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2017年2月

「迷走する瞑想集619」 2017/02/28

「ミスピーチは桃のキャンペーン・ガールである。  桃は福島市とその周辺が産地である。  ゆえに
ミスピーチには、福島市とその周辺の女性が選ばれるはずだ」  と三段論法で納得していたのだが
2月27日の番組 『福島をずっと見ているTV(NHK・Eテレ)』 ではなんと
犬猿の仲である郡山市出身の大学生が、ミスピーチの一員として出演していた。


これは番組内容よりも、我が目を疑った。  番組内容は、福島県在住者とすればもっともである。  しかし
JR福島駅で乗客に桃を配る風景をテレビで何度も見ており、ミスピーチに福島市や伊達市以外から
それも仇敵である郡山市から選出されたのを見てしまって、もしかするとミスピーチは
福島市のキャンペーン・ガールではなく、福島県のキャンペーン・ガールだったのか?  と疑ってしまった。


なるほど調べてみると、「福島県くだもの消費拡大委員会」 が採用している。  しかし事務局は
福島市役所の農政部農業振興室にある、となっている。  やっぱり福島市がバックじゃないか。
ちなみに、郡山市のミスうねめは全員郡山市在住者である。  「福島市は心が広いんだ」 そうだろうか?
かのミスピーチの通う大学は、福島市内にある。  おそらく、郡山からの電車通学であろうが。


であれば、一日の大半を福島市内で過ごすのだから 「福島市民と見做そうじゃないか」 というわけで
採用になった経緯が、もしかするとあるかもしれない。  大体にして、会津娘やいわき娘が未だかつて
ミスピーチになったことがあるか?  ミスピーチはあくまで、ローカルなキャンペーン・ガールだったのだ。
それが全国版テレビのおかげで、福島県を代表するキャンペーン・ガールになってしまった。


米が主力の会津とすれば、混ざりたくても混ざれないだろうし、浜通り地方で梨は聞いたことがあるが
桃は聞いたことがない。  県南地方でも、リンゴは聞いたことがあるが、桃は聞かない。
福島県知事とすれば、ミスピーチを全県的に利用するのかしないのか?  反響の大きさに、迷う所ではあろう。
キビタンよりははるかにインパクトが強いはずだ、と私は感じるが・・・・。  いま揺れた。

「迷走する瞑想集618」 2017/02/28

2月は、他の月より2~3日短い。  これは、時間が早く過ぎるから楽しい・・・と思えたのは
就職前までで、就職後は 「年度末の作業時間が確実に減る」・・・と感じるようになった。
技師職員は、年度予算を変更設計でキッチリ消化し、3月の竣工検査に備えなければならない。


さらに次年度の、年度執行計画を作成し且つ、新年度早々の早期発注の設計書の準備にも取り掛かり
その合間を縫って、転出者の送別会と引っ越しの手伝いと、気の休まる暇もない。
その上自分が転出者にでもなったら、引き継ぎの書類を作成し且つ、新任地での引き継ぎも3月中に
終えていねばならない。  4月1日になれば、前任者は席にいなくなるから。


一切の年度の仕事は3月31日で終了しなければならず、はみ出しても許されるのは
検査の終わった設計書を工事代金の支払いのために、出納に回す作業ぐらいしかない。
忘れていたが、団体営事業(事業主体が市町村等) を兼務していれば、それらの確認検査も
3月中に終わっていなければならない。  いま考えても


どうやって切り抜けたのか記憶が定かではないほど、いちばん思い出したくない季節だ・・・ということだ。
だから、こういった絶対期限付き仕事から解放される 「役付き」 は、いわば技師連中の憧れの的だった。
そのほかにも、昇給の幅が違うという特典は勿論なのだが・・・・。  ただ技師には
事業地区のすべてを任せるというルール(栄誉? 苦行?) があったのも、また事実である。


さて悪態はこれぐらいにして、本題に入る。
むかし施工業者の現場監督と話をした時に、「工事の前倒し発注は、業者にとってはどうなんだ?」 という
話題になった。  前倒し発注とは、景気刺激のために年度前半に発注を集中させることである。
そしたら現場監督はこう言った。  「年度にまんべんなく発注してもらった方が、うちとしては助かる」。


どういうことかというと、一つの工事が終了した頃に次の工事が発注になるサイクルの方が
人夫を遊ばせなくて済むという、雇い側からの事情だったようだ。  それに、こまめに竣工していけば
こまめに工事代金が入るし、これが、ドカンと大型発注をしてしまえば、工期は長く取れて無理がないだろうが
年度末の竣工まで代金が入らなくなる。  それよりは・・・という事情も、言わないがあっただろう。


さらに、今は現場監督が現場に常駐すべしということになっているから、もし年度の始めに
大量の工事をばら撒かれると、現場監督の人員が不足する恐れがある。  現場監督は資格職だから
人夫の親方を取りあえず当てることはできない。  だから工事が大量に発注されると
人夫の奪い合いとともに、監督資格者の奪い合いも、当然懸念されるのだ。


しかし政治家や事務方には、ここらへんの事情が理解できていない節がある。
とにかく、「大型前倒し発注」 は、一般住民にとっても業者にとっても、悪い事ではないはずだ・・・で
思考が停止している。  「年度の当初にほぼ全額発注してしまえば、技術屋さんもあとが楽だろう」
程度の認識である。  確かに所内作業は、設計書の数が減るし、従って検査の件数も減るから楽にはなる
・・・ように思えるが、役所も 「技師を遊ばせてはおかない」 のは一緒である。


なにかしら新しい仕事が、空いた隙間に忍び込んでくる。
それよりは、年中満遍なく仕事があったほうが、まだよいという考え方は充分成り立つ。
それでなくとも農業土木工事は、田んぼに稲が植わっている期間は(つまり水を使っている期間は)
農道工事ぐらいを除いて開店休業状態である。  つまり発注はしていても、工事にかかれないのだ。


工事前払い金(工事準備の資金) で、業者に一息つかす程度の効果はあるかもしれないが・・・・。

「迷走する瞑想集617」 2017/02/23

逃げるという行為を選択肢に持っていなかった動物は、とっくに滅び去っていたはずだ。
百獣の王ライオンでも、草原が火事になれば一目散に逃げだすだろう。
シロクマでも足元の氷が解けてきたら、あわてて岸へ向かうはずだ。
まして反撃の武器を持たないウサギなら、躊躇することなくその場を逃げ去るに決まっている。


逃げ去っても、それでも追撃の手を休めない相手にだけ、破れかぶれで反撃を開始する。
いわゆる 「窮鼠猫を噛む」 である。  だから 「逃亡」 と 「反撃」 はセットである。
人間社会でも、自国防衛のためなら 「交戦権」 を認められている。


それにプラスして人間には、敵と遭遇する前から相手の危険性を推測する能力がある。
一般に 「リスク予測」 と言われているものだが、これがあったがために、チンパンジーよりはるかに
腕力が弱い人間でも繁栄しえたのだ。  だから、危険を顧みない無謀な人間よりは
危険性に敏感な人間の方が、結果的に多数を占めるはずだ。  そして


人間がすべてのリスクから解放されるのは、厳密には死ぬ時だけで、それまでは
たとえ家に籠もっていたとしても、隕石や飛行機の墜落でペチャンコにされる確率は、完全にゼロではない。
しかし多くの人は、家に籠もったままで居ることはない。  これはどうしてか?


無視しうるリスクと、無視しえないリスクとの発生確率を、自分の境界で明確に分けているからか?
そうでもないだろう。  統計による全体のリスクを、そのまま自分に当てはめようとはしないものだ。
たとえ、交通事故が多発していても、自分だけは事故に合いはしない、と平気で車を出せる。


人間は 「危険性への敏感さ」 と共に 「危険性への鈍感さ」 を、どこかに併せ持っている。
それなればこそ、人間は比較的安心感を抱いて社会で活動できるのだ。  どちらか一方だけなら
おそらく彼の一族は繁栄はしない。  せいぜい落人部落で、ひっそりと暮らすのが関の山だ。


そういう人は、デメリットだけが大きく見えて、メリットと比較してみようとはそもそも考えない。
デメリットとメリットがどちらか一方だけ、という極端な例は現実には存在しないのに。
鎌状赤血球症患者は遺伝的に貧血状態になる病だが、マラリアに対しては驚くほど耐性が高いそうだ。
だからもしマラリヤが絶滅されれば、彼らの正常者に対する優位性はなくなり、減少するかもしれない。


自然はあらゆる方法で、生存を画策するように思えてならない。
動植物は意外とタフだから、今日まで生き残ってこれたのだ。
「考える葦」 の人間でさえも、実は捨てたものじゃない・・・その事が、考える人のパスカルには
及びもつかなかった、のだろう。  もっとも 「自然の前では・・・」 と断っているから
天変地異を想定してのことではあろうが・・・・。

「迷走する瞑想集616」 2017/02/22

私は中学生時代、映画 『マッシュ』 の看板を確かに見たことがある。
それも、中学校を下校してすぐ近くにあったよう気がする。  私は、
登校時と下校時の道を替えていた。  「お前は、狼王ロボか?」 の声が上がるやもしれない。
別に私は、暗殺を警戒していたわけではなく、帰り道は時間の余裕があったからに過ぎない。


で、その 『マッシュ』 の看板だが、なにか卑猥な感じがしたので
なるべくそっちを見ないようにして歩った・・・のであるが、なぜか絵柄は克明に憶えている。
はじめてその映画を見たのは、就職してDVDを発見した時だ。  なつかしい図柄が・・・・。
ともかく時代が違っているから(私の年も)、「なんだ、こんなものか」 という感じだけだった。


時代と場所は、朝鮮戦争時の野戦病院が舞台で、戦闘の場面は出てこない。
腕は確かだが、どこか危ない医者たちの物語である。  そもそも戦争が理不尽なのだから
負傷者を助ける医師たちの行為だけを非難しても始まらない・・・と、この映画は言っているようだ。
それにしても手術の場面は壮絶で、しかも医師と看護師のやり取りは軽妙だ。


技術者の仕事場とは、おおむねあんなものかもしれない。  特に、上役の帰った後などは・・・・。
「手」 と 「口」 が、別系統の指示に従っている、という感じだろう。
無口であろうが冗談を連発しようが、要は手が正確に動いていれば問題ない、ということなのだ。
土木技師が野外で測量をするときなどは、まさにこれである。  「早く読めよウスノロ」 とか
・・・どうせ離れているから、聞こえやしない。


しかし、私も全身麻酔で手術をされたことがあったが、熟睡している周りで
映画のような冗談を言い合っていたのだろうか?  医者に質問したとしても
「助かったんだから、なんでもいいじゃないか」 で終了のような気がする・・・・。


病院伝説に、「手術室にはBGMが流れている」 というのがあった。
流れているとすれば、静かなクラシックかもしれない。
では、モーツアルトの 「レクイエム」 が流れていたら、どうしよう?

「迷走する瞑想集615」 2017/02/21

福島産忌避者は 「福島産」 というラベルだけで反応し、実際に危険かどうかの検証を
自分でやってみようとは思っていない。  だから、県境を越えた生産物には拒否反応は起きないのだ。
こんな人たちに、いくら検査結果(事実) で説明しても無駄である。


かえって彼らは、自分だけが取り残されるのを恐れるから、常に周りを見ている。
だから彼らが福島県産品を食べ始めるのは、事実を知ったからではなく、周辺の同調圧力によるものだろう。
周りに賛同者が誰もいなくなれば、スゴスゴと旗をひっこめるはずだ。


今回 「西日本は安全だ」 と西に逃げた人もいるようだが、最近のデータでは福島県の大部分は
西日本と同等の放射線量しか観測されていない。  彼らの頭の中は、2011年で停止している。
いやもっと言えば、「放射能お化けの恐怖」 に怯えているに過ぎない。


実測データでさえ信用できないのだから、彼らを動かせるのはもはや同調圧力しかない、と私は考える。
現に今も、支援者たちとの同調圧力で動いている可能性がある。  自分で考えるということは
結果の責任も自分が引き受けるということだから、実行はなかなか難しいことだとは思う。


無理にでも食えとは誰も言っていないのにもかかわらず、彼らはなぜ 「自分は食わない!」 と
大声で叫び続けるのか?  そこらへんが非常に不思議なのだ。

「迷走する瞑想集614」 2017/02/21

「今はまだ、福島県の産地表示をしない方がいいんじゃ?」  いいや、そういう姑息で卑屈な態度だからこそ
風評被害から逃れられないのだ(と思う)。  生産者が安全性に自信を持っているなら
産地を堂々と表示して何が悪い。  返って 「安全性に自信が持てないから、産地を隠している」 と
取られたらもっと悪い結果になるではないか。


事実に裏打ちされた 「ハッタリをかます」 大胆さを、福島県民もそろそろ身につけないと。
どうせ福島産忌避者は、周りのみんなが食べだすと、コソコソと遅れて食べ始めるに決まっている。
だから、最初のターゲットを間違えてはいけない、と考える。

「迷走する瞑想集613」 2017/02/21

たとえ大熊町チームが 「ふくしま駅伝」 で北斗七星のマークを付けたとしても
「なるほど」 と納得してくれるのは、星座に関心のある人だけである。  だから大熊町は
この案を採用しない・・・と個人的には思っている。  あるいは、たんに想像力が及ばないだけなのか。


「飛ばない」 名称を付ける能力では、福島県は抜きんでている。
「青天の霹靂」 などというお米の名称(青森県) は、福島県では千年経っても思い浮かばないと断言できる。
「商品の名前は、たんに呼び込みだ」 の認識が分離されていないから、涙が出るほど名前が平凡だ。


「あまりにかけ離れた名称は、お客に対し失礼である」 と考えているのかもしれない。
それで、味が良いのにもかかわらず、多くの商品に埋もれてしまう。  一方で
お客も、商品名を忘れちゃったりして・・・・。  「今後商品名には、産地の名前を頭に付けること」 と
県条例で決めてはどうか?  「柏屋の薄皮饅頭」 ではなく、「郡山柏屋の薄皮饅頭」 とか
「菅野屋のゆべし」 ではなく、「三春菅野屋のゆべし」 とか・・・・。


そうすれば、「地域名+お菓子」 でズラリと検索結果が列挙される(はずだ)。

「迷走する瞑想集612」 2017/02/21

他県人の福島県に対する認識の低さを、笑ってばかりもいられない。  福島県人の私でさえ
福島県内を完全に把握しているとは、お世辞にも言えない。  県内あちこちに住んだ経験がありながら
浜通り地方の南相馬市といわき市の間は、エアーポケットになっている。  つまり


双葉郡がまるっきり、土地勘がないのだ。  いや正確には、最北端の新地町にも行ったことはないが。
だから国道6号線とかJR常磐線とか常磐自動車道とか言われても、申し訳ないがピンとこない。
私の中ではJR常磐線は、いわき駅が終着の感じを抱いている・・・が実際は宮城県岩沼駅まで続いている。
今回の東京電力福島第一原子力発電所の正確な位置でさえ、私は事故後に地図で見て確認したぐらいだ。


従って、他県人の認識の大雑把さは、少なからず県内人にも当てはまるのだ。  それだけ
福島県は広大だということだ。  地方版のテレビ・ニュースでは接していても
訪れたことがないという点では、異郷の人とたいして変わるところがない。
食材を買うにしても、いちいちチェックなどしないし。  「店に売っている物は、安全だ」 だけである。


県内の業者は県外に逃げ出せないから、検査のごまかしが一度でも発覚したら、その時点でおしまいである。
だから安全性のチェックは、より一層の注意を払って行うはずである。  私はそれを信頼している。
へたな県外の無検査品を買うより、少なくとも残留放射能の点では安全である、と確信している。
最初は仕方なく始まった検査であろうが、いまや無検査品に差をつける一種の 「ブランド」 である。


ところで話はガラリと変わる。
福島県双葉郡に大熊町という、今回全国的に知られることになった町がある。
ここは、双葉町・浪江町・田村市・川内村・富岡町に接する太平洋岸の町である。
今回大破した福島第一原発の1~4号機は大熊町側にある。  なお、5・6号機は双葉町側にある。


ところで 「大熊」 と聞いて、天文ファンなら何を思い浮かべるだろうか?
たぶん 「おおぐま座」 であろう。  そして 「北斗七星」 と思いは及ぶはずだ。
もっと詳しい人なら、二重星の 「ミザール」 を考えるかもしれない。
しかし大熊町の名称の起源は、さほど夢のあるものではない。


1954年に大野村と熊町村が合併して 「大熊町」 が誕生した・・・これだけである。
ロマンも何もありはしない。  元の村の名前から、一つずつ取っただけだ。
だから 「ふくしま駅伝」 でも大熊町のチームは、ケンちゃんと違い、胸に北斗七星のマークは付けていない。
申し添えるが、大熊町は 「おーくままち」 と発音する。  だから 「おおぐま座」 とは根本的に違う。

「迷走する瞑想集611」 2017/02/21

「棚倉町」 を 「たなぐらまち」 と、鼻濁音を交えて滑らかに発音しなければならないのは
説明したが、福島県はすべて 「○○まち」 と読む。  「○○ちょう」 と読んではいけない。
それでは、三つ連なった 「石川町」 「浅川町」 「鮫川村」 はどう読むか?


「いしかわまち」 「あさかわまち」 ここまではいい。  次は 「さめがわむら」 と読む。
間違っても、いい格好して 「さめカわむら」 などと読んではいけない。  また
「さめかわそん」 などと発音したら最悪である。  福島県に 「○○そん」 などという所は
一カ所もない。  一発でヨソ者とばれてしまう。


「そだの、分かるわけあんめ」 と反論しても無駄である。  少なくとも福島県人は
濁音を混ぜた方が発音しやすい傾向を持つ。  だから時には 「あさがわまち」 と発音してしまう。
・・・私を含めて。  「さめがわ」 や 「たなぐら」 は、そういう意味では自然なのだ。
しかし、「飯舘村」 を 「いいだてむら」 と発音しては、正式には間違いである。


「塙町」 の町名の前で考え込んでしまったら、「おめ、どっから来た?」 と言われるかも。
そういう意味では、県外人がもっとも安心して行けるのは 「いわき市」 かもしれない。
県内唯一の平仮名市町村名であるから。


ところで、福島県でもっともメジャーな地域名は 「会津」 であろう。
会津地域民は、民謡 「会津磐梯山」 と戊辰戦争に感謝すべきである。  ところが
私が4年間西国に住んでいた時に、「私の出身県は福島です」 と自己紹介をしても
「じゃあ、会津の人かい?」 とは一度も聞かれなかった。


西国では、「会津」 と 「福島県」 は別な地域だと思っている節がある。
というか、そもそも福島県の正確な位置を把握していない。  要するに、関心がないのだ。
おそらく、鳥取県四つ分の面積がある事なども、だれも認識はしていない。
秋田県と福島県の位置関係さえ、あやふやなのだから。  これは私が、実際にテストしている。


工学部の優秀な学生でさえも 「不可」 であった。

「迷走する瞑想集610」 2017/02/20

福島県東白川郡棚倉町にある 「都々古別神社」。
この神社の横を何度となく仕事で通過した折に、「これ、なんて読むんだ?」 と同乗者に質問するも
明確な回答は、ついに一度も得られなかったが、いま堂々と発表しよう。  これは
「つつこわけじんじゃ」 と読む・・・以上。


「なんだ、詳しい説明はなしか?」  読みが判ったのだから、あとは自分で検索してみるべし。
私とて境内には行ったことは一度もない。  ここは通過点にすぎず、車を止めて参拝するるなど
到底、真面目な職員である私には思いもよらなかった。


ところで棚倉藩(たなぐらはん) は白河藩と並ぶ東北の喉首の雄で、戊辰戦争では
西軍と白河口において戦火を交えている。  棚倉城は、現在は石垣とお堀だけになっており
もしここを訪れてみたいと思うなら、JR白河駅か新幹線の新白河駅で降りて、さらに
JRバスで向かうのがよかろう。  JRバスの路線は、バスだけが走れる専用道路である。


これ以上は紹介しないから、あとは自分で調べたら。  ただし、町名の発音だけは気を付けるように。
それから住所は、「東白川郡」 であり、「東白河郡」 ではない。  これを現地で間違えると
ことによったら大変なことになる。(ならないと思うから安心して、県民でも書き間違える奴がいる)


そして一つ置いて隣に、「いかなる市町村とも合併などしてやらんぞ!」 や
「住民基本台帳ネットワークシステムになんか、断固接続してやらんぞ!」 の発言で耳目を集めた
福島県の異端児・矢祭町がある。  しかしその発言とは裏腹に、静か過ぎるいい町であるし
元町長のやせ我慢がたたってか、少数精鋭の役場職員は常に多忙であるらしい。


ここを流れる久慈川は、阿武隈川とは正反対に南に流れて行く。  あるいは、そこらへんの事情も
関係するのかと、思いめぐらしたりもする。

「迷走する瞑想集609」 2017/02/20

「自分たちでやっている放射線検査で、正確性が担保されるのか?」 の疑問がないとは言えない。
しかしもし、検査結果の数字を改ざんしているなら、検査に疑いを持っている団体が再検査すれば
すぐに発覚してしまうだろう。  そうなれば、福島県産の信用は一気になくなる危険性がある。


だから、検査結果は絶対にいじれない。  また、他県産の米を混ぜることも危なくてできなくなる。
放射能検査をしていない他県産の米をブレンドして、万が一高い放射線値が出てしまったら・・・と
考えると、とても踏み切れないであろう。  バラで買って行って混ぜる業者までは監視できないが。


だからこそ、県内で行った 「放射性物質検査済みステッカー」 に意義があるのだ。
もしこれを偽造などしたら、全福島県民の怒りを買うことになるであろう。  言っておくが
福島県の怒りは、少なくとも149年間は(会津鶴ヶ城の落城) 楽に続くものだと覚悟しておけ。


ところで今日、福島交通の路線バスに 「はやぶさにのって青森に行こう!」 の文字を見たが
「ざけんじゃねえぞー!」 と言いたい。  それともなにか?  大宮駅か仙台駅で新幹線を
乗り換えて行け、とこういういうことか?  そもそも福島県になんか、停まらねえじゃねえか。
隣の栃木県でさえ通過してるくせに。  「はやぶさ」 なんぞは福島県民にとって、幽霊でしかない。

「迷走する瞑想集608」 2017/02/20

なんといっても福島県産米は、魚沼産コシヒカリのように暴利をむさぼってはいない。
それどころかいま現在は、不当に安く売られているのが現状だ。  「福島県産は食わない!」 の
殊勝な人まで現れているし・・・・。  だから逆に、今が福島県産米を味わうチャンスなのだ。


福島県産米 「だけ」 が、全量 「放射性物質検査済み」 のお墨付きである。
世界中で、こんな食品がほかにあろうか?  その手間と費用はコストに圧し掛かるのだが
考えようによってはこれは、他の県ではどこもやっていない福島県産米の 「ブランド化」 である。


美味いのだが安全性に関しては不問にしている米と、美味くしかも安全性が検査され表示してある米と
「安全」 に関心がある貴方がどちらを取るか迷っているなら、迷う意味がないと思うのだが。
国内はいまだに迷っている状態だが、海外では安全と判れば切り替えは速い。


美味くて安全なものは食べる・・・それだけのことだ。
そして一周遅れて、国内の消費者がようやく食べ始まる。
自分たちの目より、周りからの目を信じるという、悲しい習性だ・・・・。

「迷走する瞑想集607」 2017/02/20

ご飯のお代わり自由は会津若松市に下宿していた時、その下宿屋でもやっていた。
丼のようなご飯茶碗で、勝手によそえる。  社会人は(つまり福島県人だが) たいてい小食だった。
しかし大学生や高校生は違う。  一定の下宿代で、はたして大丈夫かな?  と思っていたら
お上さんに 「半年分の仕入れた米が、3ヶ月で無くなってしまった」 と嘆かれた。


大学生(会津大学) は、おもに県外からの下宿者が多い。  それに対して高校生は
家からは通えない会津地域の者が大半である。  さてだれが米を、お上さんの想定を超えて
食べてしまったのか?  高校生は食べ盛りだろうが、同じ会津地域からの女子生徒である。
下宿して、急に食べ始まったとは考えにくい。  それでは、県外からの大学生なのか?


私は、犯人は彼らだと睨んでいる。  最近の子供は米をあまり食わない、はずなのだが
会津の米は県内産でも別格である。  私が 「おかずは、いらないよなあ」 と思ったぐらいだ。
西の不味い米を食べ続けてきた者にとっては、まさに猫に木天蓼である。  それが、お代わり自由。
・・・しばらくぶりに下宿の前を通ったら、廃業していた。  一律値上げは難しかったのであろうか?


県は補助金を付けてでも、県外者に福島県産の米を味わせて差し上げるべきだ。
まして大学生は、四年間県外に逃れられない身だ。  その間に、福島県産米に中毒にさせれば・・・。
米だけはほかの食材と違って、食ったり食わなかったりというのが不可能な、いわば基礎食品だ。
ここで中毒者を多量に輩出すれば、福島県の米生産者の未来は明るい、と思わないだろうか?


県内に大学を誘致することは、たんに若者を呼び集めるのが目的ではない。  ついでに
福島県の酒の中毒患者も期待することができるだろう。  何といっても福島県は
県全体が酒蔵のようなものだから。  といって大酒飲みを育てるのが最終目的ではない、それだけは
安心してよい。  もっとも、卒業後も福島県内にとどまれば、保証はしかねるが。


これを悪魔のような企み、と貴方は非難するだろうか?

「迷走する瞑想集606」 2017/02/19

日本全国の 「しずかちゃん」 は、郡山市をいっぺんは訪れるべきだ。
郡山市には静町(しずかまち)という町名が存在するし、静御前堂(しずかごぜんどう) がある。
さらに、堂前の大通りは静御前通りと呼ばれている。  静御前堂は、バス停にまでなっている。


これは何を隠そう、源義経の恋人・静御前に因んだ名称である。  全国には、至る所に静御前が
行ったことになっているようなのだが、地名にまでなっているのは郡山市ぐらいであろう。  さらに
義経の最後を伝え聞いた静御前が、身を投げた(と言われる) 美女池も大槻町にちゃんとある。
だから、失恋して世をはかなんでいる 「しずかさん」 も、片道切符で来たらよかんべ。


そのほかにも福島県には、「渡辺町(わたなべまち)」 という地名がいわき市内にある。  しかし
こう真面に苗字を地名につけられると、なにか気恥ずかしい気もするのだが、渡辺姓は
大阪が発祥の地だと判っている。  「渡辺」 だけが、出発点(最初の一人)がはっきりしている。
特にニュースにも出たこともない渡辺町だが、なにか特徴などはあるのだろうか?
圧倒的に渡辺さんが多かったりして・・・それはないか。


前に書いたことがあるが、鮫川村には赤坂中野新宿という地名が確かに存在する。
それも村の中心部付近のようなのだ。  東京都にクレームを付けられたとかいう
まことしやかな噂まであった。  私も、この地名を発見したときはブッたまげた記憶がある。


いわき市には、常磐上湯長谷町(じょうばんかみゆながやまち) という、私なら絶対引っ越さない
長い地名の町がある。  これは、ご存じの映画 『超高速参勤交代』 の湯長谷藩のあった所
らしいのだが、場所は渡辺町の隣である。  名前に 「湯」 が付いている事でもお判りの通り
いわき湯本温泉を始め周りにいくつも温泉がある・・・というか、ハワイアンズの隣じゃねえか。


いわき市は映画に、絶好の場所に目をつけさせたと言えるだろう。  しかし
先の 『フラガール』 といい、この付近ばかりじゃないの・・・ほかから、不満が出てこないの?

「迷走する瞑想集605」 2017/02/19

私とて3月13日頃から 「なるたけ外出は控えて、屋内にとどまってください」 と
NHKテレビで連呼された郡山市の住民だ。  あの日の不気味さは忘れられない。  ちょうど
映画 『渚にて』 のオーストラリア住民のようだった、と言って理解されるだろうか?
北半球から刻々と放射能が近づいてくる。  結局あの住民たちは、その前に自殺してしまったが。


私たちは、放射線の量で判断する知識を持たなかったから、「放射能が来る」 というだけで
身構えてしまった。  「ただちに影響はありません」 の言葉も、気休めにしか思えなかったし。
詳しい説明をしたところで解る訳があるまい、と判断してあのような紋切り型の表現になったのか?
原子炉を10基も存続させている福島県の住民としては、勉強不足であったことは否めない。


どこからは恐れ、どこからは恐れなくていいの基準を持っていないと、場合によっては
ひたすら逃げまくる行動に出ないとも限らない。  私がもし、天涯孤独の身であったなら
あるいは新聞社の人に 「福島の原発、大丈夫?」 と囁かれた時点で、避難を開始したかもしれない。
もっとも、身を寄せる場所など思い浮かばなかったが・・・・。


結果としてバタバタ狼狽えずに一歩も福島県を出なかったが、結局この勝負は私の勝ちと思っている。
この年になってまた一から人間関係を築いてゆくのは、もう御免こうむりたい心境でもあった。
生まれてからの通算引っ越し回数は、10数回を数える。  だから意地でも動きたくなかった
それだけだ。  周りの家も、落ち着いたものだったし・・・・。


そして、安全性が次々に確認されてきた。  いまも私の主食は、放射性物質検査済みのステッカーが
貼ってある郡山産 「あさか舞(ヒトメボレ)5kg」 である。  「なぜ、コシヒカリじゃない?」
それはコシヒカリが若干値段が高いのと、ヒトメボレで充分美味しいからだ。  ここら辺の農家は
たいていこの二品種を両方作付けしている。  金になるのはコシヒカリの方だろうが・・・・。


私は幸せなことに、食感で銘柄を当てられない。  だから、なんでもいいのだ。
ただし、西の方のモサモサした米だけは御免こうむる。  彼らは、あれしか食ったことがないから
なんら不満が起きないのだろう。  そんな人は、なまじ東北の米を食べない方が身のためだ。
逆に東北人は、不味い米を食ったことがないから、普段の米の美味さを実感できない、と考える。


何時でも食えるから、自分の土地の名物を有り難がらないのと似ている。
だから、訪れた町の住民に 「お勧めは何ですか?」 と聞くのは、ある意味愚問である。
たぶん、「えっ?」 と答えに窮するであろう。  私が郡山駅前で聞かれた時そうだった。
「それはお前が、無関心なだけじゃ?」 いいや 「住民はキャンペーンを見て、名物を知る」 のだ。

「迷走する瞑想集604」 2017/02/19

燃料デブリを見るために四苦八苦しているとのこと。  ということは、燃料は外から確認できない
位置にあるということになり、ということは、格納容器もその中の圧力容器も少なくとも
「水素爆発では」 大きく破損していなかったことになる(ヒビぐらいは入ったろうか?)。
もし、上部の蓋が吹っ飛んでいたなら、そこから下のデブリが観察できるはずだから。


ということは、溶け落ちた燃料棒で底は破られたが、上部や側部は依然として元のままである
という取りまとめで、よろしいのだろうか?


ではそれを踏まえて、今回の原子炉が、燃料が内部で爆発した 「原子爆弾」 でなかったとしたら
いったいあの、まき散らされた大量の放射性物質はどこから来たのか?  もっとも多量の
放射線を発する燃料棒が、まだ一応格納容器(圧力容器は破られていた)に覆われていたのにだ。


で、調べてみると複合的な要因が重なった結果だと出ていた。
ベント+水素爆発+格納容器の破損+配管からの蒸気漏れ+冷却水漏れ等により
大量の放射性物質が放出されたとある。


しかし水素爆発だけなら、水素と酸素が結合するだけであって、放射性物質とは直接関係ない。 
水素は軽い物質だから、せいぜい建屋の上部が吹っ飛ぶぐらいであろう。
ベントも、格納容器の圧力を下げるために予め備え付けられている機能だから、これだけなら
悪玉の棟梁にはなりえない。


格納容器の破損にしても、燃料棒が圧力容器を突き破らない限り、膨大な放射性物質とは無縁のはずだ。
しかし今回は、圧力容器を突き破っているし、格納容器の底も破損したようだ。  だが燃料棒は
目視できない位置にある。  つまり、直接は大気に触れていない可能性がある。  次に


配管からの蒸気漏れは、これは燃料棒に直接接している液体の蒸気漏れだからおおごとである。
冷却水漏れは、蒸気を冷やす海水などが漏れることだが、蒸気とは直接は触れない構造のため
亀裂が生じれない限りは安全なはずだ。  しかし、これも交じり合った可能性がある。


こうして見ると、頑丈な圧力容器や格納容器を備えていても、燃料棒に直接接して蒸気を作り
その蒸気を容器外に取り出してタービンを回して、また液体にして戻すという原子力発電の構造自体が
「配管」 という放射能拡散を起こしうる弱点を、持っているように思えてならない。  それでは


水素爆発が配管の継ぎ目を壊したのか、それとも、その前の地震がすでに配管を壊していたのか?
水素爆発が原因なら、燃料棒の温度が上がったための出来事であるから、すべての原因は
「冷却ポンプの停止(全電源の喪失)」 に帰結する。  ポンプが動いていれば事故は軽微で済んだ。


一方、地震が配管を壊したのなら、女川原発や福島第二原発でも同様なことが起きているはずである。
そうなれば、たとえディーゼル発電機が動いていようと、炉心を冷やすことは難しくなり
一斉に原発が爆発していたかもしれない・・・しかし連続爆発は起きなかった。  それならば
「最初に、地震が配管を壊した」 は間違いである、というべきではないか。


この判別は、大量の放射能が外で観測されたのが、水素爆発の前か後かで付けられると思う。
どうも急上昇は爆発の直前からであり、少なくとも地震直後の3月11日は上昇が見られない。
ということはやはり、「地震で配管が壊れていた」 間違いのようである。
燃料が溶けだして初めて、付近の放射線量が増大し始まったようだ。


なんにしても、冷却ポンプを動かす予備電源が作動した原発は(5・6号機を含めて)、放射能を
まき散らしてはいない、ということは記憶に留めておくべきだ。  原発のすべてが危険、と
いう訳ではないことが、私なりには納得できた。  あくまでも私的な考察ではあったが・・・・。


こういうことを書くと、「工作員だ」 とか言われるんだろうなあ。
私は根が怖がり屋であったせいか、逆に、怖がらせるだけの存在は
たとえ幽霊であっても容赦したくない主義なのだ。


だからといって私は、永久的に原発が望ましい発電方法だ、とは考えていない。  
使用済み核燃料の処分方法が、いまだに見つからないから。
汚物は増えこそすれ、絶対に分解も減りもしない。

「迷走する瞑想集603」 2017/02/18

「今すぐ原発ゼロに」 の主張は、どこか 「処分場建設反対!」 の請願に似ている。
必要か必要でないかの議論をすっ飛ばし、結局は不快・不安だけで
「取りやめにしろ!」 と叫んでいるだけなのだから。


そこに処分場を造らないのはいいとしても、どこかには造らざるを得ない。
それとも処分場をなくして反対運動のリーダーが、ゴミを引き受けてくれるとでもいうのか?
結局は落としどころ(適地) を選定しないではいられない。  一部の業者の手抜きの発覚が
すべての処分場が危険な代物だ、に発想がワープしている。


本当に危険を感じるなら、手抜きをしないように業者を監視すればいいだけだ。
申請した図面通り工事を行うなら安全と判断したから、認可されたのだろう。
「業者の手抜き」 と 「安全基準」 は別物である・・・ということは、原発にも言える。


たまたま想定した津波の高さ(認可された) より高い津波が襲ったから、地下の発電機が水没した。
これは、安全基準を見直すべきであって、業者の手抜き工事とは違う。  つまり変な言い方だが
津波の想定をもっと高いものにしておけば、防げた事故だと言えるのではないか?
冷却が止まれば水素爆発をするぐらいのことは、原子力関係者なら予測できたはずだ。


だから結果的に低かったとはいえ、海岸よりは高い所に原発を設置したのだろう。
津波を全く考慮しないでよければ、高い所に設置するデメリットの方が大きかったはずだ。
要するにこれは安全基準の見直しをすれば、少なくとも同一の事故は防げるということである。
現に5、6号機では、かろうじて予備電源の作動により事故を回避できている。


爆発・崩壊しない原発なら、つまり原子燃料の冷却を絶対に停止させない原発なら
かくも事故を広範囲に広げる恐れはない、と私は考えるに至ったのだが。
あれだけ地震で揺さぶられたにもかかわらず、その事での格納容器の損傷は免れた。
もし燃料が溶け落ちていなければ、依然として原子燃料は容器の中だったのだ。


だから地震だけなら、放射能漏れの危険性はかなり小さいと確信できた。
すでに6年も経とうとしているのだから、そこらへんを冷静に見つめ直してみようとは思わないか?
何が結局まずかったのかを・・・・。  原発は、柳の幽霊とは違う。
原子力村の村民でなくとも、このぐらいの事は考えられるのだ。  当否は別として。

「迷走する瞑想集602」 2017/02/18

同一管内の各種事務所や学校を、転々と渡り歩ける事務屋さんと違って、技術屋は
「他の事務所に転勤を命ず」 となったら、悪くすれば引っ越しか単身赴任、良くても
遠距離通勤は必定である。  福島県は広いのだ、離島こそないが。


ところで、ダム底に沈んだ家の者が、「多額の補償金を貰って・・・」 の陰口にも心が折れないのは
「公共の利益に奉仕した」 との大義名分があればこそ。  でなければ、私利私欲だけで
一切の土地・建物を手放すはずがない。  たとえ強制執行をやられたとしても、故郷の喪失は
金銭には代えがたいものだ・・・が、根無し草の都会人には理解できない。


都会人にとっては、「土地」 とはアスファルトやコンクリートの地盤でしかない。
そもそも 「土地」 と 「土」 とを、同一のものとは思っていない。
「土」 とは破傷風菌のいる汚いものだ、ぐらいにしか考えていないだろう。
「土地」 は 「お札」 に似ている。  どちらも、概念でしかない。


また、「田んぼ」 と 「耕作者」 がいれば、「米は作れる」 と考えているふしがある。
「水」 の手当なくして、米は一粒たりとも実らない。  それでも、雨水だけで
なんとかなるだろうと安易に考えているが、雨は必要な時に必要なだけ、都合よく降ってはくれない。
毎年の平年作を維持するためには、それ相応の 「設備」 が必要なのだ。


さらに話は飛んで、東京電力福島第一原子力発電所の事故について。
大震災の時、太平洋岸にはいくつかの原発が設置されていた。  しかるに大事故を引き起こしたのは
ここ一カ所(3基) だけで、あとは緊急停止で収まっている。  ではなぜここだけが
爆発をしたのだろう?  非常用電源のディーゼル発電機が、津波で水没したためと言われている。


冷却が続いていれば、東京電力福島第二発電所や東北電力女川発電所のように
大騒ぎに至らなかったかもしれない。  いったい福島第二原発や女川原発が、いま現在
話題に登っているだろうか?  これが、全部の太平洋岸岸の原発が一斉に爆発したのなら
問題なく 「原発は危険だ!」 となろうが、実際はそうではない。  それならば


なぜ福島第一原発だけが大事故になったのか、の原因を追究しないで一概に 「原発は間違いだ」 を
言うのは時期尚早ではないだろうか?  なんであれ発電施設にはリスクが伴う。
水力発電所だって爆発こそしないが、貯水・排水能力を超えて大雨が襲えば(つまり想定外の事象)
いずれ水はダムを越流し、結果としてダムを決壊させる危険性がある。


ダムの下流地域には緊急放流の合図のために、サイレンが設置されていることも知らないのだろうか?
火力発電所だって、大火災の火種にならないとは限らない。
なんであれリスクが伴うのだから、そのリスクを最小限にして発電を行うしかないのであろう。
「あれは危険だ!」 「これも危険だ!」 を言い出したら、江戸時代以前に戻るしかなくなる。


私個人も、原発は限りなくゼロに近いほうがよい、と考えるようにはなった。  しかし
不安定な代替えエネルギーだけでは、過去の停電頻発時代に逆戻りの危険性がある。
パソコンをやる私としては、突然の停電はデータの消失に繋がるから、御免を被りたい。


私は、無停電電源など持ってはいないから。  さらに、冷蔵庫の中の物をパアにされては困るし
目覚ましが作動せず、遅刻するのもはなはだ困る。

「迷走する瞑想集601」 2017/02/17

貴方が最後に県庁本庁舎なり西庁舎に入ったのは、いったいいつ頃の事か憶えているだろうか?
私は、自分の職務で行った以外は、小学校の遠足が最後である。  だって県庁の本庁になんて
行く用事がまったくないんだもの。  パスポートだって、各出先機関でもらえる。


かように縁遠い本庁舎の建物をどこに持っていこうと、一般の県民にはどうでもよい事なのだ。
問題になるのは、出先との県職員の行き来がスムーズにできるかどうかだけだで、それさえ
いまは、頻繁な出張は少なくなってきている。


市町村職員なら長距離出張をしたいところだが、本庁で全市町村を集めての会議などほんとに稀だ。
たいていは出先機関職員に伝えて、各出先事務所での会議になろう。  出張距離は知れている。
なぜそうなったかというと、一つにはパソコンの普及だろう。  あっという間に指令が伝えられる。


もう一つは推測だが、人が動けば 「金」 がかかることを、痛感し出したのではなかろうか?
公用車を使用してもガソリン代がかかるし、電車なら運賃が馬鹿にならない。  加えて
出張報告書の作成が厳格に義務付けられて、外に出ることを嫌がるようになった。  これには
職員の失態も災いしているのだろうが・・・特に技術系職員には痛い。


現場事務所で工事の監督や作業員たちとあれやこれや話をするのも、ひとつの勉強になるし
場合によっては、事故を未然に防げるかもしれない。  しかし報告書に 「特になし」 だけでは
許されない。  「お前、何しに現場に行ってきたんだ?」 となるだけである。


依然は数人の技師連中が車を相乗りし、ついでに他人の現場も見せてもらう(だけでは済まないが)
こういう事もやっていたが、今はどうなのだろう?  「他人の現場」 は、即ちサボリと
判断されてしまうのだろうか?  伝書バトだな、まるで。


事務屋が眼を光らせていれば、こういうことは起こりうる。
「監督を事務所に呼びつければ済むことだろう」 と言う。  しかし大勢のいる事務所内では
些細な事柄はまず報告しない。  早く戻りたくてウズウズしてるんだから当然だ。


無用の用、これが部外者には理解できない。  現場は、千変万化であるのだから
職務の前例・マニュアルがキッチリ定まっている職種とは、自ずと対応が違うのだ。

「迷走する瞑想集600」 2017/02/17

県庁は、競馬場・果樹と並ぶ福島市の基幹産業なのだ・・・と言ったら、何と答えるか?
「そんなにまで言われて、県庁なんかいらないわよ」 と穴をまくったしたとして、今度は
引き受け手が問題になる。  福島市は県庁があるものとして、都市を整備してきた。


しかし移転となれば、県庁庁舎をポンと建てれば済む話ではない。
鉄道・道路からのアクセスを考えなくてはならないが、さらに、同市在住の県職員の住宅を
回りに完備させなくてはならないから、あまりに人里離れた所には設定できない。  かといって
市街地にそんなスペースが残っている所が、はたしてあるだろうか?


これらをすべて解決した案を持って 「県庁をよこせ!」 と手を挙げる市長がいるのだろうか?
なんとなく、ではだめなのだ。  郡山市なら、保土谷化学が移転してくれれば、駅の東側に
大きなスペースが生まれる。  しかしそれは無理だろう。  駅のそばだから、搬出が楽なのだ。
それに、アメリカ軍の爆撃まで受けた郡山の盟友でもあるし。


もう一つは、麓山の21世紀記念公園(旧:日東紡跡地) である。  ここは隣に
県郡山合同庁舎が建っている。  ということは、鉄道通勤者が実際に駅から通っている、ということ。
しかもこの地は、郡山市街地では一番の高台にある。  そばにテレビ放送局が二つもあるぐらいだ。
市街地でも郡山の低地は、大雨のときヤバいことになる恐れがある。  だからお勧めだ。


かつてこの地は、県庁が来ると言われたときに、本気で庁舎を造った所なのだ。
それが、郡山市役所になり、今は福島県郡山合同庁舎となっている。  ただ
21世紀記念公園を潰すとなったら、補助金返還は間違いないであろう。
しかし三度目の正直である。  郡山市なら、もしかするとやるかもしれない。


「公園をなくしては子供が・・・」 のシュプレヒコールには
「麓山公園がまだあるじゃないか」 と平然と答えて・・・・。
あと、大会議には郡山市文化センターが使える。  細かいことだが。
しかし役人がうろうろする街というのは・・・私は、郡山にはそぐわない気がする。

「迷走する瞑想集599」 2017/02/17

白河市や郡山市は、県庁がないのにもかかわらず新幹線が止まる。  もし福島市に
県庁がなくなったとしたら、それでも新幹線は停車するであろうか?
山形新幹線が分岐しているから、嫌でも切り離し停車しなくてはならないだろうが
それでも仙台・盛岡行きはほとんど止まらなくなる可能性がある。


まさか競馬場の客のためだけに、停車するとも思えない。  いつでも開催している訳ではないし。
すると福島市は、二本松・本宮状態になってしまう。  これはまずい。  というのは
福島市には、市内在住の県職員が沢山いる。  幹部連中は、出身がどこであれ
福島市に居を定める傾向がある。  彼らの通勤手段がなくなる、ということが起きてしまう。


「在来線があるじゃないか」 それはそうだが、有事の折に間に合うだろうか?
結局、福島市を去ることを選択せざるを得ない状況に・・・・。
かように福島市は、脆弱な基盤の上に建っているといえる。  競馬場にしろ花見山にしろ
一年を通して人を呼び込むことが難しい。  だから、弱い者いじめはやめよう。


県北地方に大都市機能を維持させるためには、もはや 「県庁を置く」 しか方法はない。
ほかの都市はなくて今までやってこれた。  だから、今後もなくて我慢できる。
しかし福島市はそうではない。  「県都」 におんぶに抱っこをしてもらい、今日に至ったのだ。


もし県庁移転などしたら悲嘆のあまり福島市は、宮城県に行ってしまうかもしれない。
今でも仙台空港を利用しているようだし。  福島県が造った空港(福島空港)があるにもかかわらず
足しげく仙台に行っているとか・・・・。  とにかく、県庁のなくなった福島市の姿を
いったい誰が想像できようか?  全く県庁の力に頼らずにきたのは、果樹農家ぐらいのものだろう。


いや待て、飯坂に県の果樹試験場があるぞ・・・と、ほかの都市からは見られている(かもしれない)。

「迷走する瞑想集598」 2017/02/17

県庁を持ちたがるのは、現在の世では勲章を欲しがるぐらいの意味しかない、と断言しよう。
福島県庁本庁舎や西庁舎を仕事で訪れなければならない人が、いったい県民の何パーセントいるのか?
ヒラの県職員でさえ、本庁からの指示や依頼はメールでダイレクトにパソコンに到着する。  もはや
「ファックスがまだ届いていません」 などという言い訳は、一切通用しない。


通信回線さえ整っていれば、県庁庁舎がどこに建っていようと問題ではないのだ。
確かに県庁が同市内にあれば本庁出張のための旅費は浮くかもしれない、が現実として
本庁での会議や呼び出しなどは激減している。  あまり度々本庁にはせ参じると
「あいつは何をやっているんだ?」 と、陰口をたたかれるのがおちだ。  そんな時代なのだ。


だから私としては県庁は、いわき市にあっても会津若松市にあっても、影響はないと考えている。
もちろん今のまま福島市にあっても、それで福島県の発展が減速するとは思えない。
むしろ、東京のようにすべての機能を集中させてしまうより、行政・商業・工業・観光業が
分散している方がなんぼか健全だ。  アメリカだって、行政と商業と工業の都市は分かれている。


であれば郡山市もさらに箔をつけたいと求めるのではなく、県庁を取ったら何も残らない福島市に
そのまま置いてやってもいいのではないか?  県庁は福島市民の雇用の場なのだから。
福島市民に顎で使われるのは嫌だ、と感じるなら同郷の県職員を大量に送り込めばよいだけだ。
これがもし逆に、街に力があるいわき市や郡山市に県庁があったなら、その県庁幹部職員たちは
きっと人を見下した鼻持ちならない奴になるであろう。  弱小都市にあってちょうどいいのだ。


「しかし県庁は、県庁だけでなく民間会社の支店も伴っているではないか」 そんなみみっちい。
会社の職員同士の飲み会の売上を当てにしているなら、そんなものはもはや幻想だ。
みなサッと家に帰る時代なのだから。  それに、東北電力の福島営業所があったにもかかわらず
大震災のあと福島市は停電に見舞われた。  しかるに郡山市では街路灯が煌々と点いていた。
結局どちらの設備が、保守・点検が上だったのか?  郡山市にも東北電力の営業所はある。


郡山市は、行政にまで貧欲になる必要はさらさらない。  どちらを重点的に整備すべきかは
都市の力が決める。  税金の投下し甲斐のない都市はどうしても後回しになる、そういうことだ。
・・・しかし一体これは、福島市擁護の論になっているのであろうか?

「迷走する瞑想集597」 2017/02/16

不覚にも今日気付いたのだが、郡山警察署の交差点は国道4号線と国道49号線が、交差していない。
49号線はそのままだが、国道4号線は県道17号線に格下げになっている。
あさか野バイパスができて、そちらが国道4号線になり、4号線だとばかり思っていた縦貫道路が
いつのまにか県道になっていた。  そういえば、4号線の標識が見当たらないな、とは思っていたが。


これで国道4号線の西進は2度目だ。  郡山から須賀川に向かう砂利道が 「国道」 と呼ばれ
やがて西に 「新国道」 が開通し、今回バイパスがさらに西にできて 「国道4号線」 にまんまと
就任してしまった。 しかし郡山市民は、依然として 「バイパス」 と呼び続けるであろう。


本気でバイパスを造るつもりなら(つまり郡山市街をスルーするつもりなら)、もっと西には
いくらでも土地が(つまり田んぼが) があったにもかかわらず、市街の縁をかすめるような
中途半端な腰の引けたバイパスを造るから、「バイパスよりも4号線のほうが渋滞が少ない」 などと
陰口をたたかれるのだ。  その点、高速道路(東北自動車道) は、遠慮なく西に寄っている。


どっちにしても郡山は、西に拡大してくしか道は残されていないのだから、バイパスは
もっと西を迂回させてもよかったのだ。  高速道路は出口が決まっているが、国道クラスなら
どこからでも降りることは可能だ。  新たにインターチェンジを造らなくても。


現農家に遠慮したのだろうか?  何といっても、西の農地は安積開拓の賜物だから。  しかし
農家とて、道路の買収に協力することは公に奉仕する行為だから、「絶対売らね」 と反対はし辛い。
別の農家に田畑を売り払うのとは、わけが違う。  羨望のまなざしは、多少感じるにしても・・・・。

「迷走する瞑想集596」 2017/02/16

「その人の行動の良し悪しは結果により判断するのではなく、動機の良し悪しによって
判断されるべきだ」 と言った哲学者がいたが、それからいえばジョー・ブラッドレー(新聞記者)は
『ローマの休日』 の登場人物で最悪だ。


王女と知りつつアーニャを、ローマ市内を連れまわし盗撮させた。  しかもその動機が
スクープ記事(実は金) を得んがための自己中心的な目的であり、なんら弁解の余地はない。
最後の最後で改心したようだが、行動の発端となった動機は真っ黒である。


このような人物が、映画の主人公に収まっているのが、どうしても解せない。  つくづく
いい男は得だ、と思ってしまう。  いっそ記事と写真を公表し5000ドルを得て、最後まで
悪に徹したほうがまだ潔い、と男からは思える。  この男は、ダース・ベイダー卿の先駆けだ。


自分だけの心変わりならまだしも、親友のカメラマンの期待まで裏切っている。
あんなに一生懸命撮影してやったのに・・・・。  「写真を売り込むのは止めない」 と言われても
彼には記事は書けないだろうに。  写真だけでは、「王女に似た女性」 と判断されかねない。


ジョーの態度は、身勝手といえば身勝手である。  友情のかけらもない。
放心したかのような会見会場からの退席は、この男だけが夢から覚めたことを表している、と思う。
少なくとも、他の登場人物は放心などしていない。  ジョーだけが、精神安定剤に酔っていたのだ。


足が地についていないこの男を哀れとは思うが、かえってそれが女性向きなのか?
私はハムレットよりも、シャイロックの首尾一貫した態度を好む。
善であれ悪であれ、貫き通すには相当の覚悟がいる。  ジョーにはそれがない。


結局ジョーは、恋も金も得られなかった。  ざまーみろ!

「迷走する瞑想集595」 2017/02/15

「嘘で固めた恋愛劇の末路はあんなものだ」 と 『ローマの休日』 を評したら
女性客からブーイングの嵐が起こるだろうか?  「そんなこと言ったら、入念なお化粧をして
デイトに出かけてゆくのさえ、嘘つき行為じゃないの」 確かに言われてみれば、その通りかも。


では 「恋愛は嘘で固めてこそ、成り立つのだ」 と言い改めようか?
もっとブーイングが来そうな気がする。  こういう、映画 『恋愛小説家』 のような言い方は
慎むことにしよう。  映画でも、舌鋒が次第次第に鈍ってくるのが分かるし。


さて、ブラッドリー記者は最後になって記事の発表を見送った。  これは一般に
恋人であった王女を傷つけないように・・・と解されているが、写真を見る限り
なんら背徳的なことはしていない。  多少、羽目を外してはいるが・・・・。


よって皇室を傷つけることにはならないと思う。  だから、カメラマンにも同情するのだ。
今なら、「開かれた皇室」 とかで大人気になるかもしれない。  王女も言っている。
「義務を自覚しているからこそ、戻ってきたのだ」 と。


記者会見で、「ローマ!」 と言ってしまったからには、それが何なのかを公表しても
非難の対象にはならないと思う。  イタリア以外からは、嫉妬の声があがるやもしれないが・・・。
「フィガロ紙(フランス系)」 あたりなら、「なんでパリでやらなかったのか?」 と
かなり鋭い質問を突き付けるだろう、おそらく。  フランス男性は、侮辱されたとさえ思うかもしれない。


スペイン系の新聞だって、「よりによってアメリカ野郎と」 と内心思うかもしれないし
イギリス系の新聞なら、「わが国で起こらなくて良かった」 と胸を撫で下ろすかもしれない。
ところで、アン王女はどこの国の皇室かを明示していただろうか?


「アン」 という名前はイギリス名のようだが、そうとばかりは言い切れない。  しかし
映画では 「某国の王女」 として登場しており、おそらくヨーロッパのどこかの小国なのであろうが
実際のところは不明である。  小国と思えるのは、飛行機で駆け付けた諜報員の数である。
大国なら、あんなもんでは済まないだろう。


ところで、カメラマンのアービングが王女に写真をプレゼントする際、写真を焼き直している。
ブラッドレーの部屋で見た写真は色々なサイズだった。  それはそうだ、ライターの豆カメラから
大判のスピード・グラフィックまで、いろんなカメラで撮影しているのだ。  焼き付けの
サイズがまちまちなのは、おおいに頷ける。  もともとのフィルムの大きさが違うのだから。


それが、プレゼントされたときには全部一定の大きさに統一されていた。
大急ぎで焼き直ししたに違いない。  ということは、ブラッドレーの部屋を出るときには
王女へのプレゼントは決まっていた、と考えるしかない。  露光・現像・停止・定着・乾燥をやると
逆算すれば、そのぐらいの時間はどうしても必要だ。  いかにプロだとはいえ。


アービング・ラドビッチ(カメラマン) もまた、仕事一筋の粋な男だったわけだ。

「迷走する瞑想集594」 2017/02/15

細かいことが気になるのが私の悪い癖だが
スクーターで暴走して警察に突き出されたときに、アメリカ通信員の身分証明書を見せたら
すぐに釈放された。  あの身分証明書には、そんな神通力があるのか。
戦後間もない頃を窺わせる一幕だ。  もちろん、アーニャの嘘も効いているのだろうが。


いまの映画で、犯人の追跡であれと同じことをやったら、上司にこってり油を搾られる。
御咎めなしなのは、スパイ・エージェントぐらいのものだ。
それにしても、ノン・クラッチのスクーターなればこそ、無免許の王女様でもすぐに乗れたのだ。
それが、さりげなく挿入されている。  イタリア(ベスパ)万歳!


ところでベスパの三輪車は、王女様が宮殿から抜け出すときに荷台に隠れていたあの車である。
暴走スクーターを追いかけた白バイ(白くはないが) も、当然イタリア製であろう。
なぜか美術品制作の工房まで、ちょっとだけ出てくる。
この映画は、イタリアの遺跡と現代の工業製品の両方を紹介してしまっている。


アメリカは映画で、敗戦国の後押しまでやっているのか・・・と見るのは、私だけであろうか?
この映画は1953年封切りである。  

「迷走する瞑想集593」 2017/02/15

ではネガを、誰に託すれば安全か?
支局長では危険である。  ネガをすぐに新聞に載せそうな気がするから。
ブラッドリーにも危険である。  二人がいたことは、ダンス会場で見られているから。


「それじゃ、ネガも王女様に返したら?」 それが一番いい案のようだが、そうは問屋が卸さない。
ネガの複製は簡単に作れるから。  「じゃあ、貸し金庫かコインロッカーに入れておくとか・・・」
今ならそうするだろう。  となれば、ネガを探すよりカメラマンを殺ったほうが手っ取り早いことに。


物を隠すという行為は意外と難しいものだ。  隠した場所を、みんなが忘れてしまっては
隠した意味がない。  いっそ焼却したほうがまだ無難だ。
そうか、ネガは焼却してしまえばいいのか。  しかしそれを敵方に、いかにして納得させるか?


「ネガもその複製も存在しなくなった」 を確認するまでに、何人が拷問に会うのだろう?
やはり、ライター・カメラでやめとけばよかったのだ。  ダンス会場でのフラッシュ撮影は
あれはまずかった。  盗撮・盗聴は、大ぴらにやるもんじゃない。
だから、裁判の証拠物件には採用されないのだろうが・・・・。

「迷走する瞑想集592」 2017/02/15

あの休日の一日を無きことにするためには、関係者をすべて抹殺しなければならない。
これは最近のスパイ映画の鉄則である。  だから当然、マリオは真っ先に始末しなければならない。
もしかすると、すでにあの黒服の一団によって交通事故を装い、消去されているかも・・・・。


などと考えるのは、スパイ映画の見過ぎだ。  「休日の事実」 は、宮中では王女様しか知らない。
「いや、乱闘をやったのだから、黒服の一団も知っているはずだ」  しかしそれを直接
王女に問いただすことは、まずできまい。  あまりに距離があり過ぎる。  おそらく
王女が彼らを直接見ることは、今後一度もないであろう。


なににしても王女が無事に戻ったのだから、さらに問題を複雑化させるのは好ましくない・・・そう
側近たちも判断するに違いない。  しかし、ネガを取り戻すぐらいのことは、やるかもしれない。
ダンス会場で盛んにフラッシュを焚いていたし・・・・。  後日のスキャンダルを恐れるならば
今度はあのカメラマンの命を狙うに違いない。  しかし当然


ネガは別の所に保管してあるはずだ。  自分の家になど絶対に置かない・・・これも鉄則だ。
であれば、あのレストランで待ち合わせした娘も危なくなる。  あり場所を吐かせるために・・・・。
なんだか、妄想が止まらなくなってきた。

「迷走する瞑想集591」 2017/02/15

アン王女(アーニャ) とブラッドリー記者の二人の主役は、お互いにウソをつきまくっていた。
しかるに、マリオは何の恥ずべき行いもしていない。
主役同士は虚構の世界に遊んでいたのに、準主役のマリオは現実の世界を離れなかった。


これはマリオが、カトリックの総本山の地に住んでいることと、関係があるのだろうか?
深読みすると、この映画はアメリカが虚飾の繁栄を謳歌している・・・と批判しているような
そんな気までしてきた。  一つ嘘をつけば、次々と嘘をつかなければならない。


アーニャとブラッドリーの一日の休日(ホリデー) は結局夢だったのだ、と
ラストの謁見会場から立ち去る新聞記者の姿がそう言っている。  実在するのは
現実のローマ市民の生活だけだった・・・裏でそう言ってそうな気がする。


ところで後日、アン王女の写真を新聞で見たならば、マリオの目玉は飛び出しただろう。
そこには、自分が髪をカットした女性と髪形が写っているのだから。  しかし
「彼女は、この俺がカットしてやったんだぜ」 と周りに自慢しても、おそらく誰も信じない。


結局マリオも、夢を見ていたひとりなのであろう。  いっそ
写真を一枚ぐらいマリオにくれてやればいいのに・・・ネガは王女にプレゼントしていないのだから。

「迷走する瞑想集590」 2017/02/14

なぜ 『ローマの休日』 であって、「パリの休日」 や 「ウィーンの休日」 ではなかったのか?
思うに欧米人の血の中には、まだローマ帝国の栄光が光を失ってはいないのだろう。
だから、先の大戦では真っ先に降伏したイタリアなのに、アメリカ映画に登場できるのだ。
観光物件なら、パリでもウィーンでも引けは取らないのに・・・・。


ところでこの映画の主役は、アン王女(アーニャ) とブラッドリー記者であるが
第二の主役は、私はイタリア人美容師のマリオ・デ・ラーニであると思う。
彼の行動をよく見ていると、恥ずべき行為は何もしていない。  バッサリ髪を切った後で
アーニャを船上パーティーに誘ったのも、イタリア人男性として見れば当然の行為だろう。
あの瞬発性は理解不能だが・・・・。


さらにダンスの後で、アーニャの髪形を修正している。  あくまでもプロ根性は忘れない、という
証である。  さらに乱闘場面では、たいして強そうでもないのに一応参入していってる。
ただ一つの謎は、船上パーティーで再開した時に髭を落としてきたことである。
アーニャがショートカットにしたことと、対応しているのだろうか?


マリオは、ダンス会場に来たときは一人であった。  ということは、アーニャを誘うまでは
行く気はなかったものと思われる。  誘った手前、「行けない」 と言われてもなお
船上パーティーでひとり待っていたのだろう。  何と律儀で自信家な男ではないか。
なにか寅さんとダブるところがある、と感じるのは私だけであろうか?


この男が出たことによりこの映画が、たんなるイタリア観光悲恋映画になるのを免れている。
イタリア人観客も納得するだろうし・・・・。

「迷走する瞑想集589」 2017/02/14

アドラーの心理学によれば、例えば私が女性にもてないのは
外見や性格や社交術のせいではなく、本質的に一人の状態を好んでいるから・・・そういうことらしい。
外見や性格が悪者でなくなったのはうれしいが、「それはテメーが意図しているからだ」 と
糾弾されるのは、なお辛い。


私は若いころ、自分がピエロの役をやらされている、と嘆いたことがあったが
それはあくまで、ピエロの仮面や服装を脱ぐことができない苛立たしさからだった。
だがそれは違う、というのがアドラー先生の見解である。  つまり私は
ピエロの服装を脱ぎたくない、もっと言えば脱ぐのが怖いのだ、と言っている。


それでは、周りからピエロだと見られていた自分が、ある日バリッとしたスーツ姿で現れたら
衆人の反応はいかがなものになるか?  おそらく、人混みに埋もれてそれっきりだろう。
「実はそれを恐れているのだ」 と言うであろうが、当然の恐れではあるまいか?
素顔が平凡な人間が埋没してしまうことを、恐怖と呼んではいけないのか?


私は逃亡者ではないから、隠れて生きる必要はない。  しかしピエロの服装を取れば
好むと好まざるとに関わらず、私の姿が消えてしまうとしたら、脱げないのは当然であろう。
だから困っていたのだ。


人は本当の自分で生きていると言うが、社会生活で仮面を取り換えながら対応するのが人間である。
仮面なしで一日を過ごせるのは、社会生活以前の子供だけである。
だから 「ピエロの役が嫌だ」 と言ったのは、ほかの真っ当な仮面に替えたいとの要望なのであって
私とて、本来の自分が醜悪に近いものだということは、十分承知している。


癪なのは、自分で選択して 「ピエロの仮面」 を被ってはいない、ということなのだ。
気が付いた時には、自分の役回りが決められていた。  それに無性に腹が立っていた。
やがて時が経って、いつの間にか仮面は別のものに変わった。  いま現在は
「老人」 の仮面に、演技を合わせようと努力している最中である。


要するに、無理をしないでいれば自然に、立ち居振る舞いが老人っぽくできるのだ。
・・・ピエロの時となんら変わらない。  つまり、人はみな俳優である、ということだ。
演技の上手い下手はあるにしろ・・・・。  いやいや演じると、大根役者と言われる。

「迷走する瞑想集588」 2017/02/13

我が県が 「福島合衆国」 なのは、県庁所在地に地理的に見ても、歴史的に見てもあるいは
経済的に見ても突出した優位性がないからだ、と断言できる。
地理的に県の北の端では優位性はないし、歴史的に見れば、もっと強大だった城下町が幾つも存在する。


会津若松市は勿論だが、江戸幕府老中の松平定信を輩出した白河市も、場合によっては県庁所在地に
なり得たのである。  何といっても東京に、時間的には一番近いというアドバンテージがある。
福島市が仙台市に一番近い(新幹線で)のよりも、価値は高いだろう。  ただこの二市は
新政府の覚えが悪かったがために・・・・。


結局市町村は、県庁がたまたま福島市にあるだけで、そのことにより特段利便性が高まったとは
さらさら考えていない。  「新政府は、不和の種を撒いておいた」 と疑うことも可能だ。  しかし
残念ながら福島県人は、強烈な反発心は生活の次に考える人たちなので、この企ては失敗したようだが。


だが、完全に消し去ったわけではない。  生活に余裕が出てくれば、あるいは再燃するかも。
都会人の期待に反して、東北人の根は意外としつこいのだ。  だから
勿来の関や白河の関を設けたのであろう?  あんなの、山道を抜ければ効果ないのに。

「迷走する瞑想集587」 2017/02/13

安楽椅子探偵のまねごとを、もっと続けてみよう。
言っておくが、邪馬台国の場所を特定するとか本格的なことは無理だから。
それができるくらいなら、とっくに小説家になっている。


並木路子といわき市出身の霧島昇のデュエットによる、『リンゴの唄』(作詞:サトウハチロー
作曲:万城目正) という名曲がある。  これの舞台はどこだろうか? が次の推理項目である。
「そりゃーリンゴなんだから、青森県だろうに」   そうだろうか?


確かに作詞家の父は青森県出身であるが、サトウハチロー氏は一度しか訪れていないそうだ。
そんな疎遠な故郷の思いを、わざわざ書いたりするだろうか?  実際、詞の中には
「リンゴを摘んでいる」 等の表現は一切ない。


それに 「あの子」 が唇寄せているリンゴは摘みたてというよりも、入念に磨き上げた
商品としてのリンゴを思わせる。  私が考えるに、「あの子」 とは
東京あたりの青果物店の娘ではないのか?


朝に夕にリンゴに囁くことができるのは、相当な大金持ちか青果物店の従業員ぐらいであったはずだ。
しかもこの歌が発表されたのは、昭和21年のことである。  終戦間際で一般人が
普通に考えて、こんな贅沢ができただろうか?  やはり青果物店の娘が妥当な線であろう。
地方を差し置いて東京市場にこそ、青森のリンゴは送られたはずであるから。


この歌もまた、東京の優位性を地方に擦り込んだ呪文なのではあるまいか?
それに福島県出身の歌手や作詞家や作曲家が加担してしまったのだ。
作曲家なら、古関裕而氏の 『夢淡き東京』(作詞:サトウハチロー 歌:藤山一郎) が
その最たるものであろう。  私は好きな歌だが・・・・。


地方が東京の目で考えるという、一種倒錯した一体感が生まれてしまった・・・は言い過ぎだろうか?
しかしながら福島県内の市町村においては、県庁所在地である福島市の目で考えるなどということは
金輪際やらない(と思う)。  なにせ我が県は 「福島合衆国」 だから。

「迷走する瞑想集586」 2017/02/13

本宮市出身の伊藤久男氏が朗々と歌う 『山のけむり』 という歌がある。
この中に出てくる 「山」 が、どこの山なのかを推理してみたい。
もちろん、歌の中に名前など出てこない。


まず、山と煙と聞いて思い浮かぶのは 「山火事」 と 「活火山」 である。
しかし山火事なら、主人公は思い出に耽っている場合ではないから、すぐに逃げ出したはずだ。
だからこの山は、活火山だという前提で推理に入る。


むかし初めてこの歌を聞いたとき、これは浅間山の歌か? と感じた記憶がある。
北原白秋の 「落葉松」 に 「からまつの林を出でて、浅間嶺にけぶり立つ見つ」 とあったから。
しかし煙は落葉松のはるか遠くに見えたとあるのに対して、歌では森に漂っているとされている。
それではこの煙は、火山性ガスを含まないのか?  もしかすると、前提が間違っていたかも。


これは活火山の噴煙などではなく、霧のようなものと解釈できないだろうか?  三省堂の
国語辞典には、「煙る」 の用法の一つに 「(煙が立ち込めているかのように)かすむ」 とある。
またgooで検索すると、「けむり」 の意味の一つに 「霞・水蒸気のように空中に立ち込めるもの」
となっていた。  であれば、「山のけむり」 が霧あるいは雲を指していてもおかしくはない。


ここで前提をスッパリ替えて、「山の霧」 として推理を続けることにする。  しかしそれでは
ますます地域の特定は困難になるから、方向を変えて歌の作者から攻めてみよう。
作詞は大倉芳郎氏で、東京都の出身である。  東京の近郊に、霧がたなびく山道などあったろうか?
いや私は、東京を詳しく知らないので迂闊な断言はできないのだが、どちらかというと軽井沢という
当時のリゾート地の雰囲気が歌にはある。


実は軽井沢も行ったことがない。  しかし地図で見ると、長野県軽井沢町は浅間山の麓にある。
浅間山は北西の方角にそびえている。  なぜ方角かというと、主人公は沈みゆく 「淡い夕日」 と
ともに山を見ているようなのだ。  ということは、山は主人公の西にあることになる。
「いや、主人公がいる所がすでに山なのだ」 という見解もあろう。  それは否定できない。


しかしそれならば、「森のけむり」 としても良かったはずだ。  「山」 と言うからには
その山には何らか名前があるはずだ・・・とならないだろうか?  しかも主人公は
以前にも恋人と二人でそこを訪れている。  それをいま思い出して偲んでいるのだ。
う~む、軽井沢の線が濃厚になってきた。  浅間山の東に、登山道などあるのだろうか?


主人公が 「道」 を辿っているのは詞の冒頭に、ちゃんと書かれている。
かといって本格的な登山道ではなく、普段着で登れる森林公園のような場所であろう。
ということは、市街地からはあまり離れていない。  う~ん、軽井沢に行ってみたい・・・と
そんな気になってきたのではありませんか?


「ところで、こんな作業に意味があるのか?」  馬鹿を言っちゃあいけない。
「ジョギングには目的地はない。  私は、頭のジョギングを楽しんでいるだけだ」。

「迷走する瞑想集585」 2017/02/10

「福島交通飯坂線」 の名称が前回出たが、これは実在する路線である。
しかも福島県内には稀な私鉄の、往復・単線の電車路線(ディーゼルではない) であり
大震災後の復旧では、東北新幹線や東北本線を差し置いて早々と再開した優れものである。


「あの電車のスピードだもん・・・」 と言う向きもお有りだろうが
地震で電線やレールが、激しく揺さぶられたのは一緒である。
たんに温泉に人を運ぶだけだったら、あそこまで急ぐ必要はないと思うが、この路線は
沿線の住民の足でもあるのだ。  福島市にはこの他に 「阿武隈急行鉄道(通称あぶきゅー)」 が
乗り入れている。   さらに


東北本線が縦貫し奥羽本線が接続しているため、福島市はさしずめヒトデのような形をしている、と
表現してもいいだろう。  従って、街中に自家用車で乗り付ける必要性はあまりない。  だから
大通りを歩いている通行人の数が、郡山市に比べてめっぽう多い。
郡山市の大通りはまったく、日曜日であっても泣きたくなるほどだ。  イベントだけが人を呼ぶ。


人が歩くから、駐車場のない小さな商店でも多く生き残っていられる。  それでも
空き地(駐車場)がめっきり増えてはきたが・・・・。
車を締め出すのではなく、車でなくとも簡単に来られる街づくりを、本来はすべきなのだ。
それには、時間に正確な鉄道が最適だ。  バスは、外で待たされるのが嫌で敬遠されることも。


福島市内にはかつて、市内電車まで走っていた。  車の邪魔になるためか、廃止されてしまったが。
歩行者優先のために車道を狭くしたのも、福島市が最初だったろう。  これには
沿線の商店街の理解が不可欠だ。  「商品の搬入に不便になる!」 とか言い出さないために。


もともと歩行者が比較的多かったから、あのようなことに踏み切れたのだと思う。
郡山市は、やったところで効果が薄いだろう。  なんせ
「休日の歩行者天国を、もうやめようか?」 なんて話まで出るぐらいだから。
確かに、車で移動して歩行者がいない街に、歩行者優先道路を設定したとしても
所詮、イベント時の役に立つだけであろう。


車を運転できないお年寄りが増えても、寒いバス停で長時間待たせるのは・・・と結局車になる。
若い人は当然、車で広い駐車場のある郊外店に行くのをためらわない。
郊外に広い駐車場を造って、そこから中心部にシャトルバスで・・・が、なかなか上手くいかないのも
時間に縛られるのと、その時間に不正確なのが原因していると、私は考えている。


いま私の待っている路線バスが、現在どの地点を走行中なのかをリアルタイムで判れば
だいぶ風当たりが弱まるだろうが・・・・。  実際、宅配便では途中経過の配信サービスを
実行しているし、時間指定の配達までやっている。  当てなく待つ身の時間帯は長いものだ。
だから、それが実現したらスマホに替えても良いかな・・・とは、思ったりもする。


簡単なことだ、バスにGPSを付ければいいのだから。

「迷走する瞑想集584」 2017/02/10

『湯の町エレジー』(作曲:古賀政男 歌:近江俊郎) の作詞家の野村俊夫氏が
福島市出身でしかも古関裕而氏の近所だったとは、今の今まで知らなかった。
当初この歌は、霧島昇氏が歌うものと想定されて作られていた、ということも初耳だった。
ちなみに霧島昇氏は前にも述べたが、いわき市大久町の出身である。  お忘れなきように。


さて、作詞家が福島市出身なら温泉町を歌ったこの歌にも、飯坂温泉か土湯温泉の名残が
もしかするとあるのではないか?  「何言ってるんだ、曲の頭の所に ♪伊豆の山々~
と歌われているじゃないか、しっかりしろ」・・・確かに間違いない。  それだからこそ


全国民はこの歌を、伊豆の温泉(熱海温泉を始め沢山ある) が舞台と信じて疑わない。
しかし冒頭の 「♪伊豆の山々 月あわく」 のフレーズを、「吾妻の山に 月あわく」 としたら
果たしてどうなるか?  何の違和感も起きない。  まるで飯坂温泉街を歌ったかのようだ。


サービスで詞の冒頭に 「伊豆」 を入れたがそれさえなければ、どこにでもある山間の温泉町だ。
「♪あわい湯の香も 路地裏も」 行ってみると分かるが、飯坂温泉には路地裏が存在する。
たんなる道の両側に並んだ温泉宿・・・などという構造ではない。  下手をすれば、道に迷う。


次に、ここに出てくる 「ギター弾き」 に注目してみよう。
当時は自家用車や観光バスはほとんどない時代だったから、ギターを担いで温泉街に入ったこの男は
鉄道を利用したとしか考えられない。  しかも、降りてから長距離は歩っていないものと思われる。
一里も二里も歩かされたのでは、この華奢な旅芸人はへばってしまうだろう。  だから


福島交通飯坂線の終点・飯坂温泉駅が重要なのだ。  降りればそこは、温泉街なのだから。
思うにこの歌の作者は、もとは福島市内の同級生だったが、今は温泉宿の女将になってしまった女性の
昔の面影を忘れられずに、流しにかこつけて「また」飯坂温泉に来てしまった・・・という心境を
切々と歌ったものではないのか?  あくまで、私の想像ではあるが・・・・。


なぜかこの歌は、遠い伊豆半島の情景を歌っている、とはとても思えないものがある。
それから飯坂温泉の湯は、あがった後も長時間ほてりが持続するという特徴がある。
お湯は透明だから、安心されたし。

「迷走する瞑想集583」 2017/02/10

豊田家が創業した豊田自動織機製作所が 「トヨタ自動車」 になったように
熊田家が造った特製アンパンを 「くまたぱん」 にしたのか?
話は違うが乾麺製品で、うどん、ソバ、ラーメン、ソーメンは判ったのだが
ウーメン(温麺) だけがどうしても謎だった。


最近これが、隣の宮城県(白石市あたり) の食べ物だと判明した。
たぶん麺の太さとか成分が違うのだろう。  さすがに、「きしめん」 までは作っていなかったが。
こちらは愛知県の食べ物である。  私としては、幅が広すぎて麺という感じがしない・・・・。


かように厳格な麺の規格に囲まれて育った私だから、喜多方へ赴任した時は
ラーメンの太さに 「これはタンメンではないか?」 と手が止まった次第だ。  さらに
屋台で 「浪江焼きそば」 を食した時など、「これはソバではなく、うどんだろ!」 と
異議を申し立てそうになった。  「絶対に須賀川の規格からは外れている」 と、


しかし単に 「地域差」 でしかないことで、自身を納得させた。
製麺所が違えば、同一呼称の麺でも太さが違ってくるということだ。
それから言えば学校給食で出たうどんは、私の規格では 「うどん」 ではなかった。
あれは 「うどん」 と 「ソーメン」 の中間の麺だった。  黙って食べたが・・・・。


また前にも述べたことがあったが、会津に行って 「かつ丼一つ!」 と注文すると
当然のごとく 「ソースかつ丼」 が出てくる。  「煮込みかつ丼」 を期待しているなら
「煮込みかつ丼」 とはっきり言わなければだめだ。  これは会津人が意地悪をしている訳でなくて
会津では 「かつ丼」 の意味が逆転している、それだけのことだ。


会津のラーメンが太いのも、あるいは冷めにくいように、ああなったのかもしれない。
猫舌の私としては余計なお世話なのだが。  中島村の 「あんかけラーメン」 では舌をやけどした。
あのラーメンは、極端に冷めにくい。  それから私の基準として、麺の上にゴテゴテ載ったものは
タンメンとしては許容するが、ラーメンとしては許容しない。  出ればもちろん食べるが・・・・。


「なんだ、食べ物には結構うるさいじゃないか」  基準はあるがそれだけのことで、なんでも食べる。
なにせ、「お百姓さん有難うございます」 と言って、ようやく給食に手を付けられた世代だし
一粒たりとも食器に米粒を残してはならない・・・と厳重注意された世代でもあった。
残すくらいなら、初めから箸をつけるな・・・とも言われたな。  それが病院に入院した時
「無理して完食する必要はありません」 とキッパリ言われて、世界が逆転した経験がある。

「迷走する瞑想集582」 2017/02/09

よく見ると 「くまたぱん」 と商品名が書いてあるが、少なくとも東町(ひがしまち)界隈では
昔は 「くまだぱん」 と呼んでいた。  だって作ってる家が 「熊田さん」 なんだから。
今風に軽い感じの 「くまた」 に替えたのか?  それとも昔から、そういう商品名だったのか?
勝手にみんなで 「くまだぱん」 と誤認していただけなのか?  自己疑惑は深まる。


ところで須賀川市は、お菓子のほかにも乾麺製造が盛んだったし、「須賀川のぼたん園」 や
「大桑原のつつじ園」 も有名だし、お祭りに至っては 「釈迦堂川の花火大会」 や
「松明明かし」 など、全国版に載ってもおかしくない祭りが複数ある。  加えて有名人には
二大 「円谷(つむらや)」 はいるし、ウルトラマンは市内や飛行場に多数いる。


その割に、郡山市の南隣でありながらパッとしない。  元城下町であっても、商人と農家の街
というイメージがする。  市街の西ではキュウリが有名だし、東では確かリンゴが生産されている。
ところで、キュウリと乾麺のコラボレーションはその後どうなったのか?


有り余る人を引き付ける要素を持っていながら、観光客は現地を見終わるとほかに行ってしまう。
これは、一つには貧欲さの不足であろう。  東京オリンピックのマラソンで三位になった
円谷幸吉選手の地元でありながら、ふくしま駅伝で優勝したのは過去一度ぐらいしかない。
もっとも、いい所までは毎回いくのだが・・・・。


かつては 「赤トリイ」 という総合デパートがあったのだが今はなく、買い物は郡山へだ。
逆に言えば、小さな商店がまだ多数生き残っていられる街、とも考えられる。
落ち着いた街なのだから、ここは一発公園など造ってないで大学でも誘致してみては。
在来線で郡山から二駅というのは、福島市と金谷川の関係に似ている。  福島大は金谷川にある。


金谷川には高速道路の出口はないが、須賀川には須賀川インターチェンジがある。
新幹線の駅はなくとも、高速バスは運航できる状況だ。
隣の郡山から眺めれば、須賀川の豊富な集客要素はよだれが出る思いだろう。
もっとも宿泊設備は圧倒的に郡山が勝っているから、いずれ郡山に流れては来るのだが・・・・。


市街地から鉄道の駅を遠く離したのが、三春町や須賀川市の失敗の一因であろう。
郡山などは、磐越西線・東線を無理やりひん曲げて郡山駅に引き入れたのに・・・・。
これも元宿場町と元城下町の差であろうか?

「迷走する瞑想集581」 2017/02/09

ツイッターに、いわき市の銘菓 「じゃんがら」 のことが載っていたが
郡山市の 「薄皮饅頭」 や 「ままどおる」 で騒いでいるのであれば
遅きに失した感がある。  かつては大判の 「じゃんがら」 のほうがメインであった。
平市街への出張のお土産は、大抵この 「じゃんがら」 であったと記憶している。


そのほかにも、今はない 「かつぶし飴」 を買ってきたこともあった。
ニッキ味で、小さなトンカチが付属している。  これで細かくして舐めるという寸法。
かつぶし状の現状のままでは、口に入らない。  そして最後は、トンカチだけが残ってしまう。


中通りの須賀川市にも思い出がある。
いまも元気な 「くまだぱん」、この店はもともとは十字路の一角にあった。  そして
その向かいに 「かみしめ」 の、かみしめ屋があった。  その両店とも、今は移転している。


子供心には、「熊田パン屋」 はパンを買う所で、「かみしめ屋」 は駄菓子を買う所という
認識だった。  「くまだぱん」 は、アンコをさらに砂糖でまぶした究極の甘いお菓子だったから
渋いお茶なしでは二個以上は遠慮するしかない代物だった。  それに対して


「かみしめ」 はそんなに甘くないし、パリパリして私は好きだった。
今も作り続けているのだが、「くまだぱん」 と何で差が広がったのだろう?
店の人に伺ったら、水飴を使用しているため夏場は生産しないとのことだった。
つまり、お盆の頃には店に置いていないということだ。  従って、帰省客のお土産にはならない。


もちろんお彼岸の頃には店にあるのだが、これは大きなハンデである。
ほかにも、須賀川のお祭り 「松明明かし」 を思わすお菓子 「松明絵巻」 があるのだが
私としては是非とも 「かみしめ」 を買って帰りたい。  これなら一度に五、六個はいける。
年中は作っていないお菓子というのが、かえって食欲がそそられてならない。


まあ私個人とすれば、あんまりメジャーにならないほうが・・・・。
あと福島市に出張の折は、お土産は決まって太陽堂の 「むぎせんべい」 だった。
だから私の中では、福島市と 「むぎせんべい」 は強固にリンクしている。

「迷走する瞑想集580」 2017/02/08

私の使用しているテレビは、かつての楽しさを届ける 「テレビジョン」 ではなく
AV機器ターミナル兼ディスプレイに変容しつつある。
テレビの構造が、もはやそれを想定しているし。


かつては、プリメインアンプがその役を担っていた。  しかし現在は
アンプはテレビに接続された付属品に過ぎない。  BD・DVD・CDプレイヤーがすでに
テレビを通してアンプに接続されているし・・・・。


ビデオ装置を合体させたときから、テレビ番組はニュースを除いてリアルタイムで見たことがない。
依然は見ようと思っていながら、忘れていて見逃した経験が度々あったし。  しかし今は
一週間分の録画予約ができるから、決まった時刻にまとめて視聴できる。
それをディスクに焼けば、パソコンでも見ることは可能だ。


反対に、写真のスライドショーはテレビの大画面で見た方が気持ちがよい。  だってテレビに
メモリーカードが直接差し込めるんだから。  しかし私の話したいのはテレビの多機能ぶりではない。
最近、二十数年使ったアンプの左チャンネルの音が出なくなり、あきらめて新しいのを買った。


スピーカーは依然として、ハードオフで見つけた中古の小型である。
すると、「スピーカーをもっといいものに替えれば、ずっと音はよくなるのでは?」 と言う声が
耳元で囁いた。  さて、ここからが本題である。


蛇口の大きさだけを大きくしても、出る水の最大量は変わらない。  なぜなら
水道管の太さが変わらないから。  我が家に分岐する水道管全部を太くすれば、水量は増えるだろう。
何を言いたいかお判りかな?  たとえアンプとスピーカーをグレードアップしても
音の入り口と中継点が元のままでは、本質的な音のグレードアップは望めない、ということ。


そこで諦めることにするか? オーディオの泥沼に突っ込んでいくか? の分かれ道である。
第一段階は、スピーカーの置き場所の問題から始まると、過去の経験から推測できる。
そうなると、居間の備品の大移動が始まることになる。  しかし私は、これをやりたいとは思わない。
たんに、ものぐさだから・・・・。


さらに中継点のテレビの音響能力も問題になるだろうが、これも替えたいとは思わない。
本格的にやる気がないのであれば、意味のない「部分」のグレードアップなどやってもしょうがない。
壊れた部品だけ交換していればよい、という結論に達した。  交換した古い部品の置き場所もないし。


で、どうすることにしたか?  不足している音は、私の脳で補うことにしたのだ。
要するに、想像力である。  これはいくら高価なオーディオ装置を持ってしても、いずれ必要になる。
もっといいオーディオ装置の音を聞いてしまえば。  どういう音が自分の一応の理想なのかを
明確に決めないで泥沼に突入すると、永遠に泥沼から這い出られない(であろう)。


だから私は、ハイレゾリューション音源にはまったく興味がない。
そんな超高音は、私には聞き取れないだろうし・・・・。
それに併せて機器をそろえるなど、まさに無駄な投資だと自分を納得させた。
音楽鑑賞も、想像力が絶対に必要だ。  それには生演奏も含めて、多くを聞かなければならない。

「迷走する瞑想集579」 2017/02/06

私は学生や職業人であった頃、神経がチカチカしてすぐに眠れなかった夜などに
詩をよく書いていた。  一編の詩は30分から1時間あればできる。
だから私にとって詩作とは睡眠導入剤であり、詩などは薬の空き袋に過ぎなかった。
そして思いの外これがよく効いた。  次々に続編が浮かんでくることもあったが・・・・。


昼間とまったく関係のないことに神経を集中するのは、パスカルが歯痛の時に
数学の問題を解いていたことと類似性がある・・・と私個人は考えている。
天才と凡人の差はあるにしても、発想は気を紛らわせることだ。
問題が解ければまた歯痛は襲ってくるが、書き終えたあとの頭はヘトヘトになり、あとは寝るだけだ。


さらに勤めてからは酒の効果も加わり、睡眠不足とはまったく無縁だった。
いかに職場に心配事があろうとも布団に入ればコロリで、何度も目覚まし時計を見たのは
お茶を飲み過ぎた時ぐらいだった。  「それは、お前が無神経なだけなんじゃ・・・?」
それは違うと思う。


いま詩を読み返してみても、当時の焦燥感が漂っているし
明るい詩にさえ、裏返しの空元気が感じられる。  原則として、気分が持ち直した時には
詩を書きたいと思わないのだ。  だから制作月日を見ると、何年もの空白期間が存在する。
そして、勤めを辞めた後はまったくと言っていいほど、詩を書いていない。


睡眠導入剤の服用を卒業したのだ。  今なら 「何時まで眠られないか、起きていて確かめようぜ」
の心境だし、就寝前の一杯のコーヒーなど何の障害にもならない・・・困ったものだ。
ということで本題に入る。


詩とは、現実を書くべきか?  それとも、自分の中のもう一つの世界を描くべきか?
という問題である。  私の結論は、後者のほうである。  現実を描くだけなら
「現実」 という舞台が最適である。  勝負事がやりたかったら、ゲームなどより
現実社会の方が格段にスリルがあるのと同じように。


「待った!」 は一切効かないから。  それに不条理なハンデも厳然と存在してるし。
だから 「本当の勝負師」 とは、現実を生き抜いている人のことを指すのだと思っている。
詩とはそれから見れば、バックドアの役目を負っていると見ている。
こっそり抜け出す裏木戸のことである。


風が通り抜けるためには玄関と裏口が開いていなければ、風圧の高い表口だけでは
家の中は吹き溜まりと化してしまう。  李白とて実際は、官吏の職に就いていたかったのだ。
だが彼の場合、表口よりも裏口の方が格段に大きかった、それだけのことだ。
詩を書くために詩人になる・・・そんな人を私は信用しない。

「迷走する瞑想集578」 2017/02/06

紙幣はパリパリの新札よりも、多少ヨレヨレになっていたほうが財布から出しやすい。
実際私も 「あっ、千円多いですよ」 と一枚返された経験が何度かある。
これを、老人性指先機能認知障害だと笑ってはならない。  私が言いたいのは
お金の話ではなく、「言葉」 の話のほうだ。


文筆家なら新しい表現を造り出したなら、一種の快感を覚えることだろう。
科学者の新しい法則を発見した時に似ているが、あくまで窮余の一策であることを忘れてはならない。
既存の表現法では表現しきれない場合にのみ、新しい言葉の造語が許される。
新しい言葉を造ることが快感になってしまったのなら、それは本末転倒であろう。


まずは既存の言葉で、自分の思いを表現することに努力を傾注すべきだ。
論理なら、既存の言葉で表現できる。  なぜなら頭の中では、既存の言葉で思考しているから。
しかし感情はそうはいかない。  言葉にならない段階のモヤモヤした感情を
既存の言葉に置き換えるのは、多大な試行錯誤が伴う。   だから


パッと的確な表現を見つけられるのは、書き手の一種の才能である。
楽譜の原稿に推敲の跡がまったく見られなかった(映画:「アマデウス」) モーツァルトは
まさに究極の才人であるし、「原石の中に像はすでに存在する」 と言ったミケランジェロも
そうであろう。  しかしそんな芸術家はまれである。


造っては壊しした彫刻家や、何度も手を入れて汚くなった楽譜の作曲家のほうがほとんどである。
なぜ、そうしなければならなかったか?  音楽家は作品を、最終的に楽器や人の声で表現される。
それ以外の表現方法はないから、思いの翻訳に試行錯誤が延々と続いたのだと思う。
何を表現するのであれ、「音」 という既存の表現手段に拠らざるを得ない宿命だ。


だから文筆家も、安易な造語に頼ってはいけない。  たとえ音楽家が、音符の組み合わせで
まったく新しい表現を得たと自画自賛しても、大衆に受け入れられなければいずれ消える。
それは、意味のある旋律とは認められないから。  いかに音楽家が悔しがったとしても。
文筆家は、普段使わないような言葉でさえ乱筆すべきではない。


平易の言葉の文章の向こうに作家の姿がはっきりと見える、これが理想だと考える。
読み手に読解を強いるようでは、「文章=意思の伝達手段」 としては不適格である。
だから説明の入れられない短い文章ほど、苦行になるのだ。
なにか、ボイルの法則(気体の体積と圧力) に似ているような・・・・。

「迷走する瞑想集577」 2017/02/04

小さい子供を二人ぐらい連れたお母さんが、雑踏の中で言う事を聞かないのに業を煮やし
思わず我が子に注意を促す(叱りつける、とも言う) とき、もはや日本標準語は吹っ飛んでいる。
いかに都会的な装いを身にまとっていても、叱り声だけはまさにネイティブな福島の言語なのであって
私はこれを 「開成山こどもまつり」 の会場で、何度も目撃した。


首都圏からの親子といってもおかしくない風情なのに、背後で怒鳴る声を聴いたら
どこにでもいる福島のかーちゃんの話し方だった、というまさに 「騙された感」 が残ったのだ。
口にチャックを閉めたままでいたなら、そのまま幸福に騙され続けていられたであろうが。
公用語と生活語の二種類を操る東北人の悲哀である。


頭に血が昇ると、直接母国語の罵倒の銃弾が乱れ飛ぶ。  これは例えば
スペイン人とギリシャ人の外交官同士の喧嘩を想定してみれば、理解できるのではないか。
普段は英語などの公用語で諸問題を話し合ってるのだろうが、個人的な誹謗中傷に話が及ぶと
途端にスペイン語とギリシャ語でののしり合いが始まる。  本人は勿論言ってる意味は分かる。


しかし相手には、さっぱり何をぶつけられているのかが分からない。  たぶん汚い言葉だ、ぐらいは
推測できるにしても・・・・。  「お前それどういう意味?」 「これはなあ・・・・」 では
喧嘩が続かない。  いちいち翻訳してやらないと相手に伝わらないのでは、疲れるだけだ。
かくして母国人が集まる酒場で、それぞれが再度怒りを爆発させることになるであろう。


神がバベルの塔で人間の言語をバラバラにさせたという神話も、考えようによっては
正解だったのかもしれない。  単一の言語なら、際限なく喧嘩ができるだろうから。
しかしその反作用で、こんどは腕力で勝負を決める方向に向かっていってしまった。
腕力には、少なくとも言語の壁は存在しないから。


ドイツ人やインド人のように理屈っぽいといわれる人種と、日本人のように
なるたけ言葉を発しないのを好む人種とでは、もし単一の言語であったなら勝負は目に見えている。
おそらく日本人は、ほぼ全員自閉症のようになってしまうだろう。  ただし、何を話せるかと
何を考えているかは別物である。  討論の必要のない芸術家なら生きる道はあるだろう。


説明能力とは、一つの考えを幾つもの例に噛み砕いて説明することが可能な能力のことである。
これが欠如していると優秀な技術者でも、素人への説明会場で立ち往生してしまうことになる。
だから説明能力とは、発想力と言い換えることもできる。  聞き手の反応を見て
次々に表現を変えてみることができる能力は重要だ。  しかし詐欺師のことではない。

「迷走する瞑想集576」 2017/02/02

平成10年度に共学となり、名前を 「福島県立郡山東高等学校」 と改めたのにもかかわらず
その前の通りは依然として 「郡女通(ぐんじょどおり)」 と呼ばれ、タクシーに乗った時も
「郡女通りを上がりますか?(坂になっている)」 と聞かれる不思議。


郡山市の市街地の南にもかかわらず、東高校と名付けた不思議も気になる。
タクシーの運転手さんの説によれば、県立高校で一番東の端に位置するから、ということらしい。
しかし私立高校までカウントすれば、一番東ではない。


女子高の時代には、郡女は普通科のほかに家政科と保育科まであった。
このほかに県立の女子高では、安積女子高等学校があったが、こちらは普通科のみの
バリバリの進学校であった。  だから県立女子高であっても、安女生(あんじょ) と郡女生では
卒業生を見る限り、明らかにタイプが違う。


片方はピリピリした感じだし、他方はホワーンとした・・・・・。  だから陰で男子高生は
「恋人に連れて歩くなら○女生、嫁にするなら○女生」 と皮算用をしたものだ。
そういえば夏用の紺色のベストの襟も、片方はV型で他方はスクエア型で、校風そのままだった。


しかし今になって考えてみれば、県立の男子普通校が一校しかなかった時代に女子普通校が二校あって
そのほかに私立の女子工業高校や女子短大付属高校(通称たんこう)まであったのだから
郡山市は、なんか女性に甘かったのではないか?  もちろん商業高校は共学であったが・・・・。


話は変わるが、過疎に悩む地域の町長が過去に目論んだ人口増加策をいま思い出した。
それは町内に病院を建てるという方法である。  病院はどこでも欲しいのだが、その目指すところが
非常にユニークだ。  病院には医師と同時に、多数の看護婦(現:看護師) が必要不可欠である。


多数の看護婦が勤務しているとなれば、おのずと若い男性たちも寄ってくる。
その中には結婚までこぎつける輩もいるであろう。  そしていずれは子供も生まれるであろう。
夫婦で住むとして、町外からの通勤は夜勤などもあり大変だから、町内に居を構えることになる。
はっきり言って 「甘い罠」 方式であるが、実際これで人口は増加に転じたそうである。


郡山市にも、当時で三つの総合病院がすでにあったし、その後さらに一つ加わった。
もしや、かの町長の方式を今も実践しているのが、郡山市ではあるまいか?
高校で女子校が四つも存在したことも、今から見れば怪しい。  だから、郡山の人口は今も
ジワジワと増加しているのでは?  病院は住民にとってもありがたいが、市役所もまた・・・・。

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