまで手を出してみたいとは思わない。  現実生活が、すでに博打なのだから。

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