「迷走する瞑想集794」 2017/08/18

人は、未来の悪い予言を回避するために、あらゆる措置を講ずるだろう。  これは間違いないとして
それでも、あらゆる悪あがきの末に予言が実現して、あげく 「お前の回避措置はすべて織り込み済みだった」
と予言者に言われたなら、「結局、何もしなくても一緒だったんじゃ?」 と自問自答する羽目になる。
回避措置が読まれていたのなら、やっただけ無駄な行為でしかなく、避けてたつもりが所定の行動だった。


こうなったら、やりきれない。  ただしあくまでも、悪い予言の場合である。  予言には
飛び上がって喜ぶような予言も存在するのだ。  そうなったら、人は回避措置などしないだろう。
かといって何もしないと、前項の受験生のようにならないとも限らない。  やはり結論に至る道筋を
詳しく聞いておくべきだ。  結果のみの好予言で、舞い上がってはいけない。  マクベスのように。


では、生命保険に入る場合のように、詳しい注意事項の説明が事前にあるだろうか?  それを聞かないうちは
いかに高名な予言者であろうとも、オレオレ詐欺のように疑ってかかるべきだ。  相手を喜ばせるだけなら
子供でもできる行為だ。  ぬか喜びに終わらないためにも 「確たる工程表を示せ」 と迫っていい。
もっとも、間髪を入れずに工程を示せるぐらいなら、とっくに別な職業に就いているだろうが・・・・。


「街の幸せ売り」 ぐらいに思っていれば、まず大けがをすることは避けられるだろう。
彼らは、お客が密かに望んでいる状態に、予言を合わせられる特異な才能がある。  予言者の声は、実は
本人の内面の声なのだ。  悪いことばかり予言する予言者は、たとえ外れても恨まれはしないだろう。
馬鹿にされる恐れは多分にあるが。  しかしポジティブな予言をする予言者は、そうは問屋が卸さない。


うまく的中すれば良いが、外した場合は馬鹿にされるだけでは済まないだろう。  だからこういう予言者は
「言い訳の引き出し」 をできるだけ多く持っていなければならない。  あるいは、逃げ足が速いとか・・・。
お客からの質問を、「おだまり!」 と言って遮るのは、気位が高いようだが気を付けた方が良い。
全体像が見通せないから、質問をいっさい受け付けない場合も・・・ないとは限らない。


ところで、予言者類が近寄ってこない人間とかも、やはり現存するだろうか?
何にでも屁理屈を付けて言い返す俗に言う 「いない方がいい人」 などは、防虫成分が効いているだろうか?
しかし何かしら望むことがあれば、付け入れられる隙は十分にある。  周りに相談する人がいない分だけ
もっとたちが悪いといえるかもしれない。  たとえマクベスになっても、誰も同情などしないだろうが・・・。

「迷走する瞑想集793」 2017/08/18

映画 『ペイ・チェック』 の終盤では、殺されるはずの主人公が殺されなかったという
どんでん返しが現われる。  しかし映画では、未来をのぞき見る機械が不鮮明だったがために、あるいは
動画を終わりまで確認しなかったがために起きた現象で、未来の予測にはなんら瑕疵はない・・・という立場を
取っている。  つまり、未来をあらかじめ知ったとしても、未来はなんら変わらないという主張だ。


さらに言えば、未来をあらかじめ知ってしまうことは織り込み済みである・・とも取れないことはない。
そうなると、現在の行動さえ選択の余地はない・・ということになる。  いわば過去の出来事と同じように
すでに 「確定した事」 という位置づけだ。  これは映画 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 に
真っ向から反論した映画だ。


あの映画では、未来はおろか過去の出来事までも、修正可能だと主張しているのだから。  いわば
神が過去・現在・未来の歴史年表を、修正液片手に眺めているようなものだろう。  神には区分など
はなから存在しないのだから。  タイムマシンは、そういう神への憧れでもある。
一方 『ペイ・チェック』 は、「全ては、年表に記載されているまま」 という、これも神の領分なのだ。 
さらに悪いことに、人間の自由意思は全く反映されないという、おまけ付きだ。  ただ勘違いだけが許される。


もし 『ペイ・チェック』 のように、未来を知って自分の意思で道を変更したとしても
最終的予言に間違いはないとしたら、予言者たちはずいぶん気楽になれるであろう。  どうあがいても
結局は予言通りになるのだから。  気まぐれな人間たちも、実は行動記録のとおり動いているだけという
いわば 「神の視点」 で見た場合の予言に過ぎないのだ。  しかし神は、最後まで決まっている映画を見て
はたしてつまらなくないのだろうか?


過去に 「大洪水」 まで引き起こして訂正を図ったようだが、あの 「間違い」 も織り込み済みなのか?
それとも神も、「年表」 の一員に過ぎなかったのか?  人間がどう動くか予測困難なら、そもそも
未来永劫までの年表など作れるはずがない。  結局神も、場当たり的対応でお茶を濁していたのでは?
「神の怒り」 って、そんなにしょっちゅう怒ってばかりいるの?  何もかもが、思うようにいかないから?


さて、話を本筋に戻そう。
未来を知ることが、未来を変えてしまうことにはならない。  なぜなら、「未来を知ること」 も
織り込んだ上での予言だから。  『ペイ・チェック』 の主張であるが、検討を要する。  この映画では
未来のある時点だけを見てしまったが、もしそれから逆に遡って現在までの行動を逐一記憶することができたら
主人公は 「そのとおり」 の行動をたどっただろうか?  映画の理論では、「正確にたどるはずだ」 になる。


はたしてそのとおり行動するだろうか?  周りの状況が同じなら同じように行動するはずだが、この主人公は
その最終結果まで知っている。  その場合同じ状況でも、あえて違った行動に出たりはしまいか?
筋書きの一カ所でも書き換えられれば、うまくいけば最終結果も変わるかも・・・そう考えないだろうか?
九分九厘そう考えると思う。  人は破滅までの時間を、座して待つようなヤワな神経はしていない。


とすれば未来は確定しているようで、必ずしも確定していないことになる。  それからいけば
『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』 の未来図の方が、まだ実感に近い。  ただし、未確定な未来世界なら
実際に行けるはずがないのだ。  まだデッサンの段階なのだから、絵ができていないではないか。

「迷走する瞑想集792」 2017/08/17

現在の素粒子の状態をすべてコンピュータに入れ、一月後の予測を計算できるとしよう。(ラプラスの魔)
しかし計算結果が正しいのが判明するのは、やはり一ヶ月後である。  そうこうして
コンピュータ予測が間違った答えを一切出さないことを確認できたとして、次の場合どう判断するのか?


ある受験生が、一ヶ月後の試験結果を予測してもらった。
コンピュータは 「貴方は100パーセントの確率で合格します」 と答えた。
受験生は喜んで、受験勉強をその時点で放棄して遊びまくった。  一ヶ月後、当然のごとく
受験生は試験に落ちた。  「100パーセント合格すると言ったくせに」 受験生は訳が分からなかった。


これは災害の予測でも起こりうる。  「A島は津波に襲われますが、死者は出ません」 と予測した場合
「じゃあ避難の必要はないな」 と高を括っていたら、大勢の死者が出た。  「この嘘つき!」 と
なじってもあとの祭りだ。  コンピュータは、津波の予測によりすべて避難を完了する・・という前提で
「死者は出ません」 と答えを出した。  しかし島民は、その予測により避難を取りやめてしまった。


なにかマクベスを見ているようだが、どこで予測が間違ったのだろう?
コンピュータは、大津波の予測の次の行動は当然、島民は全員避難するはずだ・・と計算していった。
島民は、本来なら避難するはずだが、未来予測で 「死者は出ません」 とお告げがあったから
ならばわざわざ逃げることはない・・と行動パターンを変えた。  それでは逆に


「大量の死者が発生します」 と言えば良かったのか?  さすれば島民も震え上がって
間違いなく全員避難してしまうだろう。  これでもコンピュータは 「嘘つき!」 と言われることになる。
では極端な話、予測を示さなければ良かったのか?  未来を知ったがために行動を変更した・・これが
結果的に予測を外してしまったのだから。  あるいは、二つのパターンを両方示すべきだったのか?


それでは馬券の予想屋より始末が悪い。  各論併記していいのなら、コンピュータを動かすまでもない。
予想屋を三人ぐらい集めて、好き勝手に予想させる競馬新聞と似たものだ。  結論として
未来は理論上予測可能だとしても、その 「予測」 が未来を変えてしまう恐れがある。  だから未来は
人間が絡んでくると、依然として不確定なままなのだ。  それを自由と呼べるかどうかは、なんとも言えない。


カッサンドラの予言が百発百中だったのは、誰もその予言を信じなかったから・・ということも言える。
あれで人々が信じて、次々に回避行動を取ったなら、カッサンドラの予言はことごとく外れる運命にある。
そうなればやはり人々は、カッサンドラを信じなくなるだろう。


未来を正確に言い当てると評判の予言者は、一方でことごとく予言と結果が食い違ってくるという、なんとも
やりきれない事態になりそうだ。  これを逆手にとって無能な予言者は、結果が違ったのを
「貴方の回避行動が正しかったから、予言とは違う現実が来たのだ」 とうそぶくかもしれない。

「迷走する瞑想集791」 2017/08/17

「すべて成るようにしか成らない」 としたら、人間は一切のやる気を失うだろう。  ここで注意するのは
「成るようにしか」 の意味が、一般的なものと違うことである。  一般的には 「偶然のままにしか」 の
意味だが、今回言っているのは 「それ以外起こりえない」 の 「成るようにしか」 である。  つまり
未来永劫に渡って出来事がすでに決定されている、とした場合の話である。


「未来のことが、なぜ決定されているんだ?」 もっともな疑問である。  人間から見れば、未来は
不確定なものでしかない。  だから多くの者が、海原に乗り出してゆく。  しかしもう一つの視点
「永遠の相から見れば」 の神の俯瞰する視点で言えば、過去も現在も未来もないそうである。  すべては
年表に記載されており、瞬時に出来事間を移動できる。  そんなものらしい。


実は人間も、不完全ながらこの目は持ち合わせている。  それは 「過去の出来事」 についてだ。
過去はもはや動かず、紀元前から20世紀までだろうと瞬時に視点を移動させられる。  ただ
神の視点と違うのは、現在と未来とをあらかじめ知ることができない点だ。  しかし人間は、その能力までは
要求しないだろう。  未来を知って儲ける人はいるだろうが、その直後に強盗に殺される運命かもしれない。


未来の出来事は、自分に都合が良いことばかり、とはいえないのだ。  神のように、年表から完全に距離を
置いていないと、自分も巻き込まれることになる。  しかし考えようによっては、人間が
「神の視点」 を語れるというのが、微笑ましい。  もっとも自分自身でも、自分を見下ろすもう一人の自分
を感じることが、ないわけではない。  「いったい自分は、何人いるんだ?」 と思わないでもないが。


たとえば、二人の自分がいれば、対話劇を書くことなどは、いとも簡単なことだ。
どっちが最終的に言いたいことなのか、分からなくなってしまう危険性はあるが。  しかしさすがに
三人の対話劇は逆立ちしても書けない。  そこがプロの脚本家と決定的に違うところだ。
大勢での会話を好まない習性も、あるいは関係しているのかもしれない・・・・。  酒はサシで飲むべきだ。

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