「迷走する瞑想集985」 2018/04/22

飼い犬や飼い猫が、いつも飼い主のことを見ていると感じるのは、はたして真実なのだろうか?
たんに餌が欲しいがために、飼い主にこびを売っているだけではないのか?  だから
飼い主以外の人間に対する対応が本来の行動指針なのであって、飼い主は考え違いをしている。  あるいは
自分に酔っている・・と考え出したら、離犬症あるいは離猫症と診断されてしまうのか?


私は路地を歩くと、ほぼ例外なく庭の犬に吠えかけられるし、例外なく横断猫には無視される。
「これが奴らの真の姿なのだ」 と思いながら通過してくるが、飼い主は気付いていないだろう。
敵意あるいは無関心な態度で臨む人間には、犬猫も同様の方法で対処してくる・・と考えるべきなのだろうか?
「猫っ可愛がりしないお前が悪い」 と被告弁護人は反証するのだろうか?


ならば再反論しよう。
「どこの馬の骨とも分からぬ猫を、いきなり撫でてなどやるものか」  そうだ、人間であっても私は
一目惚れは絶対にしない主義だから。  これは、もてない言い訳ではなく・・もちろん反論は一切許さない。
そして相手に対する観察が長すぎて、時間切れになってしまう。  私は4~5年ごとに住居が替わったから。


頭を冷やして話を戻そう、犬や猫について述べていたのだった。
犬が飼い主にしかられてシュンとしている時、本当に悔恨と反省をしているのだろうか?
シュンとさえしない脳天気な犬は、今回は除外するとして、人間のように知能の高い生物でさえも
素直に反省しているかというと、そうとばかりは言えない。  飲み屋で憂さを晴らす状態が皆無かというと。


人間でさえ、他人の心の中は分からないのである。  まして他の生物である犬や猫の考えることなど
推測できるわけがない。  あれは飼い主の心の投影が、犬や猫に人間らしさを与えているだけなのだ。
飼い主は、自分がいない時の犬や猫の状態を見てはいない。  「いや、監視カメラに撮ってある」 という
恐るべき監視体制を敷いている飼い主も、中にはいるかもしれない。  そういう飼い主は


自分の犬や猫を、はたして可愛いと思っているのだろうか?
犬嫌いや猫アレルギーの人たちは、間違いなく存在する。  そして、タバコ嫌いの人たちも同様に存在する。
もし嫌煙権が正義だとすれば、ペットも家の中から外に出すことはできなくなる恐れがある。
どんどん彼らの居場所は狭められる。  喫煙スペースが撤去されていくように。


久しぶりに郡山市民文化センターに行ってみたところ、建物の周囲2カ所にあった灰皿が撤去されていた。
公共施設敷地内全面禁煙が、いよいよ始まったのだ。  つまり、「喫煙者は、当ホールに立ち入りを禁ず」
ということである。  病院は、もっと早くから敷地内全面禁煙を実施していた。  つまり
「喫煙者は、当病院では診察しない(よそへ行け)」 という意思表示である。  犬や猫もいずれ・・・。


ひとつぐらい 「敷地内全面、喫煙可」 の病院があっても良さそうだが
院長がよほどへそ曲がりでないと、実現は難しいであろう・・・。
終末期医療の老人専門の病院なら、「この際だ、好きに吸わせてやれ」 とならないか?  無理だろうな。

「迷走する瞑想集984」 2018/04/20

ある病院(要するに私の行っている病院だが) で、最近女性看護師の白衣のサイドが
4色あることに気がついた。  それで、採血の時に注射針を抜いてから(当然だ)質問してみた。
「あの色違いは部署の違いか、はたまた勤務シフトの違いなのだろうか?」 それに対して
「職員は皆4色の白衣を持っていて、勤務時に何色を着てきても構わない」 という答えが返ってきた。


白衣は院内の作業着のようなものだから、当然病院側が支給するだろう。
それを4色の色違いを全員に配布するとは、なんと太っ腹な病院なんだ・・と内心で感服した。
あれが白一色なら安上がりだろうし、「今日はどの色を着ようか」 と迷わないで済む。
それをなぜ、わざわざ金を掛けていることを病院側は見せつけるのか?  それが謎だった。


最近と書いたが、去年の年末にはそうでなかったと思う。  今年に入ってからだ、変わったのは。
それに各看護師が、洗浄液のボトルを肩に掛けている。  何かに触った時には、まめに吹きかけるようだ。
それで思い出したのが、去年暮れの院内感染騒ぎである。  院長がテレビのニュースに出たのを憶えている。
あの対策と4色の色違いは、なにか関係があるのではないか?


でなければ病院が、伊達や酔狂で看護師のカラフル化に手を貸すわけがない。
病院内が殺風景でなくなったのは、あくまで副次的な効果でしかない・・と私は睨んだ。
ということは、看護師が同じ白衣を二日続けて着ないよう、相互に監視させているのか?
白一色では、それが分かりづらいから。  う~んそうだとしたら、恐るべき監視体制だ。


私を診察した医師にそれを質問すればよかったが、思いついたのは会計で待っている時だからどうにもならない。
しかし仮に、自分は緑色が好きだからと 「緑色ばかり」 を選ぶ看護師は、処罰の対象になるのだろうか?
機嫌がよくない日は 「赤色」 を間違いなく着る看護師は、皆から警戒されるだろうし。
4色を順繰りに着るだけの、配色にまったくと言っていいほど興味を示さない看護師は・・・。


「自由に色を選んできてよい」 となれば、女性は少なくともサイコロで色は決めない・・と思う。

「迷走する瞑想集983」 2018/04/06

もし貴方が、有能な人物写真家の撮影した女性モデルの写真を見て、「美しい!」 と感激したとしても
写真家に騙されているわけではない。  まさに、モデル本人を撮影しているという意味では。
さらに、街でこの女性とすれ違って気がつかなかったとしても、貴方は写真家に責任を問うことはできない。
写真家は、モデルの数ある顔の中から最高と思える瞬間を、写真に定着させたに過ぎないから。


衣装を選び、ライトのセッティングを試行錯誤し、モデルを和ませ、何十枚も撮影し、そしてその中から
最高の一枚を選び出す。  それは好条件が幾つも重なった時に見せる、類い希な表情であるはずだ。
だから普段の条件下では、滅多にお目にかかれないだろう。  幻滅するのは勝手だが、嘘はついていない。
これは、風景写真家も一緒だろう。  最高のポイントで、最高の瞬間を狙うという意味では。  逆に言えば


当たり前の写真では、もはや見ても面白くないのだ。  コンテストに出しても、最初にはねられるはずだ。
この 「嘘」 ではないが、「まれ」 な写真こそが世に重宝される。  そしてカメラマンは、それを目指す。
しかし永遠に実物を目にしない人相手なら、これでも許されるだろうが、実物と見比べられたらどうするか?
「最高の一瞬」 と 「普段の顔」 とを、分けて考えてくれるだろうか?  それが心配である。


たとえば 「見合い写真」 なら、いずれ実物と対面するのだから、写真に過剰な装飾を施しても無駄になる。
「会ってみようか」 という気を起こさせたにしても、落差があまりに大きいと逆にマイナスになる恐れがある。
これは、観光地を撮影した写真にも言えることだ。  一般観光客は、最高のポイントと時間には遭遇できない。
下手をすると期待が大きかった分、二度と訪れないかもしれない・・・。


「あり得ない最高の一枚」 を選び出すのは、多くの人に見せる場合によく考える必要がある、と思う。
たとえ写真家本人は 「嘘はついていない」 と確信していたとしても、結果的に人を騙すことになるとすれば。
もっとも 「普段通りの顔」 というのも、以外と撮りにくいのは事実であるが・・・。
レンズを向けられて、その演技がすぐにできるとしたら、被写体はたいした 「役者」 であることは確かだ。

「迷走する瞑想集982」 2018/04/05

「仕事半端にして、次のことに取りかかっちゃだめ」 とは、よく言われることではある。


確かに一つ一つ確実に終了させていくのが、行動の基本であるのはそのとおりだ。
だが一方で、一つの作業を完了までやり遂げていると、次々浮かんでくる行動の予定が片っ端から
記憶されずに消え去ってしまうという、副作用がある。  「あれ? 次に何をするんだったっけ」 である。


かといって、いちいちメモに取るまでもない要件だ。  忘れても大事には至らない。
しかし、次に何かをやろうとしていたことだけは憶えている。  だから、始末が悪い。
これが認知症なら、完全に根こそぎ消去されてしまうのだが・・・。


だから、服のボタンを全部はめ終わる前に、次のことに取りかかり始める。
残りのボタンは、その後にでもはめられるし、途中なのはどうせ憶えていられるから。
しかし数あるうちには、ズボンのチャックを上げ忘れるとかがないではない。  最終点検で気がつくが・・・。


それで一連の作業を、一続きのルーティーンにまとめて、順番通りに行なうよう心がけている。
これなら、慌てる必要はなくなる。  消去可能なメモリーではなく、ROMに焼き付けるようなものだ。
毎日が同じことの繰り返しなら、この方法がいちばん確実で間違いがない。  しかし


間にイレギュラーな予定が割り込んでくると、流れ全体がギクシャクし始める。
たとえば、「今日は病院に行く日だ」 とか 「燃えるゴミを出す日だ」 とかの、連日ではない用事の時。
こういう場合、習慣のなかの一つを無意識に飛び越してしまうことがよくある。  そして、後で気がつく。


致命的なミスではないにしても、些細なことではあっても、やはり何らかのショックは残る。
それを気にしていると、次のルーティーンまで狂い出す。  結局、その一日がスムーズでなくなってしまう。
やはりプロのスポーツ選手が言っていた、「引きずらない」 ことの重要性を感じる。


それとは別に、ルーティーンを随時組み直す柔軟さも、なくしてはいけないと思う。
「ルーティーンなど必要ない!」 と豪語する人には、しょせん無縁だろうが。
ルーティーン実施中だからといって、頭が休んでいるわけではない。
常に 「手抜かり」 はないか、後ろを振り返っている。

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