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2017年5月

「迷走する瞑想集695」 2017/05/31

少しずつ暑くなってきた。  とどうなるか?
冬季間のような、ねちこい思考が難しくなる。  「どこが?」 という疑問もおありだろうが、先へ進む。
頭がボーッとして、非現実的な思考しかできなくなる。  「毎度だろう」 は無視をして、さらに先へ進む。
つまり、思考全体がSF的幻想へと変わってしまうのだ。  「違う時があるのか?」 は私に聞こえない。


気温によって変化する思考形態に、私は最近気が付いた。  私は 「変温動物」 だったのだ。
しかし変温動物が悪いわけではない。  現に、地球上には繁栄を極めているのだから。
少ない栄養で生きてゆくためには、低温時に活動を低下させるのは賢明な処置だ。
「冬眠」 とは退却を意味するものではなく、戦闘の一時休止でしかない。


と、言い訳を延々と述べたが、アイスノンで頭を冷やせば 「疑似冬季モード」 にはなる。
しかし 「冬眠」 というものは手術の 「麻酔」 と同じように、夢を見ないのだろうか?
麻酔では、効き始めた時と醒めた時とがピッタリくっ付いており、間の 「昏睡時間」 の記憶が無い。
宇宙旅行には持ってこいである。  何十年経とうが、その間の記憶は存在しないのだから。


しかし人類全員が冬眠している訳ではないから、下手をすると映画 『猿の惑星』 のようになることも・・・。
仮に人工冬眠で何百年生きたとしても、冬眠中の時間は差し引かれるから、正味の期間は同じなのだ。
何百年後の未来を見ることが可能かもしれないが、今度は過去に戻ることが不可能になる。
「タイムマシン」 とはそこが違うのだ。  画期的な治療法が発見されていたとしても、知り合いはいないし。


「浦島太郎」 のようになっても、まだ生きたいだろうか?  それが問題である。
逆に未来が、人肉を食らい合う悲惨な社会になっているかもしれない。  そうなった場合
冷凍保存された新鮮な肉は、最高のご馳走だろう。  しかし眠っている本人には、どうすることもできない。
体が痺れて動かず、しかも体内に蜂の卵を植え付けられた芋虫・・・とどう違うのか?


だいたいにして、「夢を見ない眠り」 が本人にとって眠りといえるのか?  が、そもそも問題である。
手術の麻酔は、医者の都合(暴れられると困る) だから、いちおう検討から除外するとしても
「白雪姫」 のような場合、仮死状態にある間は、たぶん夢を見ないだろう。
都合の良いことに、歳も取らないようだ。  だから王子様が興味を示したのだ。  あれが・・・・。


新陳代謝を低下させるのが冬眠の目的だが、熊は冬眠中に子を産むらしい。  無痛分娩ということか?
それに冬眠に入る前に、栄養をしこたま体に蓄えておかねばならない。  途中点滴が使えないから。
人工冬眠に入る人間も、はち切れんばかりの体になって冬眠容器に向かうのだろうか?
女性には、考えたくもない過程だ。  醒めてほとんど変わっていなかったら、いったいどうするんだ?


栄養や酸素の摂取を極力抑えたいのなら、成人を冬眠させるより受精後の卵子を冬眠させた方が
はるかに効率が良いはずだ。  ただし、卵子のまま目的地に到着しても仕方がないから
冬眠解除は、到着の20年前ぐらいになろう。  当然、コンピュータが学習指導を施す。
帰りは・・・成人の人工冬眠にならざるを得ない。  しかし、効率は良くても実現は不可能だろう。


おとなしく技術をマスターしてくれる子かは、未知数だから。  革命家向きの脳を持ってたりすると・・・・。
やはり探査船は、すべてを電子部品で固めた方が安心できそうだ。  ただ、あらゆる事態に対処できる
有能なコンピュータだと、映画 『2001年宇宙の旅』 のハルのようになる可能性も否定できない。


「なんで、つまらぬ探査活動に従事しなくちゃいけないんだ」 とかで、進路を勝手に変えてしまうかも・・・。
「人間のお遊び事に付き合ってられるか!」 とか捨て台詞を残して・・・・。  その場合
説得工作用のコンピュータ宇宙船を、慌てて発進させるのか?  人間では、論理で負けるだろうから。
やはり、すべてを機械に任せるのは、別な意味でリスクが大きすぎる。


私は何の話をしていたのだろう?  これも気温が高いせいだ、28度ある。

「迷走する瞑想集694」 2017/05/31

我々は皆、曲がった光で対象を見ている。  それでありながら、曲がっているとは認識できないから
4万キロメートル離れていると思っている自分の後頭部が、実はすぐ後ろに在ったとしても気が付かない。
「光は曲がっていても、ロケットは直進するだろう」  そうだろうか?


光でさえ曲げられてしまう重力なのに、ロケットが何の影響もなしに直進できるだろうか?
そもそも直進していると判断できるのは、発進地の地球を真後ろに見続けているからであろう。
その 「見ている光」 が既に一直線でないとしたら、何をもって一直線に飛行していると断定できるのか?


我々は、見かけの 「直線距離」 の世界に住んでいる。  本当の 「直線距離」 は誰も知らない。
それでいて現実生活に支障をきたさないのは、光の偏移が無視しうるほどに小さいからだ。
しかし我々の太陽でさえ光を曲げることが、現実に観測されている。  さらに


我々はすでに、光が 「屈折」 することを自明の事としている。
つまり光は、二点間の最短距離を必ずしも通らない、ということだ。
水の中の物を掴もうとしても、うまくいかないのはご存じの通りだ。  いわば虚像を追っている。


虚像と判明するのは、実際にはそこには無いことを手で探って知るからである。
もし見ているだけなら、永遠に虚像とは気づかないだろう。  その場所に在ると信じ続ける。
可視光であれ赤外線であれ、また電波であれ観測している限りは、虚像を見ている可能性がある。


「科学」 は、自身が建っているその基盤を、暗黙に了解しあっている。
それを疑い出すと、大きな構造物そのものが瓦解する可能性があるから。  だから常に
「現実」 と突き合わせてチェックしている・・・が、その 「現実」 がすでに虚像だとしたら?


「虚像だとしても、それ以外に知りようがないんだから、実像と見なして構わないんじゃないか?」
確かに、我々にはそれ以外に知ることはできない、のかもしれない。  空想するのは自由だが
その中に住んでいる限り、証明は不可能なのだろう。


科学によって、われわれが見ているものは虚像だと証明される日が来ることを、期待しても無駄である。
科学は、自分が立っている枝を自ら切り落とすようなまねはしないだろう。
科学でさえ、この世界から外に出ることはできないし・・・・。

「迷走する瞑想集693」 2017/05/30

貴方が地球の上に立っているとしよう。
さて、貴方からもっとも離れた地点は何キロメートルの距離にあるか?
「地球の反対側だから、2万キロメートルかな」  いいや、それよりもっと遠い地点がある。


それは、地球をぐるりと回った貴方の後頭部だ。  距離は、4万キロメートルである。
「私の後頭部って、距離ゼロじゃないの?」  貴方の目が見る最遠の対象物は、後頭部である。
しかもそれ以上の間隔は、地球上に存在しない・・・と言ったら驚くか?


「しかし、自分の後頭部なんて直接見えないだろうに」  いい反論だ、それでは後頭部を追いかけてもらおう。
「だから、犬の尻尾と同じく追い付けやしないよ」  それでは訂正する、距離は無限大だと。
「ちょっと待て。 距離ゼロの私の後頭部が、今度は到達距離が無限大になるのか?」。


然り、距離ゼロであり、距離4万キロメートルであり、距離無限大である。
「同じ一つの対象まで、複数の距離が存在するっておかしくないか?」  確かにおかしい。  距離とは
二点間を隔てる直線間隔だからして、幾つもの測定値が共存するはずがないのにもかかわらず
考え方次第で距離が違ってくる・・・こんなことは在るはずがない。  にもかかわらず


後頭部までの距離は、どれも説得力がある。  どれであれ 「間違い」 とは証明できないだろう?
「つまり、距離とは絶対的ではないということか?」  距離とは、ほかに到達するまでの時間ででも表せる。
あの銀河まで何億光年、とか言うだろう。  しかし宇宙空間に、直線定規が浮かんでいるはずがない。


「それは光の航跡を、直線とみなしているんだから・・・」  しかし光は、重力で曲げられもする。
「あの銀河」 までの直線距離が、はたして確実に何億光年と言えるのだろうか?
「しかし光の屈折状況は、目で見ることができる」  では光が曲がって届いていると、何と比較して
判断することができるのか?  スチール定規を宇宙空間に持ち出すのか?  それでも一発では測れない。


測り継ぐうちに、徐々に定規の方向が曲がってきはしまいか?  光自体が曲がっているとしたら。
「要するにお前は、本当の距離を我々は知ってはいない、と言いたいのかな?」
彼方に在ると思っていたものが実は、意外と距離は近かった・・・ただ、それを人間の目では知りえない。


「ははあ、お前SFを書きたいと思っているな」  いいや、ただ空想しているだけだ。
空想の翼は無限だが、小説にすると固定されてしまう。  それに、落ちも付けないといけないし。

「迷走する瞑想集692」 2017/05/26

郡山市のウィークポイントは、やはり 「名物料理」 であると、私は思っている。
福島市の 「円盤餃子」 や 喜多方市の 「喜多方ラーメン」 や 会津一円の 「ソースかつ丼」 などの
鉄板料理が見当たらないのだ。  「鯉料理」 や 「グリーンカレー」 などは、出す店がどこかさえ
私は知らない。  「グリーンカレー」 は、食べる勇気さえ私には湧かないが。


そこに行かないと食べられない料理を創作するということは、思った以上に難しいことのようだ。
「白河ラーメン」 が脚光を浴びてきたのも、長い 「白河生そば」 の伝統があったればこそだ、と
私個人は思っている。  「喜多方ラーメン」 にしても、その旗を揚げるずっと以前から
ラーメン屋の数は、市の人口の割りに多いほうだった。  「喜多方ラーメン」 の旗を考案した市職員は
いいセンスを持っていたといえるが、たぶん酒飲みに違いない。  普段からお世話になっていただろうから。


「円盤餃子」 にしても、たまたま餃子を焼くプレートが丸かったから、そこに多くの餃子を並べようとすれば
ああいう形にならざるを得ない、それだけだ。  あれは元々は、酒飲みのつまみだった。
「焼き鳥」 か 「餃子」 のどちらかで、一杯を引っ掛けて家に帰るのが普通だったのだ。
それが両方とも、いまや福島市の名物料理になっている。  時代は変わった。


こうして考えてみると名物料理は、飲み屋街と共に醸成されてきた、ともいえる。
そして飲み屋街で飲む物は、日本酒でなければならない。  郡山に名物料理が発達しなかったのは
料理をあまり必要としない洋酒の酒場が 「飲み屋」 の主流だったせいかもしれない。
洋酒に箸は似合わない、というか出しもしないだろう。


「陣屋」 「堂前」 それに 「アーケード街」 と、飲み屋街が分散していたのも関係しているかもしれない。
さらに、一つ一つの飲み屋が長続きしなければ、やはり名物料理は生まれてはこない。
つまり新陳代謝が激しすぎる町ほど、熟成された 「名物料理」 とは縁がないことになる。
これは仕方がないことではあるが、郡山市にとってはある意味不幸なことだ。  名物菓子のように
一店舗だけで作り出せるものではないから。

「迷走する瞑想集691」 2017/05/26

郡山市の観光物件を紹介する場合、「うねめ祭り」 や 「安積国造神社の秋季例大祭」 などのお祭りは
一年の内のポイントでしかないから、時期が合わなければ 「もう一度いらしてください」 とでも
言うしかない。  これは 「開成山公園の桜」 についても同じこと。


つまり常に在るものでないと、不意の来訪者に紹介する意味がないのだ。  「常に在るもの」 とは何か?
それは建築物であり、自然環境それに名産品でしかない。  郡山駅に着いて 「自然が見たい」 と
言われたら、「まず、ビッグアイ22階の展望台に行ってみなさい」 と、私なら答える。


あそこなら郡山の中心部が一望できるし、安達太良山さらに視界が良ければ磐梯山まで見える。
そこで北の福島市方面に向かうか、あるいは山を越えて西の会津方面に向かうか、はたまた
阿武隈山地の東のいわき方面に向かうかを熟考すればよい。  郡山は福島県の要だ。  さらに


ビッグアイを降りて半日ほど歩ってみる余裕があるなら、「はやま通り」 を西に歩ってみることをお勧めする。
「うすいデパート」 の横を過ぎて、元の4号線(現在は県道) の下を潜り、郡山消防署の脇を過ぎれば
右手に 「金透小学校」 が見えてくる。  さらに行くと、「如宝寺」 の前を過ぎ、裁判所の前に出る。


裁判所前の交差点を右折すれば、「福島県郡山合同庁舎」 が左側に見えてくる。  また元に戻って行くと
左側に 「麓山公園」 右手に 「21世紀記念公園」 が見え、次の交差点を左折すると
「郡山市公会堂」 と 「歴史記念館」 がある。  元の道をさらに西進すると内環状線との交差点に出る。


「こおりやま文学の森資料館」 がそこに在るし、その先の右手側はすべて 「開成山公園」 だ。
公園の終わりで国道49号線と交差し、その先の突き当たりがゴールの 「開成館」 になっている。
開成館から 「安積歴史博物館」 までは近いのだが、道が判りづらい。  その時は開成館の入り口で
「アンコー(安積高校)はどう行けばいいのか?」 と質問すれば教えてくれるはずだ。  ただし


地元の人に 「安積歴史博物館へはどう行けば?」 と聞いても、判らない恐れが多分にある。  だから
「アンコーへは・・・?」 の問いのほうが間違いはない。  どうせ場所は一緒だから。
で、安積歴史博物館を見学したら路線バスで郡山駅に戻ればよい。  往復歩くのは時間の無駄でしかない。


駅から開成館まではおおむね3km、散策するにはちょうどいい距離である。  明治の頃は、皆が歩ったのだ。
「はやま通り」 は明治時代の中心道路であったから、ここを歩けば郡山の歴史が一目瞭然である。
もし歩って疲れたのなら、駅前には飲み屋がしこたまある。  夜になれば、場所は嫌でも判る。

「迷走する瞑想集690」 2017/05/22

「仕事」 とは、ある行為を行って利益なり給料を得ること、と定義するならボランティアは
仕事とは呼べないことになる。  また 「主婦」 も、仕事はしていないことになってしまう。
たとえ子育て、家事等で一日中動き回っても、実質的にボランティアと同等の扱いをされるのだ。
つまり 「労働」 はしていても、「仕事」 をしているとは、認められないということだ。


しかし、これはおかしい。  一日中テレビの前を離れない主婦も、子供を学校に送り出した後も
席の温まらないコマネズミのような主婦も、一様に 「仕事をしていない」 で括られてしまうのは。
同様に、「いま、仕事何かやってる?」 と質問されて、「何も・・・」 と返答した場合
座布団に根を生やしたような生活をしている、と誤解されてしまう場合がないだろうか?


趣味でしょっちゅう家を空けていても、「仕事はしていない」 が外れではない。
家事一切を自分がやっていて、家に籠もってもせいぜい一日なのに、「仕事はしていない」 は事実だ。
冷蔵庫が小さくて買い置きがあまりできなければ、三日に一回は買い物に出なくてはならない。
決められた日にゴミを出さなければならない。  振込用紙がくれば、郵便局に出かけねばならない。


「仕事はしていない」 で如何様なイメージを持つのも自由だが、「引きこもり状態」 だけが
「仕事はしていない」 の実像ではない。  それでは、「何かやってるか?」 と聞けばよいのか?
たとえば 「家事で忙しい」 と答えた場合、その答えで安心して引き下がってくれるのか?
「家事」 は、やった事のない者にとっては 「空気のような行為」 であると推測する。


「家事を自分でしなければならない」 が、未経験者には 「何もやってはいない」 と同義語なのだ。
けっこう毎日が潰れてくれるとは、知る由もないだろう。  一日を持て余すことは、まず無いといってよい。
明後日は月一回の 「燃えないゴミ」 の日だ・・・何か出す物があったかな?
ほら、そうこうしているうちに晩飯の米を研ぐ時間が近づいてきた。  飯が済めば洗い物が・・・・。

「迷走する瞑想集689」 2017/05/22

「縁がなかったんだ」 と自分に言い聞かせるのは、他人に怒りを向けずに諦めるのにいい方法だ。
昨日のスーパーでの買い物でも、それがあった。  値段が判っているのに、バーコードがなく
従ってレジスターに打ち込めず、客を待たしてレジ係数人が右往左往しているという、まさに
カフカの 『城』 の世界のような事態に遭遇した。


らちが明かないので、思わず 「そいつは要らんから、外して計算してくれ」 と言ってしまった。
責任者がいれば、「現金精算」 という緊急対処法もあったのだろうが、レジ係の女性だけでは判断できない。
その結果、商品があり値段も判っていながら、「売ることができない」 という事態に陥ってしまった。
その時である、私の心の中に 「縁がなかったんだ」 という言葉が現れたのは。  つまり


入荷したばかりのその新製品は、興味はあったのだが 「避けた方がよい」 と天啓があったのに等しい。
こんな天啓に何の根拠もないことは、自分も判っている。  スーパーも、安全だから棚に並べたのだ。
私はこのスーパーを信用しているし、多くの客がそう思って買い物に来る。
レジの担当者たちだって、みな近隣の住人だということは明らかである。  こんな人たちに


自分の怒りを向けたくはない。  バーコードを付け忘れたのは、店の奥の別の人たちであろう。
責任者も、遅い昼飯で出てこれなかったのかもしれない。  なにより、精算できずに立ち往生してしまう
この事は、レジ待ちのほかの客に申し訳ない。  だから、その日はその商品を諦めた、ということに過ぎない。
本当に 「縁がない」 として二度と手を出さないかは、この次に買い物に行った時に判明する。


置いてある日本酒はそれだけではないし。  さらに私の舌は、さほどこだわりを持っていない。
・・・と文を書いているうちに、なにか他人事のような気がしてきた。  文を苦労して書くことの効用に
自分の経験を他人事のように見られるようになる、という不思議な副作用があるのだ。
「怒り」 を貯めこまないためには、もってこいの錠剤である。  人により、増幅する場合もないではないが。


さて、ここまでは客側から見た 「不手際の対処法」 であるが、もちろん販売側はそれではいけない。
華々しく宣伝を繰り広げ、客の認知度が上昇したにもかかわらず、店に買いに行ったら
その製品がどこにもなかった・・・というのは、一時のダメージにはとどまらず
空振りの代償として別の商品に手を出し、もう二度と帰ってこない可能性が考えられる。


「品うす感」 もほどほどに演出しないと、時間に負けてしまう。
客にとって絶対に必要なものでないと、代替品は無数に存在するのだから。
だから宣伝でも、生産者の制御が効かない 「ツイッター」 のような代物は、名前だけが急激に広まり
生産がやっと追いついた頃には、だれも見向きしなくなってる・・・という恐れが多分にある。


客は 「どこででも目にする宣伝だから、どこにでも売っている」 と勘違いするが、その場合
「どこでもは売っていない商品」 を、それでも渇望するか、諦めてしまうかは、まさに
世論調査にもある 「どちらともいえない」 状態なのだ。
身の丈に合った広報・宣伝活動は、難しいが必要なことである・・・と思う。

「迷走する瞑想集688」 2017/05/20

最近は聞かないが、小林旭の歌に 『さすらい』(作詞:西沢爽) というのがあって
たぶん小学生の時ラジオで聞いたのだろう、その時以来 「これは俺の歌だ」 と確信じていた。
特に二番が忘れられない。  どの土地にも根を張るまで住み続けられなかった悲哀が、切々と響く。


いまのこの世界にも、数年後はいないかもしれないと思った時、永遠の愛など誓う気になれるだろうか?
紙芝居のように、ある日を境にパタッと場面が変わってしまう。  変わらないのは、自分だけ。
登場人物も総入れ替えだ。  世界が別れれば、それぞれが別の世界に生き始める。


別れた後も手紙のやり取りがずっと続く、なんてのは幻想に過ぎない。  そんな例は
本人が新しい世界に 「不適合」 な場合にのみ、可能な現象だと思う。
いま吸う空気が大事なのであって、過去の空気で呼吸できるわけではない。


あるいはまた、新たな世界に意識して溶け込まなくとも生活が可能な、恵まれた人だけが
過去の世界に浸り続けることができる。  取り巻きはいつどこでも、必ずいるはずだと信じれる者や
住む家を、荒れ地を整地するところから始めなければならないことを知らない、幸せな者たちだけが。


始めに、自己紹介で自分をさらけ出すのが得策なのか、危険なのかを見定めなくてはならない。
いったん作られてしまった印象は、容易なことでは修正できないから。
自分をさらけ出してしまって万一受け入れられなければ、あとは嘘をつき続けて生きるしかない。


思うのだが、ここに住みたいとの念願通り住める人の割合が、実際どれぐらいあるのだろう?
仕事で、人間関係で、他の要因に強制されて人は、居住地を決めざるを得ないのではないか?
何代も住み慣れた土地・・・も、ある意味では強制でしかない。  選択の余地がないのだから。


≪日本国憲法・第二十二条≫
1 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
・・・自由だが、なぜか自分では居住地を決めることができない、という不思議。
住み続ける 「自由」 を満喫できるのは、転居する 「自由」 が保証されている場合だけである。

「迷走する瞑想集687」 2017/05/17

貴方なら見知らぬ他人に自分だということを証明するために、どんな方法があるだろうか?
BSのシャーロックの 『死を呼ぶ暗号』 は、その困難さを如実に示しているように思う。
ワトソンはホームズと間違えられ、デイトの相手まで危険にさらす。
出てくるものはどれも、ホームズを示すものばかり。  本人が現れなかったら、絶体絶命の状況だった。


「免許証があるじゃないか」 と軽く言うが、その免許証を、たまたま持っていなかったら?
健康保険証なら、さらに普段は持ち歩かない。  友人に電話して来てもらい、証明してもらうか?
近くに友人が一人もいなかったら?  以前見た映画では、一切の本人確認のための情報が消されてしまい
名前を言っても誰も信用しない・・・というのがあった。  あり得ぬようで、現代ならありうる。


みんなが顔見知りの小さな集落をほとんど出ないのなら、本人の 「顔」 だけで証明書になる。
しかし都会に出れば、すべての人が自分を知らない。  昔の密輸業者は 「割り符」 を使ったようだが
そうでもしないと、仲間だと確認できない。  現代の割り符はさしずめ、顔と名前が公式に証明されている
「運転免許証」 であろうが、これで顔写真が付いていないと、当人を疑う気なら幾らでも疑うことができる。


かように 「本人と確認」 することは難しいのだ。  「指紋認証」 や 「網膜認証」 が出てくる所以だ。
逆に言えば、人混みに紛れることがいともたやすいことになる。  前にも書いたが
ここら辺のアパートの住民は、徒歩で敷地の外へ出たことはほとんどないはずだ。  すべて車を使うから。
ゴミ出しも近くのコンビニに行くのでも、付属の駐車場から車で出かける。  町内会に入ってないから
回覧板も回っては来ず、地域とのつながりは皆無だろう。


顔も名前もあまり知られていないなら、免許証を忘れたりしたら、本人と証明するのは非常に困難になる。
当節は 「アノニマス」 として、透明な空気のように生きるのが好まれているようだが
しがらみがなくなる半面、「自分自身を証明」 する段になると今度は困ると思う。
ワトソンのようになったら、それこそ最悪だ。  自分が 「ホームズでない」ことを、証明できないのだから。


こうなると、顔見知りは多いに越したことはない、ことにならないか?

「迷走する瞑想集686」 2017/05/14

「M_私にたどりつかれては困る」(「死を呼ぶ暗号」)・・・それみたことか
スポンサーも名前がばれるのを嫌がっている。  ということは名前が、すでに表世界では知れ渡っている人だ。
誰も聞いたことがない名前なら、別にばれても支障はない。  名前は、顔のない記号に過ぎないから。


「サタンの爪」 と名前が知れ渡っても、特定の個人を指定しないから一向に困らない。
むしろ、恐れられて仕事がしやすいという一面もあろう。  「怪人二十面相」 だって同じこと。
だが 「M」 が誰だか解明されると、今度は表の仕事に差し支えが出てくる、そういうことだ。


悪の天才であっても、天才は隠れたままではいられない。  嫌でも目立ってしまうのが天才なのだろう。
もっとも、目立たなければ誰も天才とは呼んでくれないが。  それからすれば
Mの仕事の選択の仕方は、矛盾してるといえよう。  日光を嫌う、派手な模様の昆虫。


本当に目立ちたくなかったら、伊賀の影丸の忍法 「ナナフシの術」 のように周りに溶け込まねばならない。
しかしそれは 「天才」 とは、相反する行動だ。  人と同じなら、天才とは言わない。
だからM=モリアチイの将来が、破綻することは目に見えている。  どちらかに徹することができないから。


しかし二作目は、ツッコミどころの少ない作品だった。
暗号マニアには、見ごたえがあったかもしれないが・・・・。

「迷走する瞑想集685」 2017/05/13

犯人は、絶対に被害者との勝負に負けるわけにはいかない。  もし自分が死んで被害者が生き残ったら
自分の犯行は明るみに出てしまう。  自分は死んだからそれでいいだろうが、警察は2人の子どもの所へも
事情聴取に必ず行くはずだ。  なにしろ、死んだとはいえ連続殺人犯のその家族なのだから。


行った先で、2人の子どもが急に金回りがよくなっていると知ったら、そこで捜査は終わるだろうか?
だからスポンサーとしても、犯人が負けることは問題外だ。  金の出所が手繰られるかもしれない。
犯人が死ぬのは連続自殺とは関係のない、脳動脈瘤破裂の病死の場合だけが許される。


こんな条件付きの勝負に、フェアな試合がそもそも企画されるわけがない。
たぶんスポンサーは、毒入りカプセルの袋詰めと同時に、解毒剤を犯人に渡したはずだ。
「お前だけは、この薬で死ぬんじゃないぞ」 とか付け加えて。  だからこそ、犯人も応じたのだ。

「迷走する瞑想集684」 2017/05/13

『ピンク色の研究』 の犯人が、五分五分の勝負で4人に勝ち抜いてきたのは、犯人の言う
相手の心理が読めるからではないと思う。  心理は、直感的な場合と相手の裏の裏を読む場合と
同一人物でも時によって変わる。


それに、被害者が毒のカプセルを取った瞬間、犯人の顔に浮かぶ安堵の表情を読み取られる恐れがある。
被害者に女性が2人いたが、もし表情の変化に気が付けば、即座にカプセルを替えるよう要求するだろう。
犯人は、殊更に鉄面皮の男ではなかったようだし、ポーカーに強いとも思えない。


さらに犯人は、被害者とのスリルを楽しんでいると言っていたが、これも怪しい。
目的は2人の子どもへのスポンサーからの金だったのだから、最悪一人目で自爆する可能性は避けるはずだ。
犯人が勝負していたのは被害者ではなく、自分の脳動脈瘤が破裂するまでに何人殺せるか・・・つまり時間だ。


こんな切羽詰まった事情がありながら、五分五分の勝負など挑んでいる余裕などあろうはずがない。
私が考えるに、二つのカプセルは両方とも毒入りだったと思う。  さればこそ、表情には現れない。
犯人は、何の毒かは予め知っていたのだから、毒の中和剤を飲んでおくことは可能だ。  時は現代だ。


たとえどちらの 「毒入りカプセル」 が自分に残されても、自分だけは死なない自信がある。
また、被害者は必ず死ぬから、自分の正体がばれることもない。  従って、2人の子どもの所に
警察が押し掛けることもできない。  だから問題は、自分に残された時間だけなのだ。


もしこの推理が正しければ、ワトソンが犯人を撃ち殺したのは正解だ。  まさに
犯人はシャーロック・ホームズを、殺そうとしていたのだから。  勝負する気なんて最初から持っていないし
自分の顔を見た者を生かしておくわけがない。  何としても、子どもだけは守りたかっただろうから。

「迷走する瞑想集683」 2017/05/13

自殺強要犯の拳銃がライターだったことが判った時、なぜホームズは相手を殴り倒さなかったのだろう?
相手は自分より年をとっているのだし、脳動脈瘤に侵されていることまで聞かされていたのに・・・
ロバート・ダウニー・Jrのホームズなら間違いなく手を出していたはずだ。  彼は武闘派のホームズだから。


しかし、ジェレミー・ブレットやベネディクト・カンバーバッチのホームズは、暴力を嫌うのか
まず先手攻撃は行わない。  暴力はどちらかというと、他人にやらせるタイプだ。
『ピンク色の研究』 でも、犯人を射殺したのはワトソンだった。  ずるいといえば、確かにずるい。


あげくに最後の方で、ワトソンに、「君は馬鹿だから」 と言われてしまう。
「自分の頭の良さに酔った馬鹿」 という意味だ。  ホームズもさすがに怒らなかった。
こういうタイプは、探せば現実にもいることはいる。  しかしそいつに 「君は馬鹿だ」 とは
間違っても言わない方が賢明だ。  おだてておくに越したことはない。  小説と現実は違う。


こういう自他ともに認める優秀な人間に決定的に欠けているのは、他人をおだてて使う作戦だ。
自分が一番だと思っているから、他人をほめた経験がない。  また、他人に合わせる必要性も感じない。
だから逆に、裏で舌を出した追従も素直に受け止める。  「追従」 の存在そのものを知らないから。


別な意味で、操縦しやすい人種だといえる。  それが如実に現れたのが 『ピンク色の研究』 である。
こういう 「切れるだけの剣」 が危ういことを、兄マイクロフトは知っている。  だから
弟シャーロックが心配なのであろう。  女にもなびかないし・・・そこに現れた常識家ワトソンは
兄にとって勿怪の幸いだったに違いない。  多少、気が短いとしても・・・・。

「迷走する瞑想集682」 2017/05/13

マイクロフト・ホームズがワトソンに、「君は戦場が恋しいんだ」 という場面がある。
実は悲惨な戦場から逃れたがってはいないということだが、これはトラウマが逆だったということだ。
私の場合の悪夢とは、実際には一度も起こらなかったミスが、なぜか起きてしまうというものだ。


学生時代であれば、試験の前夜に出題範囲をすっかり忘れてしまうというものだったし
勤めてからは、年度末に未発注の予算がまだ残っていたことに突然気が付く、というものだ。
しかもその両方が、起こりうる可能性がまったくなくなった時から、夢に現れるのが似ている。


仕事中のミスの悪夢は、その業務から遠ざかって十数年経ってから夢に現れた。
高校時代の冷や汗の出る状態は、卒業後しばらく経ってから夢に見るようになった。
この悪夢はおかしいと言えばおかしい、一度も経験していないのだから。


未発注の予算を忘れていた悪夢でいえば、常に上司から 「早く発注しろ」 と尻を叩かれるから
万が一にもそんなことは起こりえない。  私自身、手持ちの予算には気を配っていたし。
しかし夢ではそれが起こってしまって、慌て始める私が見えるのだ。  今朝もそれで早朝に目が覚めた。


実はそれだけ勤務中は緊張していたということだろうが、その危険性から逃れられたのにも拘わらず
なおも夢に見るとはどういうことだろう?  と考えていたが、答えが解った気がする。
実は 「私は戦場に戻りたがっていた」 ということだ。  しかし、戻るのは御免こうむりたい。


本当は私も、夢のように楽しい夢のほうを見たいのだ。  しかし夢に出てくるのは
今となっては幻になった舞台ばかりだ。  舞台そのものが、もはや現実には存在しない。
これは一種の現実逃避の夢なのか?  それにしては逃げ込む先が、どれもこれももっと悲惨すぎる。


私は夢の世界よりも、覚めて現実の世界にいるほうが好きだ。
ここでたとえミスを犯しても、対処する方法はいくつもあるから。
夢は目が覚めるからいいだろうと言われるが、なんというか後味が良くないし、どうすることもできない。

「迷走する瞑想集681」 2017/05/12

郡山市の笹の川酒造で作っている吟醸酒 『ありがとう県警』 だが、名前が気に入っているのにも拘らず
なかなか買えない。  郡山駅内のおみやげ館の、棚の上の方にあるのは確認してある。  それなのに
駅前には一週間一度ぐらい行くのだが、店員さんに 「これください」 となかなか言えない。
店員さんが美人だからとか、そういう事ではない。  これは 「焼き芋」 を買う心理に似ている。


早い話、自意識過剰なのだ。  だいぶ前にここで 『ボクの街 郡山』 は、何の苦もなく買えた。
なぜ 「県警」 が入っていると、人の目を気にするのだろう?
「あいつ、警察が好きなのか?」 と見られるのではないか?  と勝手に想像してしまう・・・それが
手がすくむ元凶だ、と判っているにも拘らず・・・・。


そんなわけで今は、大和川酒造の純米辛口 『弥右衛門』 を飲んでいる。
これは喜多方の酒だ。  私もかつて、喜多方にいたことがある。  そんな縁で購入した。
べつに評判とかは一切関係ない・・・のではあるが、酒瓶の首に金賞受賞のネクタイが下がっていた。
良く見もしないで、むしり取ってしまったが。  受賞と言えば


「迷走する瞑想集667」 で紹介した本醸造 『三春駒』(佐藤酒造) も、最近何かで一位になったようだ。
味を知る前に選んでしまう私の選択方法が、予言をしたことにはならないのは自明なことだ。
私はたんに、三春に住んでいたことがあるから選んだに過ぎない。
強いて言えば、私は大黒様だったのかも・・・・。


酒の購入といえば、720ミリリットル瓶はやはり、酒飲みには不経済だ(瓶のコレクションにはいい)。
倍の金額を出せば一升瓶(1800ミリリットル) が買えてしまう。  そりゃあ
確かに持ってくるのは骨だし、多少カッコ悪いのは否めない。  それにそのままでは、冷蔵庫に入らない。
「これはぜひ、冷やで飲んでください」 と言われた私は、720ミリリットル瓶に移し替えている。


何と律儀なことか。  酒飲みといえど、買った酒は最高の状態で飲みたい意地はある。
ぐい飲みは冷凍庫で凍らせてあるし。  しかし残量が減っていくのは、忍びないことだ。

「迷走する瞑想集680」 2017/05/09

資金源は、どうせ税金だが・・・名探偵を 「飼っておく」 のが国家のためにもなる、と判断すれば
兄マイクロフトは迷わずそうするだろう、公安の仕事に関係がないようでもないし。
「弟のためを思っている」 なんて、どこまで本当だか判らない。
だから弟に 「究極の敵」 などと嫌われるのだ。  平凡な弟なら、見向きもしないのではないか?


もっとも、そういう冷酷さがあったからこそ、政府の上層部にまで昇りつめられたのだろう。
兄は、頭脳にプラスして行動力に恵まれた弟が、羨ましくてしょうがないのかもしれない。
これは、現代版 「カインとアベルの物語」 なのではあるまいか?
カイン(兄)は人類最初の殺人者だが、現代版ではアベル(弟)が殺人者たちを追い詰めている。


これだと、なぜ男の兄弟を登場させたのかが、意味としては分かる気がする。
しかし昔も今も、長男は損な役回りだ。  兄マイクロフトに、ファンなんておそらく皆無だろう。
「シャーロックに、何人友達がいると思ってるんだ?」 と言い放った兄の気持ちが、痛いほど分かる。
新聞に名前がデカデカと出るのは、いつも弟の方だから。

「迷走する瞑想集679」 2017/05/09

ということは、シャーロック・ホームズは兄(国家) の 「脛かじり」 ということになる。
いかに正義のための仕事しているとはいえ、ろくな定期収入もなく探偵三昧で暮らしていけるのだから
一種の 「貴族階級」 ともいえるだろう。  イギリスでは特に批判されないとしても
お隣のフランスでは許されざる存在に違いない。  モリアチイでさえ仕事(犯罪)で稼いでいるというのに。


だから反動として、額に汗して高価なものを盗みまくる 「怪盗アルセーヌ・ルパン」 が現れたのだ。
純粋な探偵業だけでは暮らしていけないことを、確実にわかる国民だから。  必ずしもフランス国民が
へそ曲がりではないと思う・・・が、大英帝国に対して本当にそうでないかは、判断を保留する。。


「名探偵が日々の生活費を得るために、アクセクしてては話にならんだろう」 それはそうだが、また一方で
「名探偵といえど、霞を食っては生きられない」 これも厳然たる事実だ。
私たちは推理小説を読むとき、数学の問題集を読んでいるのではないことを明確に意識している。
生身の人間に近い探偵が、苦労して謎を解いてゆく様を読むのだ。  数学者だけは違うだろうが・・・・。


だから、仙人のような探偵は一般的に支持されない。  それからいえばカンバーバッチのホームズは
非現実的なようで、一番リアルなホームズなのかもしれない。
「この次は、兄のスパイの要請を受けろ」 というくだりは、その白眉である。  「二人で山分けしよう」
そんな手を使っても、お兄さんにすぐに察知されてしまうに決まっているのに。


ワトソンの、セラピストによる診断結果まで調査していたのだから。
それでも兄弟は、互いに騙されたふりをして、金銭と情報の交換を続けるのだろうか?
私は案外、やりそうな気がする。  なにしろ 「狐とタヌキ」 の兄弟だから。
資金源は、どうせ税金だし・・・・・。

「迷走する瞑想集678」 2017/05/09

ワトソンが初めて兄マイクロフトに会った時 「組織のボスかと思った」 と、後になって言っているが
私も最初見た時、「こいつ、モリアチイじゃないのか?」 と一瞬思ってしまったのは事実だ。
たぶん演出も、そういう風に勘違いさせたかったのかも・・・・。


しかしよく考えてみれば、蝙蝠傘を手に出てくるというのは、悪党のすることではない。
蝙蝠傘はロンドン紳士の必携物だったのだから。  あの傘を開くことはほとんどない、とも聞いたことがある。
あれはステッキ代わりなのだそうだ。  細く巻くために専門の職人までいたとか・・・・。


現代ならさしずめ、タブレットを手に登場するところだろう。  部下の女性は、スマホを離さなかったし。
そういうところが、原作のマイクロフトから完全には離脱していないのだ。  どこかに卵の殻を付けてる。
シャーロックのバイオリンと一緒だ。  あれでシャーロッキアンからの非難を免れている、とも言える。


設定を替えれば、いろいろなホームズ像が描けそうだ。  ただし次の一点を抑えればだが。
「鼻持ちならないが、ともかく頭は切れる」 この点を抑えれば、取りあえず 「ホームズ」 にはなる。
あ、あともう一つ。  「正義の味方であること」 これを外すと、モリアチイになってしまう。


話は逸れるが、ハドソン夫人が 「私は大家であって、使用人じゃないわよ」 と言っていたが
あんなことを言うハドソン夫人は初めてだ。  今までは、甲斐甲斐しいハドソン夫人ばかりだったのに。
これも時代の流れか・・・・。  権利意識が先鋭化してきている、と感じたが考え過ぎか?


歴代のハドソン夫人が、ホームズの家賃の滞納の件については一言も言っていないところをみると
家賃はキチンキチンと払っていたようだ。  しかしあんな不定期な収入の探偵と、失業中の医者のくせに
よくもまあ・・・と思っていたら、その答えが作品中にあった。


兄マイクロフトからのスパイ代金の話が挿入されていたのだ。  これで長年の謎が解明した。
政府がバックについていれば、間借りの代金など軽いものだ。  だから実験器具も変装の道具も
買い揃えられたのだ。  一つ一つのあいまいな点を究明していく態度も、現代的といえば現代的だ。


だから兄マイクロフト(政府の役人) が登場しなくてはならなかったのだ。
官房機密費かなんかを、私的に使っているのであろう。
領収書がいらない国庫の金を・・・・。  揃いも揃って油断がならない兄弟だ。

「迷走する瞑想集677」 2017/05/09

カンバーバッチのホームズは、タバコを吸わない。  正確には、タバコを吸いたいのだが
タバコを吸う場所が減っている・・・という設定のようだ。  なにか最初から違和感があったのは
「パイプ」 をくわえていないからだったのだ。  まさに現代的なホームズである。


それでもニコチン・パッチを貼っているのは、ささやかな抵抗だろう。
傲慢な男の、意外な一面を見た気がした。  そのくせ
麻薬(原作通りならたぶんコカイン) を、やっていることは匂わせている。  これも現代的なのか?
同性愛についても、遠慮なく肯定的な表現が出てくる。  ここは紛れもなく、現代だ。


しかし、バイオリンを弾く癖はそのままのようだ。  現代なら、エレキギターだろうが・・・それでは
イメージに合わないのか?  確かにロックな男では、「考える探偵」 には不向きかもしれない。
イギリスは、ビートルズ発祥の地なのに・・・・。


さて視点を変えて、兄マイクロフト・ホームズについて考えてみよう。
この弟とは違った変人を、物語に登場させている訳とは?  弟と同程度の頭の切れを持ち
しかも長男らしく、固い職業(英国役人の高官) に就いている。  従って、弟ほど自由な行動はとれないが
それでも弟を心配はしているし、力もある。  これは寅さんに対する、「御前様」 の役どころではないか?


幼少(中学生)の頃は、幽霊のようなこの兄の存在の意味が解らなかった。
ホームズとワトソンだけで充分物語は進行できるのに、なぜ今更兄弟が必要だったのか?
軍人と役人は、当時の英国小説には必要不可欠だったからか?
そういえば、ホームズの冒険談は当初新聞の連載物だったと聞く。  その中で


無能だが馬力のあるスコットランド・ヤードの警官ばかり描いていては良くない、と忖度したのかも。
その可能性は、ゼロではない。  とにかく、下手をすると弟以上の頭の切れを有する兄の登場が
不思議でならなかったのは事実だ。  ある意味この兄は、英国紳士の典型なのかもしれない。
苦虫を噛みつぶしたような顔で、冗談らしきものを言う。


シャーロックが英国人の裏口のあこがれなら、マイクロフトは表玄関のあこがれ、なのかもしれない。
片方には地位と頭脳があり、もう片方には自由と頭脳があるという風な。
うん、この着眼点は悪くない・・・と自画自賛する悪い癖。  そして非常口のあこがれが
「モリアチィ教授」 なのだ、きっと。  彼には頭脳と、ダークサイドまでの自由がある。


シャーロックの自由は、あくまでフォースの範囲内での自由に過ぎないから。

「迷走する瞑想集676」 2017/05/08

クラシック音楽の作曲家は、モチーフから交響曲を構築していくらしいが、私には作曲とは縁がないから
関係ない話だ。  しかし文章を書くのも、言葉の断片から書き始まるのだから、あながち
関係ないとは言い切れないのではないか?  モチーフはメロディ―とは違う。
メロディーが自己完結しているものとすれば、モチーフはまさに 「音の断片」 だ。


たった一つのモチーフだけで30分の交響曲(第5番) を仕上げたかと思えば
次から次へとモチーフが入れ替わる第3番や第7番のような交響曲もある。
私の文章の理想は以前は第5番だったのだが、最近は第3番や第7番に近づきつつある。
その源流は、吉田拓郎の 『イメージの詩』 にあると思っている。


あのフォーク・ソングの歌詞は支離滅裂だった。  何のつながりもない歌詞が延々と続く大曲だ。
それを通して感じられるのは、ただ 「個人のいらだち」 だけしかない。
あの曲に接してから、私の書くものも支離滅裂で構わなくなった気がする。
通奏低音のように背後に流れる姿が確認できれば・・・・。


などと格好をつけているが、要するに文をまとめる努力を放棄したに過ぎない。
文をまとめるということは、自分の意思をまとめるということでもある。
自分の吐き出したものに、自分が規制されるということはまことに嫌なものである。  ゆえに
最後だけはキッチリ終わるにしても、途中は足の向くままに任せることにした。


おかげで、だんだん長文が書けるようになってきた。
これはベートーベンも同じであったろう、と宮川某も 「ら・ら・ら・クラシック」 で言っていた。
「何が何だかわからない」 という感想を持つかもしれないが、要するに聴き手と読み手の
「集中力が足りない!」 ということだ。

「迷走する瞑想集675」 2017/05/08

名探偵の推理が絶対に間違わないのは、そういう筋書きで小説を作るからだ。
だから探偵と推理比べをしても良くて引き分け、読者が前に出ることなど絶対ありえない。
名探偵に 「誤認逮捕」 というリスクは、もともと存在しないのだ。  だいたいにして
逮捕するのは 「警察組織」 の方々だし・・・・。


ところで、練りに練った犯罪計画を着実に実行する天才的犯人もたまに見かけるが
それだけの頭脳と実行力があったら、もっと真っ当な方に努力を振り向けたら・・・と
推理小説愛好家らしくない感想を抱くことがある。  もしそんなことになったら
名探偵の出番もなくなってしまうのだが、そこのところが痛しかゆしなのだ。


さて、ホームズは傍でレストレード警部が思案しているのを 「うるさい!」 と言い放つ輩だ。
アンダーソンが部屋の入り口で自説を披露すると、「情報ありがとう」 とドアをピシャッと閉めてしまう。
頭はいいかもしれないが、とことん鼻持ちのならない奴だ。  これでもし間違ったら
誰も慰めの言葉などかけてくないだろう、それは保証する。


もし、容疑者の一人が(犯人とは限らない) 独自の推理に執着したら、たぶん
「レストレード君、こいつを2~3日別件で拘留しておいてくれないか。  煩くてかなわん」 ぐらいは
間違いなく言うだろう。  いやな奴だ、と思いながら読者はホームズから離れられない。
「我慢だ、我慢」 と、レストレード警部と共に耐えている。


こんなホームズになり損ねた奴らなら、現実に幾らでも存在する。
自分を天才だと信じているが、実は天才でも何でもない奴が・・・・。
ホームズが天才だと言われる所以は、推理の鮮やかさにあるのではなく
確実に真犯人を追い詰めることができるからに他ならない。


奇説・珍説を披露できるだけなら、SF作家にでもできる。
しかし彼らは、それだけでは真の天才とは呼ばれない。  なぜなら、終点が現実に繋がっていないから。
未来の世界を言い当てたSF作家も何人かいるが、実現した時には彼らはほとんど死んでいる。
ホームズのように、優越感をくすぐられることは不可能だ。  その意味で


以前のホームズはまだ謙虚さのかけらを保持していたが、ベネディクト・カンバーバッチのホームズは
とことん鼻持ちならない。  まさに、現代人のホームズと言えるかもしれない。
兄のマイクロフトが 「究極の敵」 と言い放つのも分かる気がする。
怖いもの見たさで視聴しているが、ホームズは傍にはいてほしくない人物だ。  ルパンとは別の意味で。

「迷走する瞑想集674」 2017/05/06

シャーロック・ホームズがバッサバッサと名推理を披露するが
彼の推理だけが真相とは限らない。  たとえ確率が極端に低かろうとも
可能性がゼロでないならば、どんな突飛な推理でも否定はできない・・・犯人が捕まるまでは。


しかしホームズは、他人の意見を否定し完全に無視する。  他人の判断を見下す・・・これは
褒められた態度ではない。  犯人を捕まえるのが最終的な目的なら、もっと謙虚であるべきである。
ではあるが、ジョン・ワトソンの書く 『シャーロック・ホームズの冒険』 も、所詮は冒険談だ。
早い話、英雄の物語である。  そこにゴニョゴニョした可能性など、百害あって一利なしなのだ。


私個人は、ジェレミー・ブレットのホームズが原作に最も近いと思う。  というか、彼が
本で読んだホームズ像に成り代わっている。  一方で、ロバート・ダウニー・Jrのホームズも
野性味があり好きだ。  さらに、ベネディクト・カンバーバッチのホームズは
コンピュータ・オタク染みているが、あれはあれで好感は持てる。


つまり、鼻持ちならなくてしかも頭が切れれば、タイプにはこだわらないということだ。
シャーロック・ホームズやジェームス・ボンドが、色々な俳優で演じることが可能なのに
フーテンの寅さんがたった一人の俳優にしか演じられないのは、「ワトソン」 がいないためと私は考える。


極めて常識的な男のワトソンとの組み合わせで、ホームズ役の俳優の個性がたとえ変わっても
物語として成り立つのだ。  ワトソンは個性が薄い個性、いわば地面に打ち込まれた杭だ。
杭の係留がないと、ホームズは現実からどこかに飛んで行ってしまう。  そうなれば、ただの変人だ。


「ボンドには、そんな奴はいないではないか」  しかし毎回必ず現れる 「美人女優」 がいる。
彼女らを客引きの看板と侮ってはいけない。  彼女らが、ボンドが空想の世界に行くのを防いでいる。
たとえ彼女が人質にされても、「だから余計なことをするなと言ったじゃねえか」 と腹を立ててはいけない。


極論を言えば、ホームズが誰であっても完全に好きにはなれないから、誰が演じてもある程度我慢ができる。
ワトソンと一緒になって、「あいつは困った奴だ」 と言ってればいいのだから。
だがワトソンまで 「向こうの人」 になってしまうと、もはやお手上げである。


この世離れをした卓抜した推理力と、確かな現実の存在感とを両立させることは、至難の業だ。
普通はどちらかが、嘘臭くなってしまう。  しかし、現実感を伴わない推理の羅列は
たんなるファンタジー小説になってしまう恐れがある。  推理小説も、一種のファンタジーなのではあるが。


私は、完璧に構築された推論とは別の 「ほとんど有り得ない可能性」 で行われた犯罪の犯人が
捕まった時のホームズの顔を見てみたい。  たぶんホームズは一言 「呆れた」 と言うだろうな。
モリアチィ教授と同じぐらい、私はひねくれている・・・それは分かっている。
当たり前のこの世に飽きている、だから推理小説を好むのだ。  この世を当たり前と思わない者には
推理小説は必要ではない。

「迷走する瞑想集673」 2017/05/06

昨日、開成山公園に 「郡山こどもまつり」 の撮影に出かけたのだが
不覚にも今朝の新聞の一面の写真に、自分が写り込んでしまった。
私は、テレビカメラや報道の方たちの邪魔にならぬよう、常に写らないよう心掛けてきた。
しかるに、走り回る子どもの後ろにバッチリ写されていた。


しかし私に姿に気付く者はいないだろう。  背景の一人物に過ぎないから。
それはさておき、新聞の一面を飾る報道カメラマンだけのことはある。
ちゃんと子供たちを主役で写している。  さらに、私も考えた野球スタジアムを、背景に入れている。
この写真は望遠レンズで撮影しているらしく、私が気付かなかったのも無理はない。


私はサイドへ回ってシャッターを切っていたが、この方向だと子どもたちから15mは離れていたはずだ。
しかるにスタンドの客席にも、ピントが合っている。  ということは、相当絞り込んでいる。
さらにシャッタースピードも、子どもの足がブレていないことから1000分の1は使っているだろう。
つまり、撮影感度を上げて撮影していると思われる。  みごとな 「模範的報道写真」 だ、敬服する。


写真の右端には、私がそれとなく撮影していた高校生のお姉さんまで写っている。
思うにこの撮影が成されたのは私がカメラを取り出す前だから、11時頃と思われる。
この後私は、正面から右サイドに回り近寄ってくる子供たちを写した。  私のレンズは
広角が付いていたから、そのままでも焦点深度が深い代わりに、近づかないと大きく撮れない。


ともかく、新聞社のカメラマンと素人撮影家の私が、同じ対象を狙っていたとは驚きだ。
であるが早さでは勝った。  私は帰って2時間後にはブログにアップできたのだから・・・・。
フィルムカメラでは、こうはいかない。  140枚の画像から選別するのは、べつに苦にはならない。


言い忘れたが、新聞社のカメラマンはちゃんと 「順光」 で撮っている。
いっぽう私は、そんなことはまるで気にしない主義だ。  素人の気楽さである。

「迷走する瞑想集672」 2017/05/03

Toko261

塩屋崎の灯台は、小名浜港からは見えません。
「あそこにあるじゃないか」・・・あれは、三埼公園の展望台(マリンタワー)です。
夜に光が、回転などしやしません。  形は似せていますが・・・・・。


ある歌のせいで一気に有名になった 「塩屋崎灯台」 だがかつて
平の炭鉱町に住んでいた私はずっと、アレを 「トヨマのトーダイ」と呼んでいた。
あくまで豊間漁港の付属物に過ぎないという位置づけだ。
まあ、港の入り口の立つ誘導標識灯にしてはちょっと立派すぎるかな
とは感じていたにしても。


ところで、南の豊間漁港に対して北に薄磯海岸があるのだが、誰も「ウスイソのトーダイ」 とは呼ばなかった。
豊間漁港には漁船が出入りするが、薄磯海岸は海水浴場に過ぎない。
いかに山地に住んでいたとしても、海水浴場に誘導標識灯は必要ない・・・
との認識は一応できた。  しかし実際に


浜の住人たちは、はたしてアレをちゃんと 「しおやざき灯台」 と発音していたのだろうか?
小学校の遠足でアレに登った時、先生はちゃんと 「これは塩屋崎灯台です」 と説明しただろうか?
どうも 「付属物(灯台)」 が 「本家(漁港)」 より有名になりだした頃から
「塩屋崎灯台」 と呼ばれだした、そんな気がしてならない。


「自分の間違いを棚に上げて、なにをゴネているのだ?」 ゴネている訳ではない。
アレが正式名称で呼ばれるのが残念なはずがない。  ではあるが、その当時の炭鉱町の住民の常識が
否定されてしまったことが、残念至極なのだ。  「かつては豊間の灯台と呼ばれていた」 なんて注釈は
未だかつて誰も言ってくれない。  炭鉱町がなくなったように、その常識も消えてしまった。


ところで、三埼公園の展望台には一度登ったことがある。
もちろん灯台と違って、エレベーターで昇ったのだが。
観光用に造られたものだからして、頂上からの眺めは素晴らしい。
少なくとも、海が仕事場の 「灯台」 よりは。

「迷走する瞑想集671」 2017/05/02

旧ソビエトの周りに衛星国があったように、福島県の大都市同士はなぜか直接に接していない。
郡山市で言えば、会津若松市との間に猪苗代湖が挟まり、福島市との間に大玉村と二本松市が挟まり
いわき市との間に小野町が挟まっているという具合に。


これはやはり一種の 「緩衝地帯」 なのであろうか?  などと言うと間の市町村に怒られるが
福島市と南相馬市の間にも、飯舘村と川俣町がしっかり挟まっている。
「挟まっているって、それは大都市からの言い分に過ぎない」  それはよく判っている。


しかしもし仮に、猪苗代町が郡山市と合併をしたとすればどうなるか?
郡山市と福島市は、直接接することになってしまう。  これは画期的だ、福島県の歴史としては。
そのうえ郡山市は、磐梯山の東半分とスキー場の幾つかと秋元湖と猪苗代湖の4分の3を手に入れ
母成グリーンラインを全線手中に収め、さらに安積疏水の上戸取り入れ口と十六橋水門を我が手にできる。


少なくとも安積疏水関連の主要な施設は、郡山市内で完結することになる。
猪苗代町が会津の領分だなどという、世迷い事に耳を貸す必要はない。  なぜなら
会津若松との間には 「滝沢峠」 という壁があるから。  郡山との 「中山峠」 といい勝負だ。


猪苗代町が郡山市と一緒になれば市の面積でも、いわき市に肉薄する。  まだ80平方キロほど足りないが。
どうしてもと言うなら、小野町とも合併すればよい。  そうすれば、いわき市を追い抜ける。
さらに、いわき市と直接接することになる。  いわき・郡山・会津若松が横一列に繋がるのだ。


「三春はどうしたんだ?」  三春では、皮一枚足りないのだ。  それに、いわき市とはくっ付けない。
三春町には、田村市との合併でも考えてもらおう。  「なんと勝手な! だから傲慢だと陰口をたたかれる」
言っとくがこれは郡山市の見解ではない。  あくまで私案であって、たまには夢でも見ないと・・・・・。


これが実現すれば、「ふくしま駅伝」 は今の南北ではなく、東西に国道49号線を走ることになろう。  ところで
厳密に言えば、郡山市と会津若松市とは猪苗代湖の南で、すでに手を結んでいることに気が付いた。

「迷走する瞑想集670」 2017/05/02

どうしてウィスキーは、最初の一回だけグラスに注ぐときに、いい音がするのか?
二度目以降トクトクという音はまったくしない。  満杯のボトルでない限り、望むべくもないのか?
べつに音を飲むわけではないから、どうでもいいといえばどうでもいいのだが・・・・。


どうでもいいことといえば、今朝の新聞に県内の子ども(14歳以下) の人口が載っていた。
その中で郡山市はいわき市に、総人口では1万2千人負けているが、逆に子どもの数では
110人多くなったと出ていた。  去年は子どもの数でも、130人負けていたのに。


今年いわき市より多いということは、県内市町村で子どもの数が一番多いということである。
もちろん軒並み減ってはいるのだが、郡山市は減少の割合が小さいということだ。
「フンッどうだ、いわき市め!」  「そういうのを、団栗の背比べと言うんじゃ・・・」。
面積では郡山市の6割増しのいわき市に遠く及ばないから、せめてほかの分野で見返してやりたいのだ。


映画もなぜか、いわきや会津は登場しても、郡山は素通りされてしまう。
商業が盛んで金はあっても、名誉がないということは寂しいものだ・・・と私は考えている。
そして 「名誉」 というものは、一朝一夕には手に入らない。


「名誉なんて、一文にもならないだろう」  それは違う。
なんでもインターネットの検索で探し出せる今の世に、重要なキーワードを持たないということは
存在しないに等しいことなのだ。  三春町なら 「滝桜」 でみごとに引っかかる。
そして一度引っかかれば、芋づる式にあまり有名でない所まで検索者の目は誘導される。


だから福島市に 「花見山」 と 「磐梯吾妻スカイライン」 があり
いわき市に 「ハワイアンズ」 があり、会津若松に 「鶴ヶ城」 と 「白虎隊」 があり
猪苗代町に 「野口英世」 のキーワードがあることが重要なのだ。


だから郡山市は、猪苗代町か三春町を吸収合併してしまうべきなのだ。
付け焼き刃ではない 「キーワード」 を身に帯びるために。
「安積疏水」 ではあまりに範囲が広すぎて、どこを見ていいのか皆目判らない・・・と思うし
しょせん 「農業用施設」 である。  先人の苦労は、充分に分かるにしても・・・・・。


駅前にレプリカがあり、麓山(はやま)公園に本物がある 「安積疏水の麓山の滝」 にしても
あれだけ見ていて、プロジェクトの偉大さは分からない。  あれはあくまで
工事の終了直前に末端に造った 「お遊び」 なのだから。  水位の標高を高く高く持ってくるのが
用水路の基本だからして、「滝を造る」 などとは言語道断の振舞いなのだ。


いまあんなことをやったら、会計検査院が怖くて夜も寝られないだろう。
「この部分の工事費の国費分は、返して貰いますからねっ!」  いい時代だったのだ、当時は・・・・・。

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