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2017年3月

「迷走する瞑想集643」 2017/03/31

生涯自分に対する勤務評定は見ることができない、と前文で述べたが、方法がなくはない。
それは、自分が偉くなって勤務評定を閲覧できる権限を持てばよいのだ、という案である。  なるほど
例えば所長に出世できれば、自らの過去の評定を一覧で見ることができる、そういうことらしい。
その場合、事務所最高位の己の勤務評定にロックはかけられないのであろうか?


自分より下位の職員のデータにはアクセスできても、当の本人のデータにまでアクセス可能なのだろうか?
という疑問は残る。  そうは問屋が卸さない気がする。  さらに上の本課の部署にかつての上司が
まだ在職していたなら、さらに悪い事にかつての評定者だったなら、過去の評定を見せる訳にはいかないだろう。
下手をすれば、血の雨が降る恐れさえある。


もし仮に、自分の評定も閲覧可能であったとしても、かなり上まで昇進してしまった自分が今更
あえてそれを見る必要性があるだろうか?  という素朴な疑問もある。
どうしても勤務評定を覗き見たいのは、不遇を託っていると自身が信じている者のほうであろう。
もはや所長にまでなった者には、閲覧などどうでもいいことではないか・・・と、下の者は推測する。


しかしその心の内は、なってみないから謎だ。  偉くなるほど上昇志向が強まるとも言われるから
やはり血の雨を防止する意味でも、閲覧不可にしておくのが無難かも。  どうしても見たかったら
人事課にスパイを送り込めばいいだけだ。  なにしろ、人事課員もたんなる事務屋さんに過ぎないから。
それに、勤務評定は使用後に毎年キチンと破棄されてもいないようだし、どこかには保管されているのだろう。


見て、それで処遇が変わるわけではないが、怒りを胸に秘めている職員はゼロではあるまいから
絶対に当人には明かされないからこそ、元上司は安心して眠りにつけるのかもしれない。
煮えたぎる妄想をやめさせるには、かえって公表したほうがよいと思うのだが・・・・。
一方で怒りは、闘争本能と同じく生存のための活力源になる場合もなくはない・・・制御できればだが。

「迷走する瞑想集642」 2017/03/31

勤務評定は、いつかの時に誰かが書き上げて毎年人事課に報告するのであろう。
「するのであろう」 と言ったのは、評定を権限のない者が見ることは絶対にできないし
書いている本人が 「俺が書いてるんだぞ」 と教えることも、また絶対にない。
もしそれを言ったなら、明確な 「脅し」 と取られてしまうだろう。


つまり書かれている当事者は、生涯それを見ることはできないという話だ。
だが取りまとめているはるか上の上司が、一般論として話してくれたことはある。
それによると例えば、課長が課員の勤務評定を書く場合に、全員に満点をつけるということはないそうだ。
たとえ全員が、申し分なく職務をこなしていたとしても。  それは


昇進ラインに二名の者が該当した場合などに如実に表れる、とも言っていた。
当然ながら二名の者に、順位を付けなくてはならなくなる。  両方が満点の無責任な評価などありえない。
その場合の特徴として、自分と年の離れたほうに甘い点を付けるらしい。  つまり
万一自分を追い越す可能性の高い年長者に、より辛い点を付ける、べつに恨みがなくても。


これは心情としては分かる。  だが公平な評価とはかけ離れている。  本来なら、経験年数の高いほうこそ
有利になるはずだから。  年長者がよっぽどダメな奴なら話も分かるが、はたしてそうなのだろうか?
淡々と職務をこなしている年長者が、たまたま目立たないだけではないのか?  と思ったが
それ以上具体的な話には、鍵がかかってしまった。


勤務評定の恐ろしいところは、評定者の評定を再チェックする機能かないことだ。
だから、公平な評定の結果なのか、個人の恣意的な評価が混じっているのかは、誰も判らない。
その課長の評価もさらに上の誰かがやっているのだろうが、課員の評価と併せて見ることはないだろう。
つまり 「恣意的な評価」 は、入ったこともない人事課にまでノーマークで辿り着く恐れがある。


とにかく人員を評価するということは、いろいろな要素が絡む。
誰が見ても納得できる評価かどうかは、現物(勤務評定) が公表されないから確認しようがない。
課員は、ただただ上司の公正無私な判定を祈るしかない、という状況にあるらしい。  たとえ
自分では可もなく不可もない職務態度を貫いているつもりでも、陰での評価はまた別物である。


その場合いちばん確実なのは、上司に幅広くゴマを擂りまくること、だろうが中には
「植木等が大嫌いだ!」 というヒネた上司が、いないとも限らない。  とにかく
世の中を渡って行くとき、自分に事故は絶対に起こらない、とは誰も言えないのだ。
万全の事故対策を講じていたとしても、結果的に自己満足に過ぎないことさえあるし。

「迷走する瞑想集641」 2017/03/31

会議や説明会で定刻になり、それでも二、三人がまだ来ていない状況で、特に農家相手の場合などだと
優しい上司なら 「あと二、三人だから、もうちょっと待ってみようか」 と鷹揚に構えるが
会議の担当者とすれば 「定刻になったから始めましょう」 と議長に進言すべきなのだ。


早く会議を終わって戻りたい気持ちがあるのは確かだが、建前はそうではない。
「定刻までに参集してくれている皆さんに対して、失礼になる」 これである。
会議に遅刻するような者に、配慮する必要はまったくない。  たとえ有力者であっても。


もし会議の最初の部分が分からなかったら、脇の人に聞けばよいのだ・・・の役人的態度を貫くべきだ。
傲慢と思われようがこうした態度を続けていると、次第に遅刻者は減ってくる・・・ゼロにはならないが。
まして農家も現代は、サラリーマンの経験を持つ者が大半だ。  土木現場の季節作業員も同じことで
朝の集合時刻に遅刻すれば、作業員送迎車に確実に乗り遅れてしまう。


農家の日単位の時間割ではなく、サラリーマンの時間単位の時間割も身についていると言える。
だから 「会津時間」 などは無視して会議を始めても、ごうごうたる非難はまず起きない。
杓子定規は役人の習性だ・・・と諦めてる向きもあるだろうが、そう思わせておけばよい。


ここで間違ってはならぬのは、二、三人の不届き者に情けをかけて、多数の正直者に無駄な時間を過ごさせる
その峻別を誤らないことである。  もっと露骨に言えば、不届き者に 「時間を食われてしまう」
そのことに対して容赦してはいけない、ということだ。  たとえ出席者が何も言わなくても、たとえ
「鬼のような奴だ!」 と感じても、少なくても 「間違っている」 とは考えないだろう。


だから数人の遅刻者がいるとしても、会議は 「定刻通り」 始めていいのだ。
これは土木事務所の行う 「道路の補修順位付け」 と同じことで
泣こうが喚こうが 「上位のものから補修していく」 それを貫くしかない。  それを崩すと
不信と怒号の嵐が必ず舞い起きる。  だから必ず 「順位」 の判定データは保存されなければならない。


「公平」 とは、すべての案件をいっぺんに処理することではないと思う。
窓口が一つしかなければ入場券の購入者は、否応なく並ばなければならないのと同じことだ。
年間予算に上限がある限り、「順位付け」 は仕方がないことなのである。
しかし当事者は自分のことしか考えていないから、往々にして役人は悪者にされる傾向がある。


べつに、手心を加えないと減給になるとか、首が飛ぶとかの恐れはまったくないのだし
あるとすれば、上司の強要を拒否したがための左遷ぐらいであろう。  勤務評定に滅茶苦茶書かれたうえでの。
勤務評定だけは、部下から見てのブラックボックスだから如何ともしがたい。
「君の昇進のためには、一度は遠隔地に行かなとね」 とか囁かれたら、グウの根も出まい。


その実、遠隔地あたりをウロウロしていると、確実に昇進のルートからは外れてしまう。
羽の生えている候補者とは、その時点で住む世界が別になってしまう。  それまで考えると
上司にはあんまり逆らえない・・・となってしまうだろう。  つまり、イエスマンの誕生だ。
組織の活動のためには、結果的にそのほうが効率が良いとしても・・・・。


だから逆に、昇進を見限った奴のほうが役所の組織としては始末が悪い、とも言えそうだ。
不始末がなければ減給はできない、さりとて 「勤務評定の脅し」 も効果がないとすれば
上司の制御は、完全にノーブレーキになる恐れがある。  が、「昇進を見限った奴」 とは、えてして
自分と家族のことをあまり訴えない奴がなる場合が多い。  それが吉と出るか?  凶と出るか?

「迷走する瞑想集640」 2017/03/31

映画 『マトリックス・レボリューションズ』 でトリニティとネオが死に、スミスとの激闘も終了した。
これで一応ストーリーとしては完結する。  しかし終わらせない方法がまだある。
コンピュータとの戦いすべてが、出社前の一夜の夢だった・・・とすれば、また物語は続けられる。


「そこまでやるか?」 は、私にも推測がつかない。  しかし、『スターウォーズ』 だって
まだ終わってはいないではないか。  ネオのコンピュータの画面に、ある日突然・・・・。
こんな展開がまた起こらないとも限らない。  どれが夢の世界か、誰も真相を知らないから。


「私は今、目を覚まして現実の中に生きている」 と、間違いなく主張できるだろうか?
「この身も蓋もない世界が、現実でなくて何なんだ?」  しかしそういう夢を、たまたま貴方が見ているだけ
かもしれない。  絶対に覚めることのない夢を・・・・。


「胡蝶の夢」 は、まだ完全否定されてはいない。  タイムマシンで過去に戻れるなら
夢から覚めた夢を見ているのだって、映画としてはアリだろう。
現実がどこまで行っても理不尽で不条理なら、それもまた夢かもしれない。  夢かもしれないが


自分で夢から覚めることは不可能だとしたら・・・『マトリックス』 の最初に戻ってしまう。
しかし貴方はネオほど有能ではないから、モーフィアスが探し出してはくれない。  それに
願望で 「夢かもしれない」 と願っているうちは、まず永遠に覚めることはできないだろう。


現実を現実と完全に肯定しきっているある日、突然足元の空洞に気が付くのだ。
この世界丸ごとの必然性は、どこにもないということを・・・・。
科学は、この世界が偶然から生まれたことを証明しつつある・・・もちろんその結果の人間さえも。


ビッグバンに喜んでいてばかりでは、いられないのだ。  そんなだったら
コンピュータに栽培されている形態のほうが、まだ救いがあると言える。  少なくとも目的が明確だから。

「迷走する瞑想集639」 2017/03/29

「嫌がらせ」 のターゲットが実は店の主人ではなく、周りの聴衆(次からの客) であることは先に述べた。
であるならば、クレームを糾弾するその人に対して何を言っても無駄である。
店主が弁明すべきは周りの聴衆に対してであって、「クレームは不当である」 と声高に主張すべきなのだ。


「嫌がらせ」 は一種の迫害だが、一方で周りの聴衆が聞き耳を立ている格好の 「宣伝」 の場でもある。
ここで平謝りをするだけでは機会がもったいない・・・と発想を転換しないと、クレーマーの思うつぼである。
どうせクレーマーは聞く耳など持ってはいないのだから、聴衆を向いて安全性をアピールしていればよい。


なおもクレーマーが絡んでくれば、それだけ反論の機会もまた自動延長されるというものだ。
時間制限の厳しいメディアなどより、はるかに言いたいことが無制限で言える・・・と思えないだろうか?
クレーマーは、味について 「美味くない!」 とのクレームは行わない。  人により
印象は千差万別だから、大勢に訴えられないため。  だからクレーマーは


「食品の安全性」 にターゲットを絞ってくる。  これには、人による判断の差は生じ得ない。
しかし一方で、「食品の安全性」 はデータで反証可能である。  たんなる言いがかりに過ぎないのなら
これを機会にコッテリと自社商品の安全性を、「周りの聴衆」 にアピールしてやればよい。  つまり
ねちこいクレーマーこそ、歓迎すべき 「さくら」 なのだ。

「迷走する瞑想集638」 2017/03/29

むかし札幌のラーメン横町に野郎三人で、ラーメンを食べに行ったことがある。
ラーメン横町は、狭い路地に小さなラーメン屋が軒を連ねている。  その中で
一番奥の食堂の前にだけ列ができていた。  グルメではない我々は


「すぐに食べられるとこへ入ろうぜ」  「札幌で食べれば、なんだってサッポロラーメンだよな」
と、路地の入り口の店に入った。  そこに客はいなかったが、味は悪くはなかった。
カウンターに座った我々が食べ終えて後ろを振り向くと、座席に空きはなくなっていた。


「俺たちは、福の神だったようだな」  「要するに、付和雷同なのさ」  「みんな観光客なのかな?」
「地元民なら、行きつけの店は決まっているだろう」  などと話しながら、爪楊枝をくわえて店を後にした。
食わず嫌いという言葉があるが、噂だけでただ一軒の店を選択している。  だから他人が他の店に入れば


釣られて自分も入って見たくなる。  我々のように、「即時出来上がり!」 の確固たるポリシーを
持っているなら、それにあった店を選択するはずだが、彼らにはそういった選択肢は順位が下の方だ。
我々三人が迷わず一番手前の店に入ったのを見て、「あっ、あそこは美味いのかも」 と勘違いし
判断を修正したのだろう。  列に並んでまで食べたかったラーメンを、いとも簡単にあきらめて。


一晩に何杯もラーメンは食べられないのだから、初志貫徹して深夜まで並んでいるべきなのだ。
もっとも初冬の北海道でそれができるか?  は、はなはだ疑問だが。
私は、人が並んでいない店で食べ物を買うのが行動原理だから、上記の経験はけっこうある。


私がお祭りの出店で大判焼や焼きそばを買い求めた後は、なぜかその店に客足が途絶えなくなる
「俺は、大黒様か?」 と思ったりもしたが、要するに誰かが買えば安心できるのだろう。
これを意識的にやると、「さくら」 になる。  寅さんの相方にもこういうのがいた。


反対に店の前で品物を罵倒すれば、他の客を容易に遠ざけることができる・・・という論理も成り立つ。
これを意識的にやったのが、「嫌がらせ」 である。  これの本当の相手は、当人ではなく周りの
次からの客たちである。  以後は客足はパッタリと途絶え、いずれ廃業に追い込まれるだろう。


クレームを改善させたかったのなら、自分で買わずに冷静に見守っていればよいものを
金の卵を産む牝鶏を、むざむざ自分の手で絞め殺してしまうことになる。
「そんなはずでは・・・」 気が付いた時にはもう遅い。  「社会のため」 とは、どういうことなのか?
少なくとも、目先の好悪に影響される子供ではないはずだが、攻撃が生きがいの人も残念ながら存在する。

「迷走する瞑想集637」 2017/03/22

過去のほうの東京オリンピックで国立競技場に、マラソンの二位と三位が相前後して飛び込んできた時
NHKのアナウンサーが 「つぶらや、つぶらや」 と放送しているのを確認してしまった。
母方の実家が須賀川の私としては、これは見逃すことができない。  なぜ当時に異議を唱えずに
今頃になって騒ぐのか?


当時は円谷選手が福島県出身だとも須賀川市出身だとも、殊更に騒ぎ立てられなかったのが原因である。
「ああ、つぶらやせんしゅか」 と私でさえ納得していた。  しかし須賀川市出身なら呼び方が違う。
「つむらや選手が今、競技場に戻ってまいりました」 と発音しなければならない。
円谷は 「つぶらや」 が日本標準だ!・・・であっても、須賀川においては違う。


ちなみに、特撮監督の円谷英二氏も本名は 「円谷英一(つむらや えいいち)」 である。
まあ監督の場合は、芸名のようなものだから間違って呼ばれても、あまり気にはならないだろうが
円谷幸吉選手の場合は、映像に記録されてしまっている。  間違った呼び名で後世に伝えられるのは
はなはだ遺憾であるから、この部分だけでも遅まきながら吹き替えをお願いしたいところだ。


あと一つの方法は、もう一人須賀川から有名人である 「円谷さん」 が出て、インタビューの時に
「私はつぶらやではありません。 つむらやです」 と全国放送で宣言することだ。
「えっ?  つぶらやではないんですか?」 「はい、違います」 「それは失礼しました」
これが効果的なのは充分に予測できる・・・が、都合よく円谷さんが現れてくれるかが問題だ。


ところで大昔、須賀川の中町に 「つぶら」 という喫茶店があった。  店に入ると
コーヒーの香りが充満していて堪えられなかった記憶がまだある。  私が小学生の時だ。
「小学生が喫茶店に入っていいのか?」 と不良を見る目つきをされる前に言っとくが
あくまで叔母さんのお供で行っただけだ。  焼き鳥屋にも行ったし・・・・。


その喫茶店が 「つむら」 でなかったことは間違いないと思うのだが、今となっては
確かめるすべはない。  ただ、店のあった所の近くに円谷英二氏の記念碑が建っている。
ということは、やはり 「つむら」 だったのか?  と夜も眠れなくなる。

「迷走する瞑想集636」 2017/03/16

「ほんでもって、なじょんすんだ?」 (それで貴方は、どうするおつもりなのですか?)と
短縮形福島弁で問われた場合、「なじょんすっぺなあ」 と嘆息形で返答すれば、まず喧嘩は回避できる。
というのは、「なじょんすんの?」 の内部には 「どうしてくれるんだ(怒)」 が含まれる場合がある。
相手は単純に疑問を投げかけている・・・訳では必ずしもないことを、態度から読み取らねばならない。


「でれすけ!」 「おんつぁまー」 と頭ごなしに言われて、平身低頭して謝らなければならないのか、
あるいは頭を掻く程度のことで済むのかは、あくまで相手の言い方に依存する。
つまり方言は、もともと書き言葉ではなく、相手とのコミュニケーションに使用して威力を発揮するものだ。
だから広く読まれる文章に、方言を使ってはならない・・・と学校で教えられた、ような気がする。


そのかわり、ニュアンスの伝達速度は標準語の数倍の容量を持つ・・・ただし、方言と素性を理解する者にだけ。
同じ方言を喋っていても、魂胆が判らぬ者には多少の警戒を怠るなかれ、という使用注意附則が付いている。
方言はいわば 「首にかけたIDカード」 であると、私は思う。  なぜ福島県内でさえいまだに
多数の方言が喋られているのか?  それは話せば即座にその者が、どの地方出身か推測できる点にあると思う。


福島県の中央部の 「中通り地方」 でさえ、それは如実である。
北部出身者なのか、中部出身者なのか、南部出身者なのかはだいたい判る。  たとえ相手から
出身地を聞かなくとも。  中部出身者でも、旧田村郡出身者と郡山市街部出身者では喋り方が違うし
たぶん浜通りでも、北部(相馬市、南相馬市) と南部(いわき市) の方言は微妙に違うはずだ。


ただ今は共通語(標準語) がほぼ完璧に普及しているから、IDカードを隠しての会話も可能である。
そんな時は、同じ部署のIDカードを持った者同士の会話を傍で聞いていれば、カードなど見なくても判る。
同部署のIDカード保持者同士の会話は、百パーセントその土地の言語で交わされるから。
あと一つ、方言にきれい・汚いのレッテルはまやかしで、機能的か・装飾的かの分類なら賛成できる。


国の中央部に近づくほど 「方言がきれいだ」 なんて片腹痛い。
それはたんに、喋っている時間が長かった成果であって、労働している時間が長かったら喋る暇は少ないし
短時間に意思を伝達し終わらなければならない。  東北弁を機能的だと評価するのなら賛成するが
野蛮な言語だと表現するのなら、「鼻濁音」 を問題なく発音できるようになってから、言ってほしい。


我々は 「が」 を、普通の 「が」 と 「んが」 の二種類に発音し分けている。
そして 「んが」 の発音をマスターし終わらないと、NHKのアナウンサーは金輪際
デビューさせてもらえない。  もっともタレントなら、一向に差し支えないのだが・・・・。
東北人から見て、彼らの 「ガギグゲゴ」 の発音はいかにも汚いものだ、と常々心を痛めている。


しかし方言は、その地方で話されている限り、美しいの美しくないのと評価するのがおかしい。
それは日々の生活の言葉であって、それしかないのだから。

「迷走する瞑想集635」 2017/03/12

あぶくま洞に入ったことはないが、そのすぐ前の 「星の村天文台」 には二度ほど入ったことがある。
といっても昼間だから星は見せてもらえなかったが、台長の大野裕明さんには話を伺った記憶がある。
そして星が見られない代わりに、プラネタリウムを見た記憶が・・・・。  やはり星が見たかったら
滝根町に宿を取るしかないのであろうか?  ところで、宿なんてあったっけ?


私は行った所しか書かないが、書いてる内容は私の色眼鏡を通過した体験だから、もし
上述の発言を滝根町の誰かが読んだら 「滝根さ、もう来んな!」 と言われよう。  しかし私は
もう滝根に行く用事もないので、なんら痛痒を感じない。  もし小野町夏井の千本桜を
また撮影したいと思い立ったなら、列車で通過することはあるだろうが・・・・。


ところで列車で郡山から夏井に行く場合気を付けることは、かなりの本数がその手前の小野新町駅で
折り返し運転になっていることだ。  これを確かめずに出かけると、夏井に行ったは良いが帰りの列車が
いつまでたっても来ないという事態になりかねない。  郡山に直接戻らずいわき駅に向かい、そこから
高速バスで帰ってくるという手も使えない。  郡山 → いわき間の通しの列車が少ないから。


では、夏井から小野新町駅までタクシーを飛ばせばいいではないか?  と思うだろう。
夏井駅は 「無人駅」 である。  そんな駅前にタクシーが待機してるとでも?
しかしまあ、千本桜は駅の目の前である。  ただし線路を直接横断する行為はお勧めできない。
面倒でも、踏切を横断するのが都会人のすることである。


さて、小野町のJRの駅が 「小野新町駅」 であることに、不思議を感じないだろうか?
私は、子供のころから不思議でならなかった。  そして今でも 「新町」 はくっ付いている。
「もう、新町を外してもいいんじゃ・・・」 と何度も思ったものだ。  それで検索してみると
小野新町村 → 小野新町 → 小野新町駅誕生 → 小野町誕生 という経緯があったようだ。


その経緯は解るにしても、もう 「小野町駅」 に改名しても時効なんじゃないかと・・・・。
それから鉄道の話ではないが、阿武隈山地の奥深くの小野町は意外と、県の腰椎部と近いということを
ご存じだろうか?  腰椎部とは、県の背骨の下の方つまり 「矢吹町」 のことである。
福島県が造った高速道路 「あぶくま高原道路(通称:トラハイ)」 がここを結んでいるのだ。


だから首都圏から東北自動車道を走って来て、福島県に入った所で急にハワイアンズに行きたくなったら
矢吹インターで高速を降り、トラハイで小野町に向かい磐越自動車道に乗ったほうが時間の節約になる。
わざわざ郡山ジャンクションまで行く必要はない。  ただし、トラハイでもいっちょ前に料金所はあるから
小銭の用意はされたし。  実は私は、矢吹町から福島空港までしか走ったことはない・・・・。


通ならば、矢吹インターで降りて石川町・古殿町を通過してハワイアンズの前に出るルート(御斎所街道)を
あるいは選択するかも・・・・。  沿線の風景(別に何もないが) をゆっくり楽しみたいのならこちらだ。
高速道路では完全に、風景に対して目隠し状態である。  高速走行でよそ見をされるのも困るが。

「迷走する瞑想集634」 2017/03/11

恥ずかしながら田村市滝根町の 「あぶくま洞」 にも、その前からある 「入水鍾乳洞」 にも
未だかつて入ったことがない。  その前の県道19号線を仕事で嫌になるほど往来していたにも係わらず
しかも入り口に行ったことさえ幾度となくあったにも係わらず、入場券を買ったことはない。


「地元の観光地なんて、そんなもんさ」 ではあるが、別に中に入るのが、炭鉱の落盤を思い出して怖いとか
そういう理由ではない。  それが証拠に小学校の遠足で、「鬼穴(おにあな)」 にはちゃんと入っている。
「鬼穴」 は小さい鍾乳洞で、確か入場料も取られなかった。  いまは判らぬが・・・・。


当時は、田村郡滝根町だった。  磐越東線を平から乗ってくると、セメント工場があったと記憶している。
石灰岩はセメントの材料だから。  そして滝根町には、阿武隈川水系と夏井川水系の分水嶺が
田んぼのどこかにあると聞いたことがある。  北に向かう牧野川が大滝根川に合流し、最後は
阿武隈川に流れ込み、隣の宮城県まで北進する。  一方夏井川は、南進していわき市で太平洋に流れ込む。


その分水嶺が、県道わきの田んぼの列のどこかだと・・「なら、標識くらい立てておけよな」とは言わなかったし
「中途半端な所だな」 などとは、口が裂けても言わなかった。  鉄道の駅も
菅谷(すがや)駅と神俣(かんまた)駅はあるが、「滝根駅」 などというものは存在しない。
だから県外からの旅行者は、「滝根のあぶくま洞」 と一つ憶えすると、乗り過ごす危険性がなくもない。


ところで話は隣の小野町に移るが、郡山市との境付近に 「浮金(うきがね)」 という地名がある。
てっきり私は 「ここは昔、金山でもあったのか?」 と思ったのだが、そうではなかった。
ここは高級墓石材の黒御影石の産地だそうである。  なんでも、黒い肌に金色が浮かんでくるとか・・・。
それで浮金と呼ばれたんだとか・・・・。  「なんだ、金塊とは関係ないのか」 とは言わなかった。


それよりも、1kmも行けば郡山市だと言われたショックのほうが大きかった。
むかしの田村郡のイメージは、もはや現代には当てはまらない。  郡山市はここまでデカくなったのだ。
その郡山市中田町柳橋には、桧枝岐歌舞伎とならぶ 「柳橋歌舞伎」 がある。  私は歌舞伎に興味はないが
郡山市の重要無形民俗文化財に指定されているそうな。  興味のある方は検索で調べられたし。

「迷走する瞑想集633」 2017/03/11

しかしよく考えてみると、長崎市の案内標識の親切さは
観光バスが入れない狭い道に、名所旧跡が点在しているのと関係があるのでは・・・と思い至った。
観光バスが入れないから、ガイドさんの後にゾロゾロと、という具合にはどうしてもいかない。
なんでかんで個人の足で、そこに行かなければならないのだ。  せいぜい利用してタクシーだろう。


個人の足ということになれば所持しているのは、まずパンフレットのポンチ図であろう。
しかし一本道でもなければ、ポンチ図で現地に到着するのは、まず不可能である。
正確な位置関係で描いていないから。  そこで、どうしても路上の案内標識が頼りにされる。
あれは、必要に迫られた結果だったのだ・・・と私は結論付けたが、本当にそうかは保証の限りではない。


翻って県内の案内標識の不親切さは、実際に設置した者が不案内な旅行者の目でチェックしないため
もっと言えば、実際に自分で歩ってみていないから 「これで行けるはずだ」 と自己満足してしまう。
車の案内標識なんて、地元の運転者は鼻で笑って馬鹿にしている。  「あの通りに行ったって
絶対、途方に暮れるに決まってる」 と。


かといって観光案内所がどこにあるか、即答できる郡山市民が何人いるのか?
観光案内所は郡山市民には必要ないものだから、関心を持てというのが無理なのだが・・・・。
それから言えば、案内標識だって地元民には何ら必要なものではない。  地元民に必要とされないから
市役所も本気を出して考えない。  「ないよりは、あったほうが・・・」 程度なのだろう。


市民税を収める人を優先するのは、ある意味仕方のないことだ。  その結果
市外から来た者が途方に暮れる案内で、お茶を濁している。  幸いにして
いまはカーナビが優秀だから問題にならないが、歩行者にはカーナビは付いていない。
福島県外からの訪問者にはぜひ、駅のコンビニで正確な都市地図(郡山市)を買い求めることをお勧めする。


郡山市民は車移動が主だから、近くの通行人に尋ねるということもままならない。  それに
広すぎて、市民でも完全に把握しているとは言い難い。  私がいい例だ。  さらに
郡山に住居を定めていても、福島市や白河市に通勤していて、地元に意外と不案内なことも・・・・。
それより前に地元民は、そんな名所旧跡には学校時代以降は行ったことがないのが普通だ。

「迷走する瞑想集632」 2017/03/11

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白河市の本家のお墓に、毎年必ずお彼岸の墓参りに行っていたが、妙関寺内に
ある乙姫桜の咲いたところを見たことが一度もなかった。
それはそうだ3月では、桜にまだ早いのは当然だ。  それが
3月に大震災があった年だけは、1か月遅れて線香をあげに行った。


すると、山門を入って右手の乙姫桜がなんと満開だった。  写真を撮影している
人たちも何人かいた。  私としては、ちょっと得をした気分だった。
時期をずらしたのはこの時だけで、あとは見ていない。  日頃のルーティンを
他の要因により少し動かすと、思わぬ特典があるものだと知った瞬間だ。


私の特徴として電車旅行をする場合、全席指定席を買い求めた上で出発する。
それは万一、自由席が満員で一電車遅らすという事態に我慢ができないから。
目的地に着くまでは、キッチリ予定通り進行するのが快感なので
気ままな旅という文字は、私の辞書にはない。


そのかわり目的地に着いたら、市街図を買って定めない自由行動に移る。  同じようでも
ポンチ図はいけない。  あれは距離感がつかめない。  細い路地も書き込まれてはいない。
幾つ目の角を曲がればよいかが、まったく判らない。  長崎市ほどの案内標識が完備してれば別だが。


長崎市だけはポンチ図片手に、オランダ坂を見つけられたし、異人館にも行けた。
橋の存在しない思案橋にも、路面電車の一日乗り放題を利用して正確に行けた。
長崎市内だけは、道に迷う心配が皆無だったことを報告しておく。  不幸にして別な路地に迷い込んでも
電車のレールのある道に、また戻ればいいだけだ。


話を戻すが、キッチリと到着までの予定を立てているから、着くまでの間の時間はあまり記憶にない。
せいぜい乗り換えの合間ぐらいだろう。  経験上避けたいと思ったのは、飛行機から
電車指定席への乗り換えだ。  飛行場は電車の駅から離れたところにある。  だから移動時間が不確かだ。
さらに飛行機の到着時刻の遅れは、電車の正確無比さとは比較にならない。


これで過去に、飛行場からのバスが渋滞にはまり、電車の指定券をふいにしたことがある。
数十分あとの電車で難なく目的地にはついたが、私の機嫌ははなはだ悪かった。
間に飛行機を挟むことは危険この上ない、とその時確信したのだ。


こんな塩梅だから、宿を予約しないで出かけるなんてことは論外だということは、お判り頂けると思う。
私は流浪の民の生活が長かったせいか、泊まる場所が確定していないと不安でしょうがない。
目的地の駐車場が空いている保証もないのに、車で旅行に出かける計画などは、寒気がするだけだ。


一番頼りになるのは電車と自分の足、二番目が現地のタクシーだ・・・と私は固く信じている。
私は外部要因による計画の乱れを、殊更に嫌う性格のようだ。  こんな人物を
実質的作業を部下に任せてしまう役付けに推薦するなどということは、本人のためによくない。
それよりは気ままな旅を容認できる人物をこそ、推薦すべきだろう。  ノイローゼにしたいのなら別だが。

「迷走する瞑想集631」 2017/03/10

自分が実は大酒飲み(つまり酒に強い) の部類だったことは、課や部の宴会から離れて初めて実感した。
それまで酒を飲むということは、忘年会や送別会それに暑気払いの宴会と同僚らとの飲み会ぐらいで
「自分は皆の平均値ぐらいしか飲んでいない」 の自覚だけがあった。


ちなみに、私がいた職場とは技術者ばかりで、宴会をやると会場の飲み屋の在庫をほぼ空にする勢いがあった。
そして、どこに移動したとしても状況に変わりはなかった。  それはそうだ、同じ職員たちが毎年
入れ替わっているだけなのだから。  つまり私は、平均値そのものが異常に高いことに気付いていなかった。


だいたい大酒飲みは、エンジンが温まるとつまみにほとんど手を付けなくなる傾向がある。
しかし私は育ちがいいもんで、出た料理のほとんどを片付けるのが流儀だった。  だから
早々に自分の席を立ったりはしない・・・が、お銚子を持って回ってくる奴は必ずいる。


私は食べるのに忙しいのだが、話の相手もしてやらなくてはならない。  私はそこまで無作法な人間ではない。
そうしてあらかた食べ終わると、私も外遊の旅に出て、会のお開きまで帰ってしまうことはなかった。
そんなことをすれば、翌朝に必ず誰かが覚えているから。


かくして私も、平均値程度には飲めるようになった。  幼少から梅酒で少しは鍛えてはいたし・・・・。
しかし私は、実は個人的な話をしたいのではなく、福島県民に酒に強い人間が多いという風評に対して
たんに 「お前の県のレベルが低いだけだろう!」 と反論してやりたいのだ。


宴会で飲む機会が多くなれば、自然と個人の飲酒レベルは平均値並みに引き上げられる。
しかも、宴会を断ることが許されないとなれば尚更だ。  判るだろうか?
飲酒レベルが全体に低いということは、「そもそも宴会が成り立ちにくい県」 だということだ。


ひとりで飲んでいるだけなら、飲酒レベルは強制的には引き上げられない。
年齢の幅のある 「宴会」 だからこそ、半強制的な引き上げが可能になる。
そして別な飲み会に出た時に 「お前、酒が強いなあ」 と呆れられるのだ。


ただし、これは名誉とは何の関係もないことは注意しておく。
たんに、アルコール燃焼機関の効率がかなり悪い、というだけなのだから・・・・。
ストレートに言えば 「酒をドブに捨てている」 となり、非会費制飲み会(つまり精算払い )の癌だ。
会費制でも、追加徴収の恐れがなくはないし。  いれば、会は盛り上がるだろうが・・・・。

「迷走する瞑想集630」 2017/03/09

「それでも、大阪や広島は物騒だろう」 と反論するかもしれない。  しかしそれを言ったら
わが郡山市でさえ昔は 「東北のシカゴ」 と呼ばれていた時代があったことを忘れている。
私の高校時代に、駅前のアーケードで拳銃を撃ち合ったなんてこともあったらしいのだ。
しかしその後郡山の世帯数が、それが原因で激減したとの話も聞かない。  いまも人口は着実に伸びている。


実際に現地をあまり訪れないから、憶測と限られた画面しか見られないから、恐怖感が消えないだけだ。
いったい福岡市民は、すべて防弾チョッキ着用で街を歩いているのか?  そうではあるまい。
博多の豚骨ラーメンの屋台には、すべて防弾ガラスが張り巡らされているのか?  そこまで言えば
いくら無関心な貴方でも、おかしいと気が付くはずだ。


テレビのニュースは、事件が起こった時のことした流さない。  あとの何もない99パーセントの時間は
ニュースになりえない。  そこを判らないと、年がら年中事件が起こっていると勘違いしてしまう。
もし本当にそんな状態が続くなら、街はもぬけの殻になっているはずだ。  別に市民は
拘束されてはいないのだから。  移動禁止の戒厳令も出されてはいない。


もし市民を相手に戦争などおっ始めたら、市民はこぞって警察の次に自衛隊の出動を要請するに違いない。
それだけの信頼関係は、少なくとも被災県では十分にあると思う。  だから市民には手を出せない。
「でも、不安感が消えない」  それは、貴方が消したいと思ってないからだ・・・とアドラー先生なら
喝破するだろう。


不安のままでも、自分には影響がないと思うからそのままにしておくだけだ。
どうせ自分は行かないだろう街のことなんか、どんなポンチ絵だろうと平気でいられる・・・そういうことだ。

「迷走する瞑想集629」 2017/03/09

むかし茨城県のつくば市に、全国の農業土木技術者が集められて研修会をやったことがある。
メインは国の技術者だが、それと同時に各県からも参加して(させられて) いた。
国は国、県は県同士でよく話をしていたのだが、ある時 「山形県の奴がなんとなく怖い」 と
関西人が言い出した。


隣の福島県代表である私から見れば、どこにでもいそうな普通の若者であったが
たしかに口数は関西人より少ないし、しかも山形訛りである。  髪も短かったように思う。  しかし
彼を怖いと感じるならば農村が仕事場の我々は、いっさい東北の農村に入っていけなくなる。


それを言うなら、東北人から見て 「大阪人がいちばん怖い」 と言い返してやりたかった。
これが偏見であるのは充分承知している。  しかしテレビから流れてくる芸人のガラの悪い関西弁は
関西人に対する種の恐怖感を植え付けるに充分である。  大阪の皆が、あんな喋り方をしていないことは
学生の時、同じ研究室にひとり大阪人がいたからわかる。  「結局、何が言いたいんだ?」 だったが。


意思を伝えるのに大阪人は、東北人に比べて無駄な言葉が多すぎると、逆に感じたものだ。
しかし大阪人から見ると、「吠えない犬は恐ろしい」 なのだろう。  別に東北人は
土佐犬やマスチフとは違うのだが・・・・。  私は花菱アチャコや浪花千栄子の、京都弁より温か味のある
大阪弁をまだ覚えている。  結局、それを聞きたかったら大阪に出向くしかないのだろう。


漫才師の喋り方は、あくまで特殊なものなのだが、それを一般的な話し方と勘違いしてしまうことから
大阪人に対する普遍的な恐怖感が、なんとなく生まれてくると私は思う。  おそらく恐怖の二番手は
広島人かと思われるが、これも映画の影響がかなりあると思われる・・・不幸なことだ。


下宿にいた若き広島人は 「サシスセソ」 の発音が多少怪しい以外は、ごく普通の人間だった。
もし取っ組み合いの喧嘩をやったら、真っ先に降参してしまうタイプだったし、たぶん岡山人には負ける。
結論として我々は他国人を見る場合、特殊な遮眼帯で判断している恐れが多分にある。  だから結局は
現地を訪れるしか真実の姿はつかめない・・・ということになる。


街の雑踏をしばらく歩ってみれば、本当の話し言葉がいくらでも耳に入ってくる。
それでも恐怖感が拭えなかったら、貴方はその街と徹底的に相性が悪いのだろう。
もし居心地が悪いと感じるなら、それは貴方がお客様に過ぎないことを忘れているからだ。

「迷走する瞑想集628」 2017/03/08

あくまで個人的感想だが、我々福島県の中通り人は
会津人の頑固なしびらっこさ(執念深さ) に負けるかもしれないし
浜通り人のあけっぴろげな押しの強さにも、かなわないかもしれない。  だからこそ


これら両側の人たちから見て、中通り人は 「なにか油断のならない奴」 と見えるのだろう。
これは否定せず素直に、誉め言葉として受け取っておく。  なんといっても平成29年2月現在で
福島県の人口190万人のうち、116万人が中通りに在住している。  全人口の61パーセントが
福島県を南北に貫くこの回廊地帯にいるということだ。


たとえ人柄がいけ好かなくとも、たとえ海がなくて観光資源にも乏しくても、この数字が
すべてを物語っていると思う。  福島県はドン詰まりの県なのではなく、往来されるべき県なのだ。
「来る者は拒まず、去る者は追わず」 が、この県には似合っていると思う。


ただし県土は広いから、通り過ぎるにはそれなりの時間を要する覚悟をしろよ・・・と、そういう事だ。
そして川の流れがまちまちなごとく、地域の人の性格も微妙に違っている。
会津の川は西に向かって流れるが、浜通りの川は東を目指し、中通りの大河は南と北へ向かって流れる。


「福島合衆国」 という言葉が、あながち誇張ではないことがお判り頂けただろうか?
福島競馬場という有数の競馬場がありながら、会津の男どもは新潟競馬場に行き
県の南部はどちらかというと競輪に興味がある。  いわき平競輪場なんてのまであるし。


福島市や相馬地方では馬が大活躍していながら、会津地方では馬肉(桜肉) が名産であるし
桜前線が浜通りでは常識通り北上するが、中通りに入ると逆に南下して、最後に会津に入る。
この頭が混線しそうな状況に何ということなく暮らしていけるのが、福島県民なのである。


だから広すぎる県土というのも、あながち悪くないのかも・・・・。  ただし
他地域の事はほとんど関心の外だから、合意形成などはかなり難しかろう。  もし、お山の頂上で
旗振りなどやった日には、確実に他市町村から何かが飛んで来る気が・・・要するに親分不在なのだ、この県は。

「迷走する瞑想集627」 2017/03/08

大震災の後、東京電力福島第一原子力発電所が爆発事故を起こし、その後すぐに私が
県外に避難しなかったのは、政府発表の 「とりあえず危険ではない」 を素直に信じたからではない。
まして、放射能の危険度を自ら判定する知見など持っていなかった。


私が居住地を動かなかったのは、県外に両親共々転がり込む当てがまったくなかったのと
もう引っ越しはコリゴリだという個人の事情と、周りの家が意外と落ち着いていたせいであった。
これが、バタバタと車に荷物を積み込んで、次々に避難するのを見ていたら、あるいは
私もどうなっていたかは判らない。  車には300kmほどは走れるガソリンが残っていたし。


だから、サッと県外に避難できた人々を、決断力のある羨ましい人だと思いこそすれ
敵前逃亡者などとは考えもしなかった。  県外に避難するということは、今までの生活一切を
一からやり直し始める覚悟がいる。  私には、そんな気力は残っていなかった。


しかしながら、強制的に避難させられ 「取りあえずここに住め」 と宿舎をあてがわれたなら
黙って従ったのはほぼ間違いない。  もともと家は、流浪の民だったから。
で結局6年間、福島県を出なかった。  放射能の安全知識は、恥ずかしながら後付けに過ぎない。


結果的に私は賭けに勝ったことになる。  両親はその後、自分の家で事故のことなどまるで忘れて永眠した。
タイミングよく、除染で庭がきれいになっていたし・・・・。  困ったのは
市民の急増で、市の霊園がパンク状態にあったことぐらいだ。  葬儀日程のネックに必ずなる
火葬場の空きの状態は、2~3年前からフル稼働できるようになったようだが。


で、ここから本論。
「勝負は、棺桶に片足突っ込むまで判らないぞ」 という私の好きな言葉がある。
「爆撃機の飛行士は、高射砲が命中する寸前まで、進路を変えてはならない」 というのも含蓄がある。
要するに、我慢比べだ。  東北人はトロいと陰で言われるが、我慢比べならピカいちだろう。


戦闘機乗りはヒラリヒラリと敵をかわすことが身上だが、爆撃機乗りは爆弾を命中させなければならない。
だから身をかわすのは必要最小限でなければならず、そして作戦の要は、一にも二にも爆撃をする事であって
戦闘機を撃墜することは、あくまでその補助でしかない・・・ということをよく考えてみるべきだ。


生涯何十機かを撃墜した撃墜王であろうと、相手の戦闘機にはたった一人しか乗っていない。  つまり
殺傷能力は数十人にとどまるということだ。  これは爆撃機の一回の出撃時にも劣るだろう。
何を言いたいかというと、身の軽さだけを誇っているなら、傍流に過ぎなくなるということ・・・要は
長いタイムスパンの果ての、最終的な 「結果」 がすべてなのだから。

「迷走する瞑想集626」 2017/03/06

「あ~あ、うちの畑にも道路が通んねえがなあ」 と待ちぼうけ状態の農家も、なかにはあるかもしれない。
高速道路ならなおのこといい。  買収単価が県道なんかより、はるかに高いし。
と言う一方で今度は、「先祖伝来の土地は1平米も売らね」 と、契約書に判子を押さない農家もある。


結局は売ることになるのだが、その際の納得の仕方は 「公共に利益に奉仕した」 これである。
「皆の利便性が向上する道路に、うちも協力させてもらった」 これは胸を張って自慢できる言葉である。
所詮、買収金額の多寡などは表立って他人には話せない。  中には自慢する奴も、いないではないだろうが。


これはダムで沈んでしまう集落にも言える。
ダムは河川の最適地に設定するのが鉄則である。  道路のように、安易に迂回することは許されない。
そこがだめなら、もっと上流に・・・とはいかないから、造るか・造らないかの二者択一である。


立ち退き拒否の家が一軒でもあれば、工事にはかかれない。  水没させることは人道上できないから。
その場合の最終的殺し文句は、おそらく 「下流の人たちを救うために、立ち退いてくれ」 だと思う。
実際ダムができることによって、下流の洪水被害が防げるとしたら、それでも反対するのは寝覚めが悪い。


その家の家長には、自分の一軒と下流の何千軒かを比較して承諾したのだ・・・という自負が残る。
そしてその自負は、「補償金だいぶ貰ったんだろう?」 の陰口にも、退去者の心を支え続ける。
補償金の多寡は憶測にすぎないが、一切を捨てて立ち退いたのは紛れもない事実だから。


山と金を積まれようと、自分の土地に住み続けることができるのは、当然の権利である。
その権利を放棄して立ち退きに同意したことに、称賛はあっても難癖をつける行為は間違っている。
しかし今回の原発事故後の強制避難では、避難民がこの 「自負」 を持つことさえ許されなかった。


そして町の入り口の道路はいまもなお封鎖されている。  自分の家に行くのでさえ、特別の許可がいるのだ。
これは理不尽なことである。  そして理不尽なことは、速やかに解消されなければならない。
その上で、町に戻るか・避難先で生活を続けるかは、各個人が選択すべきことなのだ。


避難は強制だったが(帰還困難区域)、帰還は強制ではなく任意である。  しかし
封鎖が続いている限り、その 「選択」 すらできないのが現状なのだ。  もし
自分で選択したくないがために、選択の幅を自ら狭めているとしたら、その考えは本末転倒である。


逃げろとは言われないのに率先して避難して行った自主避難者は、まさにこの状態であろうと思う。
あの当時の不安感は、連日放射能プルームの下にいると放送され続けた当事者でないと理解できまい。

「迷走する瞑想集625」 2017/03/05

県内の名産を他県の人に自慢するためには、幅広く他県産の銘菓も味わっておかねば
進めたあげく、「たいしたことねえな」 と言われたのでは立つ瀬がない。  というか
怖くて自信を持って他人に推薦できなくなる。  だから例えば


福島県をほとんど出たことがない人に、「貴方のとこの名物は何ですか?」 と聞くのが酷なのだ。
県内に居てそれしか食べたことのない住民にとって、胸を張って 「食べてみてください」 と
太鼓判を押す拠り所が、そもそもないのだから。  「これしかねえよ」 とは言えるが・・・・。


独りよがりは、好結果が必ずしも付いてくるとは限らない、と全国展開する場合は心にとめるべきだ。
そこへいくと、福島県の日本酒は健闘していると言える。  灘や伏見を差し置いて入賞している。
近年、年寄りが焼酎のお湯割りに流れ、若者も浴びるほど酒を飲まなくなってきている。


こういったジリ貧の中で、起死回生の策に打って出たのが例の 「大吟醸」 であろう。
私も飲んだことがあるが、冷やで飲むとまるでワインのような感じがした。
残念ながら私の場合、値段の点でペットボトル入りのウィスキーに軍配が上がっているが。


それでは本物のワインならどうかというと、むかし晩酌に飲んでみたことがあったが
一本が一日でなくなってしまう。  口当たりはいいのだが、アルコール度数がよろしくない。
ガラス瓶が何本もたまるのは、世間体が悪いので早々に諦めた。  モーゼルワインの白が好みだったが。


とにかく、味は個人の好みでもあるから、絶対に売れるかどうかは生産者でも予測がつかない。
販売者が、すべての競合品を試食している訳でもないし。  正式に 「味の日本一」 で決めてもらうのが
もっとも手っ取り早いであろう。  たとえ入賞を逃しても、名前は全国に知れ渡る。


とかく福島県人は、他人を蹴落としていくのが好きではないから、どちらかというと不利なのだが
過去からの伝統に縛られない身軽さも、また併せ持っていると思う。
東北人が変化を好まないのではなく、逆に都会人が伝統にどっしり胡坐をかいているのが現状なのだ。


例えば東京は、「都市の発展」 という金科玉条に支配されていて、もはやハンドルを切ることができない。
変化の速さが、逆に個人の試行錯誤の余裕時間を奪っている、ともいえる。


今後新しいことは、むしろ地方から生まれてくるのかもしれない。  そのためにも
東京の後を追うことをキッパリやめて、自分たちの未来像を描けなくては話にもならない。

「迷走する瞑想集624」 2017/03/05

なぜか違和感が奥歯に挟まったような過去の発言を、もう一度考察してみる。
徳島人が言った 「徳島は美人が多いぞ」 には、なにか矛盾を孕んでいそうな気がする。
本当に美人が多かったとしても、生まれてこの方大勢の美人たちに取り囲まれて育ったのなら
もはや当初の 「美人の顔」 は、「普通の顔」 に変化しているはずだ。


なぜなら、毎日毎日美人の顔に感動などしていたら、疲れてしまうだけだから。
普通は、感動のレベルが日々減少してゆき、普段の暮らしでは特段心は動かされなくなるだろう。
だから秋田県出身者の男性は、「秋田は美人が多いぞ」 とは話題にしないのだ。
それに飛びつくのは、県外の男性だけだ。


では、この徳島人は十八年も徳島に住み続けていながら、なぜこの発言が口を突いて出たのか?
負けず嫌いからか?  しかし、この発言の場で自分の県の美人の話をした者は他にはいない。
長らく徳島県を離れていたのか?  そうであれば感動は新鮮であろうが、その設定にも無理がある。
高校卒業まで、他県を転々としたとは考えにくい。  正真正銘の徳島訛りだから。


方向を変えて、なぜ彼の感動が十八年間も持続しえたのかを考えてみたいと思う。
考えられることは、美人の数は実はさほど多くなく、鉢合わせした感動が数か月に一辺ぐらいなら
充分感動は持続できるはずだという仮説。  摩滅の速度がゆっくりだから。
これは同じ四国出身の者が、なんら助け舟を出さなかったことでも証明できる。


もう一つの仮説は、一人の女性に目が眩んで、他の女性をよく見ていなかった可能性である。
当然、自分の彼女は美人に映るだろう。  この仮説も実証済みである。
広島出身の奴の高校卒業アルバムをみんなで見ていた時、「彼女は奇麗だ」 で皆が一致したのに
その男だけは 「いや、こっちの方がいい」 と頑張って譲らなかった。


その指が指し示していた写真が、高校時代の彼女だった。  我々は
「なんで、こっちの方が断然いいだろう。 今からでも乗り換えろ」 と説得したのだが
頑固で話にならなかった。  恋は盲目、とはよく言ったもので
舞い上がった男の視力など、あてにならないものだ、ということで一致して解散になった。


最後の仮説は、年一回の阿波踊りの時に奇麗どころが集合し、それを見た印象が固定されたというもの。
これも十分考えられる。  特に阿波踊りの女性陣は、顔の上半分を編み笠で隠している。
鼻と唇しか見えず、しかも蹴り上げて着物の裾から脛がチラチラと・・・これは青少年にははなはだ毒だ。
こんなのを毎年見ていたら、あるいは 「徳島は美人が多いぞ~」 になってしまうかもしれない。

「迷走する瞑想集623」 2017/03/04

学生時代の下宿は、私が入る前に総入れ替えをやったみたいで、全員が同期入学だった。
そして出身地も、辺鄙な大学の例にもれず西日本の広範囲に及んでいた。
これは、その中の徳島県出身者の話である。


「徳島は美人が多いぞ」 と、ほかの下宿人の前で言ってしまったのだ。
「自分でそれを言うか?」 「目が悪いんじゃないのか?」 いろいろ言われたが、彼は譲らない。
私は行ったことがないから、黙って聞いていた。  「それが本当なら、他県から言われるのが筋だ」
とは、頭の中で考えていたが。  「高校の彼女が、よっぽど奇麗だったのだろう」 とも。


徳島と言えば、阿波踊りぐらいしか知らない。
「踊る阿呆に、見る阿呆」・・・なるほど、平時にも阿呆に近くなってしまうのか、と彼に同情した。
これが就職して何人かの秋田県出身者と仕事をしたときには、ただの一言も
「秋田には美人が、わんさかいるぞ!」 とは言わなかった。  奥ゆかしい性質だったのか?


それとも、過去に嫌な思い出があったのか?  それで皆、福島県人と結婚したのか・・・・。
性格的には、秋田県人は東北六県の中でもトップクラスの陽性気質だと、私は思う。
酒を飲んだら、さらに拍車がかかるし・・・・。  それとも、周り全部が美人しかいないため
一種の不感症になっていたのか?  目が環境に順応してしまったとか・・・・。


だとすれば、もったいないことだ。  どんどん女子を全国に輸出すべきだ。
そして、他県の男を捕獲して秋田県に戻れば、高齢化率は劇的に下がるはずだ。
最初から人を呼び込もうとするから、なかなかうまくいかないのだと、私は考えている。
そこへいくと福島県の女子は、この捕獲行動が身についているように見える。


東京だろうが大阪だろうが、当地の男性と結婚をし、苗字を相手に合わせながら、結果的に
家族そろって福島県に移り住んでしまう。  つまり、嫁の実家の近くにということだ。
さらにエスカレートすると、旦那の両親まで実家を引き払って福島県に・・・ということも。
何といっても、福島県は土地が余っているから、大都市の家を売り払ってもおつりが出るだろう。


加えて、嫁の実家なるものが大都市の家に比べて格段に大きい。
大体は、二世帯同居を前提として建てているから、老夫婦だけになってしまうと部屋が余ってくる。
農家になるとさらに家は広くなり、しかも駐車スペースが半端でない。
だから農家の息子は、アメリカ製のでかいワンボックス車を平気で買うことが可能なのだ。


「福島に移り住んだら、給料が安い仕事しか・・・」 そうであっても、生活費が大都市に比べて
安上がりなのも事実だ。  通販をバンバン使えば別だが・・・・。
災害にあっても広大な県土だから、逃げる所などいくらでもある。  しかも県は三分割されているから
三地域同時に被災することは、まずないと言ってよい。


「あなた、退職後のことを考えたら福島のほうがいいわよ」 とか耳元で囁かれて、それでも
抵抗し続ける自信が、貴方にはありますか?
福島の若い女性には、くれぐれも気を付けたほうがいいですよ。
「肉を切らせて骨を絶つ」 の極意ですから・・・・。

「迷走する瞑想集622」 2017/03/03

『南部美人』 は岩手県の日本酒に過ぎないが、それでは岩手県には美人がいないのかというと
そうとも言えない。  かといって、隣の秋田県が全国に名だたる美人の産地のため
どうしても陰に隠れる感は否めない。  しかし私は、秋田県にだけは入ったことがないので
どうこういう立場にない。  湯瀬温泉には行ったが、かすった程度である。


で、岩手県に話を戻すと、だいぶ前に岩手県出身の女性が採用になって、同じ庁内にいたことがある。
それがすこぶる可愛いかった。  巡り巡って同じ事務所に配属になった時点でも、際立っていた。
しかし話の主眼は実はそこではなく、彼女の行動だった。  大勢で記念写真を撮るときは
彼女は常に真ん中の位置を占める。  どの写真を見てもそうだ。


集合写真の場合、注意して見ると列の両端に行くほど歪みが大きくなる。  それを目立たなくさせるのが
写真屋さんの腕なのだが、レンズの性質上中心部が一番歪みが少ない。  先ほどの彼女は
常にこの位置を逃さない。  誰しも女性なら、真ん中で写ろうと心の中では願っているだろうが
どうしても遠慮が出てしまう。  まして男が多い職場だし。  それでも彼女は当然のごとく・・・・。


これが単に個人差なのか、あるいは県民性の差なのかは、いまだに解らない。
ちなみに男の職員も知っているが、逆立ちしても美顔(今ならイケメン) とは言い難い。
だからなおさら、印象が強烈だったのだろう。  はたして南部美人は、本当に岩手県に生息しているのか?
この答えの回答を得るのは簡単なこと、8月に盛岡の 「さんさ踊り」 に新幹線で駆け付ければよい。


そこで太鼓の叩き手たちが軒並み美人だったら、もはや何もいう事はない。
・・・と、毎年考えながらいまだ実現していない。  新幹線の切符を取るのはたやすくても
問題はホテルの空きがあるかどうかなのだ。  パレードは日中にも行われる、ここがポイントである。
青森のねぶたや、秋田の竿灯の舞台は夜である。  私は簡単ではあっても、ストロボ撮影を極力やりたくない。


ところで、岩手の女性職員とは移動のあと一度も顔を合わせていない。
初期のイメージを保存するためには、かえって好都合だとさえ思っている。
なんでも、すでに福島県人に捕獲されてしまったらしいとか・・・・。
あるいは逆に、北からの侵略を許してしまったのか?


いま思い出したのだが、秋田出身の女性職員もひとり知っていた。
当時としてはなかなかの人気を誇っていて、自分から挨拶で
「秋田出身です!」 と豪語してたぐらいだし。
・・・これもブランド力の差なのか。

「迷走する瞑想集621」 2017/03/02

映画 『マッシュ』 の後半に、米陸軍部隊と(賭け)フットボールの試合をする場面がある。
試合の前半はコテンパンなのだが、なかでも足の速い1番選手に悩まされていた。
それで、あいつを棄権させようという訳で、医師たちのチームが一服盛ってしまった。
具体的に誰がやったのかは、よく判らないのだが44番の選手だ。  ホークアイとは番号が違う。


選手が折り重なった隙に腕に注射するのだが、その前にちゃんとアルコール脱脂綿で消毒している。
ここいら辺はさすがに医師だ。  最近のスパイ映画なら、そのまま迷わず首にブスリだ。
で、首尾よく1番をフラフラにさせるのだが、ここで私は考えてしまった。
昔から毒薬を用いるのは女性が長けている、とアガサ・クリスティも言っている。


まして競技場の周りには、看護婦たち(当時の呼び名で) が応援でハイになっているし。
たとえばホットリップスあたりが、アルコール局所麻酔の注射器を味方選手に手渡したら・・・・。
当然怪我人が出るのが当たり前の競技だから、フィールドには何本か持ち込んでいるはずだ。
あのまま俊足の選手に頭を抱えていたならば・・・あるいは 「これを使いなさいよ」 と。


無邪気に応援していたチアガール(これも看護婦) だって、怪我人が多発した後半で
一応救護しながらも、「アラ、骨折してるわ。 動かさないように場外に運んで」 とか
相手選手を片っ端から欠場にしていたら・・・どうせ相手はバリバリの戦闘部隊だ、解るわけがない。
もし 『マッシュ』 のリメイク版が作られたら、おそらくこうなるはずだ(なってほしい)。


ところで映画には薬剤師が登場してこなかったが、もし薬剤師まで絡んでくるとなると
映画はサスペンスの様相を帯びてくる。  ホラー映画にまで一歩踏み込むかも・・・・。
医師と看護婦は患者を助けるもの、という了解のもとに我々は映画を鑑賞していたが
戦場のすぐ近くの野戦病院で、はたして厳密にこの同意事項が守られるのかどうか?

「迷走する瞑想集620」 2017/03/01

あの放送(福島をずっと見ているTV)だけを見た人は、郡山市民がミスピーチに選ばれているという事実から
「ミスピーチとは、福島県全体のキャンペーン・ガールなのだろう」 と思い違いをするはずだが
例えば、郡山市では桃は栽培されていない。  栽培されていたとしても、全然有名ではない。


だから郡山市民は、「がくとくん」 を郡山市のイメージキャラクターだと思うと同じように
「ミスピーチ」 を福島市のイメージキャラクターだと考えている。  つまり他人事だったのだ。
あれがもし、10名のミスピーチのうちの福島市在住の女性が(確率は高くなる) テレビに出たのなら
少なくとも県内の反応は違っていたかもしれない。


福島市民は欣喜雀躍するであろうし、他市町村民は 「フ~ン」 という感じなはずだ。  少なくとも
ローカル放送だったら間違いなく、福島市出身のミスピーチを登場させたであろう。  なぜなら
「福島の桃の宣伝娘」 なのだから。  しかし今回全国放送で、あえて郡山出身者を登場させた。
これにより、郡山市民もシカトできなくなってしまった。  戦略的には、なかなかいい線を行っている。


しかしまだ、浜の住民と会津の住民は 「蚊帳の外」 の感があるはずである。
「お前らは県内で、なにをゴチャゴチャ言ってるんだ?」 この指摘は県外の人から見れば当然である。
彼らには、福島県を一塊の地域としか見えていない。  だが実相は、「福島合衆国」 なのである。
時間こそ統一時刻だが福島県にも、アメリカと同じように「西部地域」「中部地域」「東部地域」が厳然とある。


で、ここからが本題。
ミスピーチが10名により構成されていることは、前に紹介したとおりであるが
これに対し、郡山市の 「ミスうねめ」 は6名である。  4名の差がある。  それでは
母数になる市の人口ではどうなるか?  平成27年国勢調査の確定値で、福島市は29万人。
郡山市は33万人である。  少ない人口から


より多くの年頃の美人を選出しなければならない福島市は明らかに不利である、とならないか?
「結局なにを言いたいんだ?」 「郡山市民は敵に、塩でも美人でも送る鷹揚さがあるってことさ」
「お前、番組の主旨と全然違うことを考えているな」 「だから、郡山では桃は作っていないと言ったろう」
「そうじゃなくて、風評被害のことを話し合っているんだろうが」  「加害者は共犯者を作りたがる」。


タスキにまで 「福島の・・・」 と明示されていて、どこの桃か知らずに食べたなんてことはあり得ない。
バックの垂れ幕にまで、しつこいほど福島の字が躍っていたのだから、さほどに 「放射能」 に敏感な人なら
その字を見ただけで 「お試し」 には手を出さないはずだ。  つまり、その人は行動の前半と
行動の後半との整合性が全く取れていない。  ということは 「行動を見せつける」 ための行動だったのだ。


「お前、郡山の美人が絡んでくると踏み込んだ発言をするねえ」。

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